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アブサン【5】


「虜か。俺の場合、取り憑いてるのは悪だ」

ポケットの中に入った紙切れをくしゃっと握る。
彼女の目が、先程よりも濁って見えた。

「取り憑かれるということは、
簡単に離れるなんてことは出来ないんだ」

カン、カラン。
その時小さな鈴の音が店内に響き、扉が開いた。
見知らぬ顔だったが、
誰だかはすぐに分かった。

「櫻子、待たせたな。大変だったろう。
危険な目には遭わなかったかい」

「辰彦叔父さん!来ないんじゃ無いかと思った」

「まさか。約束しただろう」

櫻子の叔父を名乗る人物は、
上品なジャケットに茶色のハットを被っていた。
櫻子は安堵の様子を浮かべ、叔父に近づいて行った。

「このお方は?」

叔父は俺の目を見て、櫻子に問いかけた。

「今まで一緒に居てくれたの」

俺は軽く会釈をする。

「そうか、それは申し訳無かった。
それじゃあ、これからは私が櫻子を見ていますので、
もう大丈夫です」

叔父は愛想の無い俺に対してもニコニコと笑いかけている。
幸せの象徴だ。いけ好かなかった。

「そうですか」

店を出る前に櫻子を一瞥したが、彼女は俺のことなど見ていなかった。
ただ、それに関して未練を感じる暇は無い。
予期せぬ出来事の連続に、すっかり疲れていたのだ。
恐らく再び会うことも無いだろう。
無意識に彼女との差に虚しさを感じ、再び外を歩き出す。

すっかり寒く、暗くなった。
夜空に輝く星は1つも見えず、外灯のみが街を照らす。
まだ白い吐息は出ないものの、手先に冷たさが伝わってくる。
虚無感で溢れていた。
俺が幾ら金を持って、夢や希望を語ったところで、
あのニットの女や、茶色いハットを被った男より豊かな人生など、
一生得ることは無いだろう。
取り憑かれるとは当にこのことだ。
人工的で、窮屈で、つまらない世の中だ。

無意識にため息をつく。
駅の方に歩きながらスマホを開いた。
通話の掛かってきた履歴が10件。
電話番号のみが記されていたが、相手が誰かは想像がついた。
どうやら俺が約束を果たせなかったことは、
既に知れ渡っているようだった。
最後の通知に、留守番電話が入っていた。
あらゆる想定を脳内で駆け回らせて、
俺は再生ボタンを押した。

「田所か。事情が変わった。
折り返してくれ」

内容はこれだけだった。
怒っている様子も無く、
ましてや困った様子も見られなかった。
開口一番に怒鳴られるような不穏は気配は見受けられない。
暫く悩んだが駅に着いた頃、意を決して電話を折り返した。

「…もしもし」

井上と電話をするのは初めてだった。
口調は一定で、依然として感情は伝わらない。

「すみません、俺しくじりました」

「ああ、良いんだ。
寧ろそれで良かった」

彼はタバコを吸っているのか、
息をわざとらしく吐く音が伝わって来た。

「女は来なかった」

安堵した。
俺のミスが、女のお陰でかき消されたのだ。
簡単な相槌をして、この話は終わる筈だった。

「いや、元々存在しなかったというのが正しいかもしれない。
ヘリをこちらに回すという情報もデマだったようだし」

偶然か、必然か、ヘリコプターという単語を聞いたのは
この時が初めてではなかった。
思わず空いていた左手で頭を抑える。
どういうことだ?
頭上のクエスチョンマークが宙で浮かんでいた。

「あの、不躾なことを聞きますが
その女っていうのは一体?」

「まあ、ここまで来てお前に黙っているということも無いだろう。
俺と連絡を取っていた奴は他に居るってことだ。
で、その相手っていうのが」

頭の中で整理するも、追い付けなかった。

「ちょっと待ってください。
女はヘリを乗る予定だったんですよね。
櫻子とは違うんですか」

「櫻子?」

櫻子と叔父と女と井上は、繋がっている。
そして同時に、どこかで途切れている。
そこまで考えて次に頭に浮かんだのは、
櫻子の所在だった。

「お前、何か知ってるのか」

井上の声は届かなかった。
俺は通話を切って、元のバーへと急いで戻った。

叔父らしき男と再び出会ったのは、
高架下手前の信号に差し掛かるところだった。
寒くなったからか、薄手のトレンチコートを着ていた。
叔父は櫻子のスーツケースを転がしながら歩いているが、
予想していた通り、櫻子は隣に居なかった。
赤信号も横切る車もお構いなしに、
俺は叔父と思われる男の方へ走った。

長いクラクションが飛び交う。
ただ事ではなさそうなその様子に気づいた叔父は立ち止まり、
こちらへ視線を向けた。

「ああ、さっきの」

叔父のトレンチコートに、見覚えのあるマークが付いている。

「櫻子はどうした」

「櫻子は帰らなくなったんだよ。
彼女の意思を尊重することにしたんだ」

叔父は慌てているような様子も無い。
俺はスーツケースを指しながら、会話を続けた。

「お前の狙いはその絵画か?」

この言葉に、一瞬空気が固まったのが分かった。

「何故お前が絵画のことを知っているのかね?
あの娘か?それとも井上が話したか」

「おっさん、あんたは最初から櫻子を助ける気なんて無かったか」

叔父がニヤリと笑った。

「君がどうやって奴らを追い払ったかは知らないが、
私は元々、この絵画を手に入れる為に全てを動かしていただけなのだが」

叔父は満足したのか、踵を返し歩き始めた。
最後に一度だけ振り返り、一方的に言葉を投げた。

「私は一生、櫻子を救うことは出来ないのだよ」

追い掛けられなかった。
黒服を着た男が2人、颯爽と叔父を囲んだからだった。
黒服の胸元に、見覚えのあるマークが付いていた。
モノクロで描かれた鶴のような、渋いマーク。
叔父のトレンチコートについた同じマーク。
恐らく存在しなかった女にも、同じマークが付いていた。
俺はもう、心の支えになる拳銃も無ければ、
原動力になるものを何も持ち合わせていなかった。
段々と遠くなる彼らをぼんやり見つめて、それから勢い良く首を横に振った。
だとすれば、俺が行くべきは元のバーだ。
櫻子の居る場所である。




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