9月のエッセイ

祝日、昼間の住宅街。それにとても似つかわしくない、爆音をたてて走る二輪車。誰がどう見ても二人乗り用でないそれは、原付二輪車くらいの大きさで、少し古びたアンティーク調のボディには、日の丸がはためいていた。乗車しているのは細身の黒いパンツに白いTシャツ、黒いキャップといった、いかにも現代風の若者。私の目に映る光景の中で、その日の丸二輪車だけが圧倒的に浮いていた。きっとあれは老人を祝うためのもので、彼らはタイムマシーンを使って、大正か昭和そこらから持ってきたのだろう。
ー「祝日」ー

言葉の魔力。言葉はその本義以上に威力をもって、我々に印象を与える。言葉は誕生してから今まで、人々に使われていくほどに、その威力を強めてきたのか。それでは1000年後の言葉は、今よりもさらに強力なインパクトを我々に与える存在となっているのだろうか。なんとなく心配になり、それを弟に言ってみた。すると、「言葉は概念だからな。」と彼は言った。つまりはそういうことだろう。
ー「言葉」ー

PM22:23。ほとんどの店がシャッターを閉めた後の商店街。帰宅者の通り道にもなるために、明かりはまだついていた。そのため人通りもそれなりにあったにも関わらず、そこは全くの無音だった。まるでボリュームを0にしたテレビ画面越しに見ている映像のような、その街とそこに生きる人々の瞬間を、鮮明かつスローモーションに描いていた。数人で歩く学生、帰路につくサラリーマン、塾帰りの高校生、店の古びた看板、シャッターの前に置かれたゴミ、それらが何か綺麗に見えたのは、それらが紛れもなく生きているからに相違ない、と思った。
ー「商店街」ー

自転車で駅前の百貨店へ整髪料を買いに来た。駐輪場に自転車を止め、エレベーターの方へ歩く。エレベーターの前まで来ると、私を乗せずして扉が閉まり、それは階上へ行ってしまった。仕方なく隣のエレベーターが降りてくるのを待つ。階段を使うか迷ったが、エレベーターが降りてくる方が早いと思われた。私の隣に老人が来て、同じくエレベーターを待っていた。それから間もなく扉が開いて、50代くらいの婦人が2人降りてきた。2人とも買い物カートを押しており、少し降りるのに手間取っていた。2人とも降りきると、私は先にエレベーターに乗った。老人は乗り込む前に、入口横のパネルを見ながら自分の行き先が何階にあるのかを探している様子だったが、程なくして乗り込んできた。私は自分の行き先が何階かいまいち把握してなかったが、とりあえずは扉を閉めるボタンを押して、適当に階を押した。目的の店と違うフロアであれば、そこからまた移動すればよいくらいに思っていたからだ。老人はというと、先ほどの時間では目的地を確認しきれなかったのか、フロアボタンを押しあぐねていた。エレベーターが動き始めて、老人はようやく私の1つ下の階のボタンを押した。そして前を向いて到着を待っていた。私はその一連の動きをただ見ていた。程なくしてエレベーターはその階についた。扉が開くと老人は、こちらを向いて少し手を上げ、微笑で「お先に失礼。」と言った。私は少し驚き、咄嗟に会釈を返した。すぐに老人は降りて行った。なぜ老人は声を掛けてきたのか。私たちの間に会話は一切なかったが、共にエレベーターを乗ったことに何か意味があったのか。真相は未だ不明だが、私はそこに自身と他者との隔たりに対する意識の世代間差を感じた。つまり、近頃感じることの少なくなった、人と人とのつながりを感じたのである。そう思うと、ボタンを押しあぐねていた老人に全く声を掛けなかった自分が、いかにも現代の他人に無関心な若者代表であるような気がして、恥ずかしくなった。
扉が開いたので、エレベーターを降りてスロープを歩き、フロアへ入った。目的の店は、その1つ下の階だった。
ー「老人」ー

(あとがき)
初めてエッセイを書いてみました。稚拙ですが、どうかご一読ください。
情景を思い浮かべながら読んでいただけると幸いです。

2019/9/22/ケビン




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