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八女茶(やめちゃ)と        矢部屋許斐本家(やべやこのみほんけ)       ~茶と供に歩んで来た歴史~

 矢部屋許斐本家 十四代 許斐久吉(このみひさきち) 
 福岡県八女市在住

『この記事は、NPO現代喫茶人の会 会報誌第89号
   (2022年7月1日発行)に寄稿した記事です』

八女市(やめし)について 

 八女市は 九州島北部の福岡県南部に位置し、福岡市より45Km、人口は6万弱の地方都市である。市域の多くが山間部で、平野部は扇状地である。
平野部は九州最大の平野である筑紫平野の南東に位置し、筑後川支流と矢部川によって形成された沖積平野となっている。
山間部や平野部の丘陵地帯には茶畑や果樹園が広がり、平坦地は灌漑による水田開発が早くから進み、古代は条里制がしかれた。
 
また丘陵地には 大和朝廷(継体天皇時代)に対抗し戦った筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)の墓とされる岩戸山古墳をはじめとした八女古墳群がある。この古墳群は古代より人々が定住し、かつて筑紫国の中心として栄えたことを示している。
 風土としては肥沃な耕土と豊かな自然環境に恵まれ、茶や苺(あまおう)、電照菊を中心にした全国に有数の農芸都市として知られる。
 
さらに手工芸のまち、職人のまちでもあり、古代より受け継いだ文明の名残か、奈良の正倉院に断簡として残る手漉き和紙や、九万年以上前の阿蘇山大噴火の凝灰岩を使い近世から始まった石燈籠、同じく近世、手漉き和紙を使用した提灯や工芸技術の結集が図られ製作された仏壇などといった多種多様な手工業が江戸時代に産業としての基盤を形成し、いまに至るまで受け継がれてきた。
 
八女市の中心市街地・福島町は天正15(1587)年に筑紫広門が築いた福島城を、慶長5年(1600)年関ヶ原の戦功で筑後一円32万5千石(柳河城を本拠とした)を支配した田中吉政が支城として大修築し、城下町を作った。
福島城は三重の堀によって囲まれ、中堀・外堀の間に城を迂回する豊後別路(旧往還道)を作り、それに沿って町人地の敷地を短冊状に配した地割がなされた。

久留米篠山城に所蔵されていた福島城の縄張り復元図 
(江戸時代初期 田中吉正改修期)

当家は創業期は城下町外の唐人町、江戸末期より現住所(宮野町)に在る

 しかし慶長20(1615)年一国一城令により福島城は破却され、元和6(1620)年田中家の廃嫡により、丹波国福知山藩の有馬豊氏(久留米藩21万石)が新たに北筑後に入り、当地は有馬藩支配下となった。
福島町は城下町時代に主要な都市骨格が形成され、町人地は八女地方の交通の要衝・経済の中心として発展、久留米藩内最大級の商人町として有力な地位を占めた。
また福島町では 農産物の流通加工の拠点であることに加え、積極的な商工業の振興(和紙・茶・櫨蝋・竹細工・和傘・提灯・仏壇ほか)による富の蓄積で、重厚な塗込造の商家が連続する町並みを形成していった。
現在もその町並みは受け継がれ、国選定八女福島重要伝統的建造物群保存地区となっている。



八女茶と矢部屋許斐本家について

旧往還道(豊後別路)より昭和初期外観
旧往還道(豊後別路)より令和四年外観

 当家の創業は江戸宝永年間(1704~1710年)で、「矢部(八女の旧地名)屋」と号し、元禄元(1688)年生れの初代 許斐甚四郎(このみじんしろう)が、八女地域で採れる茶・楮・木炭・茸などの山産物を商った。
また茶は 当時薬としても扱われ、先祖には儒医(医師と儒者を兼ねる)もいた。
四代 許斐養八(このみようはち)の頃は 久留米藩儒合原窓南(ごうばるそうなん)に師事し、享保8(1723)年窓南が八女に隠居した際 近くの農家や商家の子息と供に学び、高弟として、後「雲山」と号して儒医となった。
江戸時代 儒者は漢文を読む為、僧と同じく漢方医学を理解する事ができた。
 
