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「ページターナー」小説『PACHINKO(パチンコ)』の魅力

■「そんなに有名だったとは・・・」

久々に「まとまった感想を書き留めておきたい」という本に出会った。「まとまった文章を書きたい」と思っていた頃に、ちょうどこの本に出会い、突き動かされたとも言えるかもしれない。

それは、2017年2月に原作が刊行され、2020年に日本版が刊行された『パチンコ』という小説だ。アメリカでは100万部を突破し、オバマ前大統領の推薦もある。原著のAmazonレビュー評価は13,700件を超え、平均評価は★4.6。柳美里さんが『JR上野駅公園口』で受賞したことでも話題になった全米図書賞の候補作にもなっている。

著者ミン・ジン・リー氏は韓国・ソウルで生まれ、1976年に家族と共にNYに移住した。2007-2011年に日本に在住していた経験も持つ。本書は大学在学中の1989年に着想を得てから、およそ30年近くの時を経て刊行された大作だ。

…といったこの本を輝かしい経歴を、私は全く知らずに手に取った。きっかけは親しい友人たちのSNSの投稿。違う国で暮らす友人や、日本に暮らす友人それぞれがSNSにこの本をアップしていて、興味惹かれたのだった。

読む前に知っていたのは、

「在日コリアン一家の物語」

「1910年の朝鮮半島から始まり、大阪や横浜、NYが舞台になる」

ということくらい。

逆に言えば、それだけで「読んでみたい」と思う何かが私の中にあったのだろう。家族にしろ、友人や隣人たちにしろ、たくさんの登場人物が織りなす群像劇ものが私は好きだ。それが土地や時代をまたぐものであるならば余計に。映画でいえば『Love Actually』はふとした時によく観たくなるし、江國香織さんの『薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木』や有川浩さんの『阪急電車』も繰り返し読み直したくなる。

■「ページターナー」たる所以

『パチンコ』上巻あらすじはこのような内容だ。

日本に併合された朝鮮半島、釜山沖の影島。下宿屋を営む夫婦の娘として生まれたキム・ソンジャが出会ったのは、日本との貿易を生業とするハンスという男だった。見知らぬ都会の匂いのするハンスと恋に落ち、やがて身ごもったソンジャは、ハンスには日本に妻子がいいることを知らされる。許されぬ妊娠を恥じ、苦悩するソンジャに手を差し伸べたのは若き牧師イサク。彼はソンジャの子を自分の子として育てると誓い、ソンジャとともに兄が住む大阪の鶴橋に渡ることになった……。(Amazonより)

あらすじを読むだけで、各登場人物のことをもっとよく知りたくなる。だが正直なところ、上下巻もある大作なので、読み始めてみて挫折する可能性もあると思っていた。ところが、解説の渡辺由佳里さんもおっしゃっていた通り、まさに読み出したら止まらない「ページターナー」で、気づけば一気に読み終わっていた。

(「ページターナー(page-turner)」は「ページをめくらせるような本」という意味合いらしい。言い得て妙だ。)

一気に小説を読み終わるのは久々の体験だった。子供の頃、読み始めた本は何があっても絶対にその日の内に読み終わらなければ気が済まなかったし、それができるだけの気力・体力もあった。最近は時間と体力が追い付かずにいる。

それでもなおこの本に魅せられたのは、四世代にわたる家族一人ひとりの生き様はもちろんのこと、1910-1989年までの朝鮮半島、日本、アメリカの情景が当時の歴史的背景も交えて綴られていることもある。

そしてその文体が、ウェットになりすぎない、どこか突き放したような観察者のようなドライさを兼ね備えていることも大きな理由の一つだろう。

■『想像の共同体』『アイデンティティが人を殺す』

この本がもともと英語で描かれていることが、この「ドライさ」にどこまで影響するのかはわからない。ただ、この本の中でベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』から「国民(ネーション)」の定義が引用されているのを読んだ時、読み進める中で感じていた著者の「観察者のようなドライさ」の根源が少し垣間見えた気がした。

『パチンコ』の中では、より詳細な引用がなされているが、ここでは手元にあるNTT出版『想像の共同体』増補版のカバーにある言葉を載せておきたい。

国民はイメージとして心の中に想像されたものである。/国民は限られたものとして、また主権的なものとして想像される。/そして、たとえ現実には不平等を搾取があるにせよ、国民は常に水平的な深い同志愛として心に思い描かれる。この想像力の産物のために、過去二世紀にわたり数百万の人々が、殺し合い、あるいは自らすすんで死んでいったのである。

戦禍にあった1910-1989年の朝鮮半島、日本、アメリカ。その時代に生きた人々の人生は「国」というものと切っても切り離せない。それはもちろん現代に生きる私たちにとっても変わらない。だがこの小説は、在学中に著者が受けた特別講義のテーマであった「在日(ザイニチ)」を切り口にすることで、個人の生が「国民」としての生と不可分であり、それに多分に翻弄されるものであることを如実に描き出している。もっといえば、この「国民」という言葉は、「自分は何者であるか」「他者から何者として見られているか」という問いにも置き換えられるかもしれない。

『パチンコ』を読みながら、レバノン生まれでパリに移住したジャーナリスト・作家のアミン・マアルーフ氏の『アイデンディティが人を殺す』を思い出したのは決して偶然ではないだろう。

なかなか衝撃的なタイトルではあるが、ブレイディみかこさんも「まるで『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の理論編」と絶賛している一冊なので、気になった方はぜひ読んでみてほしい。

■20年を経て繋がった記憶

『パチンコ』はAppleでドラマ化されることが決まっており、撮影も進んでいるようだ。公開が楽しみでならない。

また、このnoteを書いていて、もう一つ思い出したことがある。もう20年近く前のことだ。そんなことがあったことすら忘れていたほどの記憶。通っていた小学校の図書室で私は読みたい本はほとんど読み尽くし、何巡目かになった本もあった。その中でも、なぜか心惹かれる本があった。今思うと、その装丁の美しさも理由だったのかもしれない。

それは、『半分のふるさと』。広島で生まれ、戦争の辛苦を経験しながら、終戦の年、十五歳までを日本で育った朝鮮人の作者による自伝だ。

表紙にある花の刺繍が『パチンコ』の上巻の表紙の刺繍とよく似ている。それに気づいた時、「あっ…」と声が出そうになった。20年かそれ以上も経って、点と点が繋がるような体験があるなんて。

とはいえ、優に30年近くの時間を経て生まれ、80年にも渡る一家四世代を描いた『パチンコ』に比べれば、まだまだこれから、といったところかもしれない。

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ありがとうございます。いつかの帰り道に花束かポストカードでも買って帰りたいと思います。