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アブサン【6】


そこからバーまでの距離は近かった。
歩きながら、今起こっていることを整理するが、
どうにも追いつかないでいた。
時間を戻し考える。
老人が駅で俺に合図をした時、声を掛けてきたのは櫻子だった。
いや、寧ろ女が存在しなかったのが本当ならば、
老人は櫻子に向けて携帯を掲げたというのだろうか。

思わず立ち止まる。
自分の頭では解決できそうに無い出来事の連続に、
軽い目眩が襲った為である。

『この街を1人で行動するには危険と言われました』

櫻子の声が、そのまま脳内にフラッシュバックした。
彼女は一体誰に言われ、
そしてどうやって伺っていたのか。
辻褄があった。
元々俺は、櫻子に声を掛けられるよう仕向けられていたのだ。

戻ってきたバーはとても静かだった。
一瞬、そこには既に誰も居ないのだと錯覚する程だった。
櫻子はカウンターの中で、頬杖を付いて座っているところだった。
彼女の顔を見て安心したと同時に、奇妙な感情が窺えた。
あれ程に大事していた絵画を手放したことに
悲しみも寂しさも、まして喜びすら感じられなかった。
櫻子は店内に足を踏み入れた俺を見て一瞬驚いていたが、
静かな微笑みを見せて言った。


「貴方には言いませんでしたけど、
あの人は最初から、私を外国に連れて行く気などありませんでしたよ」


え?
俺の呟きは彼女の歩く足音にかき消された。
櫻子は店の電気を初めて付けた。
一瞬で明るくなった店内に、思わず瞳が反応し、力強く瞬きをする。


「あんた、叔父を信用しているから絵を渡したんじゃ無いのか」

櫻子は上品に、それでもそこには意地悪な笑みを含んで笑った。

「だってあの絵は偽物ですもの」

俺は椅子に座るという行動すら忘れ、
立ち止まったまま目をぐるぐると回すことしか出来なかった。

「ここに飾っている絵画は、全て偽物。
叔父が持っていった絵画だって、別に大した価値はありません」

壁に掛かっている絵画を眺める。
全て見た事のあるような絵。
しかし確かに、遥か昔教科書で見た絵画とは
随所が異なっていた。

「叔父は以前より何者かとやりとりをしていました。
そしてその相手に指定された絵画が、
叔父にとって価値のある絵画だと錯覚しました。
その相手が誰だか分かりますか」

彼女の笑みに寒気がした。
櫻子が何者なのか、だんだんと分からなくなっていた。
まるで全てを見越していたような彼女に、
振り回されているのは俺なのだろうか。

その時、俺のスマホから着信音が鳴り響いた。
井上一樹だった。
開口一番の声は、随分と荒れていた。

「櫻子という女が、叔父の姪っ子か」

嫌な予感がした。
井上は櫻子を使って何かを企んでいる。
易々と彼女の所在を明かす気にはなれなかった。

「そいつに探して貰わなければいけない物がある。
俺はそいつと話がしたい」

「櫻子とは、一緒に居ません」

俺は咄嗟に嘘をついた。
井上ではなく、櫻子の肩を持ったのだ。

「櫻子という女に、『アブサン』という酒を探させろ。
今度はしくじるな」


アブサン。
聞いたことが無かった。
彼女にその単語を伝えると、その場を振り返り
棚に並んだ酒を指でなぞりながら辿った。
棚の奥まで物色し始めた為、瓶と瓶が当たる甲高い音が店に響く。
それから彼女は思い出したように、
足元にある小さな床下収納の扉に手を掛けた。

「父の死はきっと、叔父が関係していると思います。
母が亡くなってから、2人の関係はますます悪くなっていましたから」

下を向いたまま呟くので、自然とカウンター越しに身を乗り出すことになった。
床下収納は特別な鍵が掛かっている訳ではなく、金具を倒すと簡単に開いた。
扉の下は、芽の伸びたジャガイモや腐った玉ねぎがそのままになっている。
幸い根菜類ばかりが残っていたので強い腐卵臭は無かったが、
カビ臭さは広まった。
抵抗なく手を奥に突っ込んだ彼女に一瞬驚いた。
彼女が取り出した手には、瓶が包まれていた。

「アブサン、か」

ラベルに書いてあるアルファベットを全て認識する前に、
口先が声を発していた。

「禁断の酒、とも呼ばれています」

彼女は酒の中身を覗き込んだ。
瓶を通して、向こうにいる彼女の顔が映る。
透明な瓶の中に、透明な液体が入っていた。
酒の中に、小さな小さな鍵が入っているのが分かった。
まるでホルマリン漬けのようなそれ。
彼女は無表情で蓋を開ける。

「あの電話は、どなたからですか?」

井上の名前を出すと、特別な反応は見せなかったが
首を傾げなから答えた。

「お世話になっている刑事さんの、知り合いかもしれません」

カウンターに下向きで置いてあるグラスを2つ取り出して、
彼女は酒を注いだ。
アルコールの匂いが広がる。
カラン、という音と共に、彼女は瓶を傾けるのを止めた。
目当ての鍵が出てきた為である。

「呑みますか」

彼女はグラスを掲げた。

「呑めるのか?」

彼女は相変わらず上品に笑う。
それから一方にシロップと炭酸水を加え、カウンターの向こうにいる俺へ差し出した。
彼女は何も入れず、ストレートのまま酒を口にする。

「勿論、飲めますよ」

彼女と俺は、向かい合うような形で椅子に掛けた。


「禁断の酒。アブサンはそう言われています。
だけどそれは毒が入っているからとかそういう意味では無いんです。
人はアブサンに酔いしれます。
虜になってしまうんです。
人間がダメになってしまう程に」

グラスを持ち、濃度の高い酒を嗜む櫻子がとても色っぽく見えた。
目眩を抑えて酒を口にすると、強いアルコールとハーブ臭が鼻の奥にまで広がる。
とてもじゃないが、美味しいとは思えなかった。
顔をしかめた俺を見て、櫻子は微笑んだ。

「今日は叔父に会わないと思ってました。
彼は直接手を下すのが好きじゃないので。
だけど叔父が、父の命を奪ってでも欲しかった物。
父がそこまでして守りたかった物は、何となく想像がついています」

「…金、じゃ無いのか」

櫻子は首を横に振った。

「私の口座には、毎月匿名で大金が振り込まれます。
多分それは、私に示す唯一の愛なんじゃ無いかと思うんです」

彼女は壁に掛かっていた絵画の1枚を外した。
丁度あのスーツケースに入るくらいの大きさだ。
さぞかし有名な人物が描いていそうな年季がかった絵画。
黒髪の女が酒を飲んでいる絵だった。

「この絵も偽物なのか」

俺の問いに、彼女は答える。

「これはピカソが描いた絵の偽物です。
タイトルは『アブサンを飲む女』。
だけど本物の絵にある酒は、緑色。
この絵はほら、先程貴方が飲んだのと同じ、透明のアブサンです」

彼女は持て余した大きさの絵画をテーブルに置くと、
マジマジと眺め始めた。
指先で絵をなぞる。
人差し指のネイルには、小さな石が付いていた。
それから動きを止めて、彼女は透明な酒の部分を爪で引っ掻き始めた。
明らかに後から貼ったような貼り紙がめくれる。
その下に、小さな鍵穴が付いていた。


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