アブサン【7】
俺は思わず立ち上がると、櫻子の側に立った。
先程酒から出てきた鍵を、穴に通す。
90度回すと、繊細な大きさの扉がゆっくりと開いた。
中に入っていたのは、繊細な大きさのダイヤモンドが付いた指輪だった。
「やっぱり…」
彼女は指輪を手にすると、心なしか悲しそうにそれを見つめた。
「叔父が欲しかったのは、これです。
母の形見です」
櫻子は、指輪を見つめ続けるだけだった。
そこまで高そうにも無い小さな指輪だ。
それでも櫻子は、大事そうに指輪を掌に載せていた。
「叔父が欲しかったのは、母の心なんです」
返事の仕方が分からない。
戸惑いながらも、櫻子の目を見つめることしか出来なかった。
鈴の音が聞こえたのはその時である。
扉の開く音。
入ってきたのは井上と、薄手のロングコートを着た若い青年。
そいつが一体何者か、瞬時に判断できた。
刑事だ。
予期せぬ出来事に、思わず体が反り返った。
「笹塚さん?お久しぶりです」
櫻子が反応したのは刑事の方だった。
「スーツケースにGPSとは賢かった。
お陰様で、ようやく捕まえることが出来ましたよ」
井上はカウンターの椅子に腰掛ける。
刑事はそのまま、入口の近くに立っていた。
「井上一樹、皆あんたを恐れている。一体何者ですか」
井上はニヤリと含み笑いをした。
「何者でも無い。
だから皆、得体の知れない俺を怖がるだけだ」
井上は一本タバコを取り出すと、
ライターで火を付けた。
話し始めたのは隣に立っている刑事だった。
「私は長年、櫻子さんの叔父に用事がありました。
詐欺、悪徳商法、金の為なら人殺し以外はなんでもする連中でした」
刑事は2歩程俺たちに近づき、話を続ける。
「私がすることは2つ。
奴らを捕まえることと、それから指輪を探すこと。
これを依頼したのは、櫻子さんのお父さんです」
櫻子にも初耳のようだった。
久々に感じた父の影に、思わず涙を溜めながら聞いていた。
「お父さんは、いつかこうなることを知っていましたね。
それでも櫻子さんの身の安全には確信があった。
何故だか分かりますか?」
櫻子は俺の方を見た。
俺は櫻子と目を合わせられず、少し斜めを睨むだけだった。
「櫻子さんが、お母さんにそっくりだからです」
櫻子は、何も言わず静かに涙を流した。
鼻をすすることも、声を発することも無い。
ただ静かに涙を流した。
その瞳を一度見てから、目を離すことが出来なくなった。
刑事は被っていた帽子を取って、
ゆっくりと口を開いた。
「確かに貴方の叔父は悪徳な商法を続けるヤクザでした。
しかし、彼が人を殺したのは恐らくたった一度だけ。
貴方の父だけです。
彼は金ではなく愛に狂って、人を殺めたんです」
櫻子は刑事の話を聞きながら、大事そうに指輪を包んでいた。
「命が短いと悟っていた母が遺したのは、たったこの指輪1つだけ。
父はこの指輪を、どうしても叔父に渡したく無かったのだと思います」
どこにでもありそうな安っぽい指輪。
それを取り合い命を掛ける憎悪と愛の塊。
そして今、その指輪を愛おしく見つめる櫻子。
「井上さんは、叔父と連絡を取り合っていましたね」
櫻子の言葉に井上はゆっくりと姿勢を正した。
「俺は刑事にも叔父側にも顔が効く人間だ。
今回はコイツの味方をしたってだけだ」
井上は簡単に刑事の方を指差した。
刑事は呆れた顔をして、井上の方を見返した。
それから井上はタバコを灰皿に押し付けると、再び俺の方を向いた。
「田所、お前はあの世界にいるべきじゃない。
お前は充分外の世界でもやっていける人間だ」
井上は相変わらず愛想が悪かった。
それでも工場にいた時よりは、悪人顔も薄れて見えた。
井上の言葉に、
俺はすっかり忘れかけていたポケットの紙切れに手をやった。
300万円。
あの世界を脱出する為の小切手が、今ここにある。
「どうだろう、私が仕事探しを援助することだって出来るが」
爽やかで善意を持ち合わせた刑事は、俺に問いかけた。
「いや、良い」
俺の返答に、全員が伺っているのが分かった。
少しの間無言になって、視線が集まった。
俺は櫻子の方に近付き、口を開いた。
「この店は、幾らあれば買えるんだ」
櫻子の瞳が丸くなったのが分かった。
「それじゃあ…3000万でどうですか。
そしたらお酒も絵画も、貴方が欲しいものを全て差し上げますが」
櫻子が意地悪そうに笑う。
「そうか。じゃあもう暫く、俺はあの工場から抜け出せない」
井上は何も言わなかった。
ただ1つ、全てを察したように頷いた。
「私も暫く、このお店を誰かに譲ることは出来ないみたいですね」
俺は黙って頷くと、踵を返して店を出た。
高架下こそ人通りが少ないものの、その道を抜けると
会社帰りのサラリーマンがポツポツと見え始める。
内心とても気分が良かった。
櫻子のセリフが本物かどうか、今はどちらだって良かった。
アブサンに酔っていたのか、
それとも何か別のものに酔いしれていたか。
とにかく、その為だけに生きていきたくなるような
中毒性の高い何かに出会ったのは確かだった。
♢
駅に辿り着いたとき、
改札に入りかけて思わず目を疑った。
どこかで見たような姿に気付かされるまでは
コンマ数秒程のことだった。
あの時の老人だった。
老人はベンチに座ってコーヒーを飲んでいたが、
目が合うと小さく手を挙げた。
俺はもう、老人に歩み寄るしか無かった。
「あんたと櫻子が出会うように指示したのはあの叔父だ。
でもな、叔父にそうさせたのは井上だ」
そういうと老人は、杖を伸ばし俺の太もも辺りをガツンと叩いた。
「何故井上があんたに拳銃を渡したか分かるかね」
「はい?」
まだ後ろのポケットに入っていたおもちゃの拳銃。
老人は鳥の鳴き声のような笑い声を発した。
「あんたをヒーローにする為だろう」
弁当工場で働いていた俺は、
1日で何を得たか。
俺は紙切れを広げると、櫻子が書いた小切手を見つめた。
¥30,000,000−
見たことのない、8桁の数字。
俺は最後の最後まで、櫻子に踊らされていたようだった。
アブサンの酔いはとっくに覚めていた。
すっかり彼女の虜になった俺は、
その姿や瞳から、2度と目を離すことが出来ないのだった。
ー完ー
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