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『地球にちりばめられて』著:多和田葉子(講談社)

この話は何語で書かれているのだっけ? と何度も反芻した。

いや、まぎれもなくすべて日本語なのだが、デンマーク語、ドイツ語、英語、フランス語…といった多言語がまさにここでも「ちりばめられ」て、脳内で忙しく翻訳しながら読まねばならない本である。それが面倒ではない、なんとも不思議な読書体験だ。さらには

「言語は人間を幸せにしてくれるし、死の向こう側を見せてくれる。」

こんなセリフが空気のように飛び出す世界。主人公Hirukoは、留学中になんと自分の国が消えてしまい、帰る家を失い、移民として三か国をさまよう女性である。

Hirukoはテレビ番組に呼ばれ、彼女が自分で創ったという「パンスカ」という言語で話す。言語学を学びデンマークに暮らす青年クヌートは彼女に興味を持ち、意気投合するようになる。「自分と同じ母語を話す人間に会い、母語で話したい」という彼女に、クヌートは人間としても魅かれていく。そうして二人は「幻の鮨の国」の住人を探す旅に出る。さらにはアカッシュ、ノラ、テンゾ(ナヌーク)と語り手が移り旅の同行者が増えていく。一見ちらばっているようで、筆者は緻密に言語と人を繋ぎ合わせ物語を展開させている。

一体彼らは誰によって「ちりばめられている」のだろうか。Hirukoの母国が消えた理由は語られないし、断片をつなぎあわせてHirukoが目的を果たしていく単純な物語ではない。他の人物がHirukoの旅に絡んでいく過程で語られる人生のキーワードにはやはり言語があり、言語によって取り戻したい何かがあった。それはテンゾもいう「第二のアイデンティティ」とも言えるものだ。

「かぐや姫」「鶴の恩返し」などの母国の昔話をパンスカで語り聞かせる仕事に就くHiruko。鮨、出汁、シニセ・フジ、原発。「スシ詰め」「出る杭は打たれる」と随所にちりばめられた表現で、Hirukoの母国とはどこなのか、読者は早い段階で気付くだろう。こういう近未来が来ないとも限らない、そう想わせるリアリティも留めている。

クヌートが〈ネイティブは魂と言語が一致している、と信じている人がいるが、それは迷信だ。常に新しい言葉を探している非ネイティブの方が本当に語彙が広い〉と考える場面がある。私たちは狭い島国の仲間内で互いによりかかり合っているに過ぎない。大陸に放り出されて初めて自分の母語の心もとなさに気付くのだろう。筆者は、言語に鈍感な私たちの、アイデンティティの脆さを問いただしている気がしてならない。

しかしHirukoは母語で話す相手がいなくても、「パンスカ」を話し通じ合おうとする。そこには辛さや空しさよりもむしろ、パンスカを通して言語を見つめ直し、普遍化させ、自らを再構築させようとするしなやかさと自信を感じる。これが私たちの未来の在り方だとも言うように。

Hirukoたちが六人目の旅人Susanooにたどり着くとき、モチーフとなるのは「浦島太郎」だ。ゆっくりと時を越え、人間を幸せにするための再生の旅は「死の向こう側」まで続くのだろう。

さて、そこでHirukoは、クヌートたちは、一体、何語で語るのだろうか。期待もまだまだちりばめられている。


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