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Week5 人との交流とSNSの魔術について

こんにちは!

今回は新しい人と交流する機会が増え、SNSを交換する頻度も増えてきたことについて危機感と違和感を感じているのでそれについて述べます。
字数削減のため、常体で記述します。


1.マレーシアでの交流とSNSの役割

先週のnoteでも言及したが、マラヤ大学では留学生向けのサークルが5つあある。私はそのすべてに参加しており、授業で仲良くなった友達とご飯に行ったり、イベントやボランティアに参加したりなど交流の機会が日本にいるときより増えた。

問題は参加した後だ。
ほとんどの留学生がSNSの交換を要求してくる。そのほとんどがインスタグラムだ。たまにWhatsappもあるが、インスタが圧倒的に多い。アクティビティ中ほとんど話してなかった人からも「交換しない?」とたずねられる。

それだけではない。同じマラヤ大学の留学生であろう人から勝手にフォローが来ることも多い。おそらくおすすめに出て来たのでフォローしているのだろう。

私は本当にこの人と交流したいと思わない限り交換を自分からお願いしない立場で、日本ではそんなにすぐインスタ交換にいきつくことはあまりなかったわけだから、こっちに来てからこのスピード感にかなり驚いた。もちろんお願いされたら、とはいえ嬉しいので快く交換するが、フォロワー数が社会的なステータスの一種の指標になりつつある風潮をダイレクトに感じている。

彼らのSNSを見ると、自分が主役で、今、どこで、何をしているかがよくわかる写真が次から次へと流れてくる。本当に「今、ここ」を重要視している人が多く、実際に集合写真やポートレートを撮った場合はすぐに送ってほしい旨の要求がくる。

旅行の写真、クラブの写真、アクティビティの集合写真、友達との写真、、、
情報の渦は人々に何をもたらすのだろうか。

2.SNSの魔術と人間の認知

SNSという魔術

SNSを開く。自分が挙げたストーリーにいいねがついてないか確認する。「思ったよりついてない、、、」落胆して友達なんだか知り合いなんだかわからない人のストーリーに目を通す。留学生みんなで旅行をしているみたいですごく楽しそうだ。「なんで僕は呼ばれていないんだろう、、、」部屋で作業をしている自分が虚しく思えてくる。

SNSで恐ろしいのは他人との比較だ。比較は幸福感を奪い去る。

一方で旅行している側の留学生の方はどうだろうか。
SNSを開く。「たくさんのいいねとDMが来てる!!」うきうきしながら、旅行を続ける。

SNSが素晴らしいのは、ドーパミン摂取で幸福になれることだ。

ここで違和感を感じる。インスタグラムは人を幸福にしつつ不幸にもする相反した性質を内包している。「じゃ、プラマイゼロじゃないか?」

それは違う。ドーパミンは極めて一時的な快楽をもたらすホルモンであり、すぐに効果がきれる。人間はさらにドーパミンを求め、SNSをやめられなくなってしまう。実際ドーパミンの過剰分泌は依存症を引き起こす可能性があると示唆されている。そして結局のところ、不幸になってしまう。スマホが登場して以降、世界的にうつ病の患者が急増した。スマホが鬱患者を増やした仕組みとして、人々の運動や睡眠の時間、リアルでの人とのつながりの時間を奪い、生活リズムが崩壊してしまったことにある。

そして、インスタを運営する企業にとっては多くの人間に依存症になってもらうよう企む。広告が売れて、利益につながるからだ。実際、インスタのシステムでは「いいね」を押された瞬間に通知が来るわけではないようだ。じらしてじらして、ドーパミンが最高潮達するようなタイミングに調整されているらしい。

現代を生きる我々はドーパミンに甘えすぎているのではないか。音楽を聞けばドーパミンは出るので、四六時中イヤホンをしていたり、誰にも明かしたことがないようなことをいいね欲しさでストーリーにあげたり、甘いものをたくさん食べたり、、、

