見出し画像

アブサン【3】


「父の遺品なんです。
どうやら悪い人たちが探していた代物らしくて、
ここ数ヶ月、私はずっとその人たちから逃げる生活を送っていました。
今日はようやく外国に住んでいる叔父に預かって貰うことになっていて」

彼女の言う『悪い人たち』は
道理の通じる人ではなさそうだった。
一体その絵画とやらに、どれ程の価値があるというのか。それが不思議だった。
彼女は話を続けた。

「ここは、父が経営していたバーです」

彼女は下を見たままだ。
「していた」と言っていたが、カウンターに設置された棚には
数多と酒が並んでいる。
もう長い間店をやっていないような雰囲気はあった。
しかしこれだけの酒が並んでいて、既に閉店していることに驚きだった。

「突然亡くなったから、何も知らないままなんですけど。
私が絵画を外国に運ぼうとしていることは、
既にあの人たちに知れ渡っていると思います」

彼女の叔父は南米で会社を経営している社長のようだった。
何の会社かは知らないと言った。
この街にはビルの屋上にヘリポートがある。
叔父はそこを使って、櫻子を迎えに来るという。

「あんたは今、1人なのか」

タバコはまだ十分に吸える長さであったが、
なんとなく満足して灰皿に押し付けた。
既に陽は少しずつ傾いてきている。

「母はもう、随分前に病気で亡くなりました。
叔父は私も一緒に外国へ行こうと言ってくれています」

短い返答だったが、彼女の生い立ちに苦労がつきまとっていることはよく分かった。
櫻子の表情は、確かに焦燥していた。

それからは暫く無言だった。
俺はぼんやりとカウンターに備えられた酒の種類を眺めていた。
見たことの無い酒が無数にある。
高い酒など飲んだことの無い俺には、
どれも同じに見えた。

彼女の境遇に、どうしても見放すことが出来なかった。
金持ちそうな彼女と貧乏な俺は対称的だったが、
親の借金で人生を捨てた俺にとって、
彼女の苦労は、ほんの少し俺の影と重なって見えた。

同じ場所で留まっている彼女が寒そうに身体を縮め始めた頃である。
外から、僅かながら話し声が聞こえた。
櫻子と呼ばれる女の顔色が変わった。

「…逃げてください。あの人たちが来ました」

思わず俺も身を乗り出した。
逃げるか隠れるか、既に選択肢は少なかった。
慣れない状況に心拍数が上がるものの、上手く頭を回転させることは困難だった。
返事に迷っているうちに、話し声がだんだんと大きくなっていることに気が付いた。
どれだけ頭の悪い俺も、
『絶体絶命』という四字熟語くらいは知っている。

「易々と武器を使うような相手です。
こんな行き止まりしかない場所で見つかったら、私たちはどうすることも出来ません。
せめて貴方だけでも逃げてください」

「武器?」

俺はようやく、無防備にカウンターに置いていた紙袋を思い出した。
運はまだ、俺を見放していなかったのだ。

万が一、もしかすると助かるかもしれない。
考えるより先に紙袋を開ける。
何重にも包まれている包装紙の中には、思っていた通りの物が入っていた。

拳銃だった。

「どうだ、100万円でお前のボディガードになってやろうか」

良心だけでは無かった。
既に彼女の為に諦めざるを得なかった収入の、元を取る必要があった。
金の為か、それとも彼女の可愛らしさにうっかり負けたのか。

「助けてくださるなら300万で、どうですか?」

相槌の代わりに、強くカウンターを叩いた。
この言葉を皮切りに、俺は考えるまでも無く
店の外へ飛び出したのだった。



薄暗い高架下。
空はまだ赤みがかる程では無かったがどんよりとしていて、
だんだんと夜の支度を始めているのは分かった。

150メートル程離れたところだろうか。
5人で塊となって歩いている集団が居た。
弁当工場にいるような、見るからに悪い連中だった。
1人がスマホを睨みながら、こちらに近づいて来る。
俺は動かなかった。
デニムの後ろポケットに潜めた拳銃が、
全ての勇気を沸き立たせていた。
人を撃つ気は全く無かったが、
俺のような人間が武器を持っていることは
相手にとって予想外で且つ、効果的だと踏んだのである。

「おい」

俺の存在に気付いた1人が、声を掛けてきた。
警戒心を薄れさせるような努力は全く見せない。
威圧のある低い声だった。

「この辺で、でかいスーツケースを転がした嬢ちゃんを見なかったか」

タチの悪い人間は黒いスーツを着ていると思っていたが、
まさにその通りだった。
しかし品の無い彼らには似合わない上質なスーツに、
何故だか少し違和感を覚える。
胸元にはモノクロの鳥のようなマークが付いていて、
その服が何処かから配給された制服だということが分かった。
この連中は、どこかの組織の一員だ。

「…見たよ」

連中が顔を見合わせ、ニヤッと笑う。

「そいつは何処に行った?」

他の奴らより1歩前に身体を出した男が1人、
そのままゆっくりと近付いてきた。
距離を縮められると危険だ。
その動きに合わせて、ゆっくりと後ずさる。
俺はいつでも動けるように、後ろのポケットに手を入れた。

「言わないと言ったら?」

男らの動きが止まった。
ほぅ、という男から漏れた吐息に、
これまでとは違う雰囲気に切り替わるのが分かった。

「お前、やる気か」

一番前に立った男が、笑いながら
ポケットに手を突っ込んだ。
恐怖で思わず生唾を呑む。

前の男はハンドガンを取り出した。
片手に包めるほどの小さな銃だった。

勝った。

俺は身体を前に出すと、
例の拳銃を取り出し、震える両手で構えた。



この記事が参加している募集

スキしてみて

おうち時間を工夫で楽しく

よろしければサポートをお願い致します!頂いたサポートに関しましては活動を続ける為の熱意と向上心に使わせて頂きます!