見出し画像

『北の岬』ある至高の愛の軌跡

発表年/1966年
日本人の「私」が2年の留学を終えてパリからの帰途、船内で日本へ向かうスイス国籍の修道女、マリ・テレーズと運命的な邂逅をするところからこの話は始まります。
マリ・テレーズの信仰する宗派は言葉の上での教義ではなく、自ら弱者のもとへ赴いてその人たちの日常へ入り込み、暮らしを共にすることで信仰の姿勢を明らかにするといった厳しいものでした。マリ・テレーズが日本へ行くのも、日本でのその仕事のためなのです。信仰以外のことではまだ子どもと言ってもいいようなあどけない姿を見せるマリ・テレーズに、「私」はなぜこの宗派に入ったのか、と尋ねます。それに対するマリ・テレーズの返答はこうです。

「貧困や無知や病気を根絶するのは、政府の仕事かもしれません。でも、私には、そうであってもなお、私たちがそこにいって、それにたずさわることが必要だと思えるんです。それは、何というか、ただ結果から見るだけではなく、そうした生き方として必要だ、と私には思えるんです」

短編集『北の岬』新潮文庫/北の岬 より

途中寄港したベトナムの、マリ・テレーズに誘われて行った彼女の仲間たちが生活する場所で、「私」はその苦しみを目の当たりに見せられることになります。
「私」には日本に残してきた婚約者がいました。2年の留学生活を経て婚約者と久しぶりに会うことは、婚約者(直子)はもちろん、「私」にとっても喜びのはずでした。けれども日本へ向かう船内で共に過ごすうちに、「私」の気持ちはマリ・テレーズに傾いていくのです。

とここまで読まれた方は、テレビの二時間ドラマなどにありがちな三角関係を想像されるかもしれません。しかし、辻邦生さんはこの物語を、そうした方向へは向かわせません。焦点が当てられるのはむしろ、「私」ではなくマリ・テレーズのほうなのです。直子という婚約者の存在も、この物語の中ではさほど重要ではありません(それは、一般的な恋愛ものと比べてというほどの意味です)。
帰国したのちも、直子と一緒にいながらも「私」のマリ・テレーズへの思いは募るばかりです。直子もそれを敏感に感じ取って涙しますが、「私」にはどうすることもできません。マリ・テレーズのほうはどうなのか、「私」が思うほど「私」のことなど覚えてもいないのではないか? そんな懊悩を抱きつつ、「私」はマリ・テレーズが暮らす北の町へ、彼女の気持ちも顧みず尋ねていきます・・・

少しストーリーを紹介し過ぎてしまいました。
この『北の岬』は加藤剛主演で映画化されていますが、さすがに原作のままでは弱いと思われたのでしょうか、主人公が自動車技師になっていて、疲労のために自動車事故を起こして神経科の病院に入院していたことがあるという設定になっています(原作では学生の頃に若さ故の神経衰弱で自殺未遂の経験があったことになっています)。他にも細かな脚色があるのは仕方のないことでしょう。

辻邦生さんは小説やエッセイの中でよく《生》とか《愛》について語っておられますが、この作品も表面的な三角関係に終わらせることなく、より深いところでの《至高の愛》といったものを追求したものでした。その意味で、主人公は「私」ではなくむしろマリ・テレーズだと言えるかもしれません。求めているものはわかりますが、僕としては何となく切ないものを感じたエンディングでした。
映画は見たことはありませんが、そのあたりをどう描いているのか、興味のあるところです。


【今回のことば】

戦争の無惨な犠牲となって死んでゆく人があるようなとき、その人たちに対して、あなたの生は無益だった。こんな死に方は犬死なのだ、運が悪いんだ、と言うほかないとしたら、どうでしょう。でも、人間の生とは、そんなものじゃありません。そんなものであってはならないんです。よしんば、今この瞬間に死ななくてはならないとしても、(人は生きたという)それだけで完全にみたされているはずです。 (*( )は補足)

短編集『北の岬』新潮文庫/北の岬 より

「北の岬」収録作品
・河出書房新社「辻邦生作品全6巻/3」1972年
・新潮文庫「北の岬」1974年
・筑摩書房「筑摩現代文学大系〈87〉北杜夫・辻邦生集」1976年
・中公文庫「辻邦生全短篇 1」1986年

使用画像/OSCARによるPixabayからの画像


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?