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北斗に生きる。-第3話-

七月上旬、樺太といえどすごい猛暑である。
川の温度が十度以上になり、川の中に一時間くらいいても寒さを感じないほどである。

産卵のためそ上する樺太鱒が暑さのため川上に行けず、日中は木の陰や小川の川口に涼を求めて、体を休めている。夜になってからまた上流の産卵場所に向かうのである。

たまたま昼休みにヤスを持って川に行く。河向いの小川まで行って驚いた。川原の石のように見えたのは総て鱒である。小川の流れのように三角形に浮かび、背びれと尾びれを動かして休んでいる。数はおよそ千匹ほどである。ただ呆然として眺めていた。あのうまい鱒を何とかして捕りたい一心に、家まで走る。親父が使っていた流し網を仕掛けて追いこんだ。何百もの魚が一気に網に体当たりする。網はひとかたまりになり川下に押し流された。でも引き上げてみると十五匹ほどかかっている。魚をはずし仕掛ける何時の間に先程と同じように魚が並んでいる。今度こそと思ったが魚の数には負けた。

二・五キロの魚、三十匹ほど運ぶのに二時過ぎまでかかったため、親父は「今迄何をして遊んでいた」と小言である。「魚をとっておそくなった」という。「魚を捕るより仕事しろ」といっていながら、近所の親父達とオレの捕ってきた魚で焼酎飲みを始める。ほぼ出来上がり帰るとなると「マア帰りに一匹ずつ持って行きな」なんてことをいう。ずるい親父だと思った。
でもこれが近所と和を保つやり方であったのだろう。

七月十五日、鱒のスジコやゆで卵などを持って、兄達二人がいる上敷香の軍隊に、最後の別れの面会に向う。長兄は北緯五十度、ソ連との国境まで三キロの気屯(ケトン)にいた。
次兄は、上敷香の本隊にいつでも出撃出来る態勢でおり、民間人でも面会に行くことができ、最後の別れの水盃をした。

翌日、長兄の面会を申し込んだ。丁度、今すぐケトンに行く車があるからと、乗せてもらう。本隊からの連絡が通じ、三十分ほどで到着する。三年間会っていない兄が出迎えてくれた。元気な陸軍兵長の立派な姿である。
三キロくらいでソ連軍である。民間人はいなく軍隊の街である。兄も十月除隊するので、心配するなといわれ、安心して帰宅する。別れる時、長兄の目に光るものを見た。おそらく最後の別れとお互いに思った。

いよいよ入隊する日がきた。
小高い丘から、生れ故郷の住み順れた我が家と、広々とした畠などを眺め、これが最後の見収めかと、二、三分立ったままだった。
当時やっとバスが通るようになっていた。バスといえども燃料は木炭、時速二十キロくらいである。部落はずれに二、三十人の方々が見送りにきてくれた。つたない別れの挨拶を述べ、バスに乗り込んだ。通いなれた風景を見ながら来し方を思い出していた。

(つづく)

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読んでいただきありがとうございます。
このnoteでは、戦争体験者である私の祖父・故 村山 茂勝 が、生前に書き記した手記をそのまま掲載しています。
今の時代だからこそできる、伝え方、残し方。
祖父の言葉から何かを感じ取っていただけたら嬉しく思います。

小俣 緑