これらのせいで本当に集中しなければいけないことに集中できずにいるのではないだろうか。私も含め今一度我々の生活を見直す必要がある。

人間の認知のシステム

SNSは私たちの視覚における認知に強い影響を与えている。我々は見せるために物事を見るようになり、能動的に「見ている」と思っているものも「見せられたもの」として目に入る。そしてこの情報社会では、否が応でも様々な広告などのイメージが見える。しかしそれらはほとんどすべて見せるためのものとしてある。「見せる」を前提としてでしか、物事を捉えられなくなりつつある。

「見る」ということはその当時の社会情勢や文化に強く依存する。例えば、美術史で説明すると、ルネサンスの時代に確立された遠近法という技術は平面において物事を立体的に見せる画期的な手法として、多くの画家に採用された。物事をあるがままに精巧に書くことこそが美とされ、広く受け入れられていった。しかし、それは遠近法の究極の形ともいえるカメラが発明されたことにより崩れはじめる。人々の遠近法的にものをみたいという欲求がカメラを生み出し、絵画は路頭に迷うこととなる。

それ以降登場したピカソやキュビズムの画家たちは当時はまったく受け入れられなかった。なぜならピカソの絵は大きく湾曲し、人体の構成もありえない配置となっている。これは彼が、遠近法をもとにした透視図法という考えから離れ、あらゆる視点から多面的に見た対象をひとつの平面のキャンバスに落とし込んでいるためである。当然この時は、遠近法の世界がまだ美しいという考えが強かったため、ピカソの視点が脚光を浴びるのはずいぶん後になってからだ。

何がいいたいのかというと、自分の見ることはそのときの社会で受け入れられているものや当時の美的価値観のフィルターを通してでしか見えないということだ。

今のインスタを見て欲しい。見られたくないのにあげる人はいないだろう。「見せる」ためにあげている。その見せるためにあげているものは、その時美しいと思われている価値観や文化に乗っ取られているのではないだろうか。時には写真を編集し、事実をゆがめて美しく「見せる」ためにあげられる。あげられるものも、ありのままのものは少なく、非日常や美しいところだけを切り取られたものばかりではないだろうか。

私たちが見ているものは、切り取られたごく一部の美しいと思われている「見せるための」ものにしか集中しない。ほとんど視覚が支配し、他の感覚と圧倒的に切り離されてしまっている。「見せる」で覆いつくされた社会の中で惑わされず、物事の本質を見抜くためにはどうすればよいか。今一度考える必要がある。

3. どうSNSと付き合っていくか

上で偉そうに語ってはいるが、自分もそれらについて知識として知ってはいるものの、うまく実行できていない。だからこのnoteは自分への戒めの意味も込められている。

個人的に本で得た内容や自分の経験からSNSとどう付き合っていくかを以下にまとめる。

  • ストーリーや投稿は関わりたい人のものしかみない。

  • 1日のすべてのSNSの合計使用時間は制限アプリを使って1時間未満にする(Youtube, Slackなどのビジネスコミュニケーションツールを含む)

  • 比較によって不幸をもたらすことを避けるために、自分の投稿・ストーリには極力他人・自分を乗せない

  • あくまで交流のツールとして使うので、交換した人にはメッセージを送って、対面で会えるような機会がないか探る。

以上が実践中のことだ。特に3つ目に関しては、自分の美的感性で美しいと思ったものや共有したいおすすめの本、場所、知識や経験あげている。自分のインスタがちょっと特殊なのは比較による不幸を極力避けるためだ。変な人だとは思わないでほしい笑

だが、とりわけ時間の部分に関しては必ずしも毎日達成できているわけではない。今日を境にもっと厳しくしていこうと思う。

今日も見てくれてありがとう!!以下の参考文献であげる2つの本はまじでおすすめです!ぜひ読んでみてください!

参考資料

①アンデシュ・ハンセン(2020)『スマホ脳 』 新潮社.
②ジョン・バーシャー(2013)『イメージ 視覚とメディア』 筑摩書房.
見出し画像:「SEIYA|冒険と創造」さんのイラストを活用



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