 江戸後期安政3(1856)年 には 長崎で日本茶輸出貿易の先駆けとして大浦慶が英国人貿易商ウィリアム・オルトと茶の直接取引を開始した。巨額の注文に嬉野の茶だけでは応じきれず、慶は九州一円の茶の産地を駆け回った。
もちろん慶は八女にも来ていたと思われるが、当時八女から長崎へ有明海を通る輸出ルートが出来ており、八女の産物は長崎へ取引されていた。
長崎市内に今も残る「筑後町」という町名がその名残である。
産物として茶はもちろん、和紙等もアメリカや中国(清国)に送られていた。
余談ではあるが、現在長崎市唯一の百貨店である「浜屋百貨店」は八女出身の藤木喜平が昭和14(1939)年に創立したことで知られる。
八女と長崎の縁を背景として、当地域の茶輸出は増え始め、国外へ輸出する機会が増えていった。
文久2(1863)年には日本に茶の買い付けに訪れたトーマス・ブレーク・グラバーが長崎に入り、アメリカ向けに筑後茶(当時八女地方で作られていた釜炒り製法の茶)を買い付けた。
当地では長崎での茶貿易を機に茶に特化した「茶問屋」という形態の商売が出来始め、その流れに乗ったのが八代 許斐寅五郎(このみとらごろう)であった。
慶応元(1865)年 寅五郎は現在地(八女市本町126番地)に移り、茶問屋を始めた。現在も当時の建物で営業しているが、表通り(旧往還道)に面して江戸後期~昭和初期までに建てられた主屋3棟、離れ座敷1棟、土蔵3棟、製茶作業場1棟(計7棟八女市指定文化財)からなっている。
 

米カリフォルニア サンフランシスコ向けブリキ茶箱 戦前

 明治に入ると、輸出を急ぐあまり、乾燥不良で出荷した日本茶が輸入国で大きな問題となっていた。明治16(1883)年アメリカは贋茶(粗悪茶輸入)禁止条例を発令、アメリカへの緑茶輸出は良品不良品に関わらず一時的にストップした。
外需頼みの日本茶業界は苦境に立たされ、当地の緑茶輸出も順次脱落した。
この頃八女地方の茶は、大半を「釜炒り製茶」が占め、総じて「筑後茶」と呼ばれていたが、ほかに「星野茶」「笠原茶」「黒木茶」等の地域名でも呼ばれ、名称が纏まっていなかった。さらに当時流行していた本製※(現在の日本茶=蒸し製緑茶)の「宇治茶」や「静岡茶」に生産技術や流通面で大きく差を開けられていた。
福岡県茶業組合の理事であった九代 許斐久吉(このみひさきち)は輸出不振にあえぐ当地方の茶業の行末を案じていた。その打開策として国内販売の拡大を目指す。
八女地方の気候風土に玉露の生産が適していることを見いだし、高品質な玉露生産の為科学的に検証を行い、玉露の品質向上を推し進めた。また流通の面からは「宇治茶」や「静岡茶」を研究し、特産化を進めるべく産地名を「八女茶」に纏め、高品質な本製の量産化に尽力した。
しかし、特産品として地域をまとめ、品質向上を計っていくことは大変な困難を極めた。
 
 その意志は息子の十代 許斐久吉(二代目このみひさきち)に引き継がれる。
契機は大正14(1925)年に訪れ、その年の八女郡福島町(現八女市本町)で行われた物産共進会茶品評会の部で、質・量とも対外的に通用することを確信できた八女の茶業者たちに、二代目久吉(当時八女郡茶業組合理事長)は会合の席で、「八女茶」の名称と特産化を提案、それは満場一致で可決された。
だが間もなくして日本は戦争の道に進み、昭和13(1938)年国家総動員法が制定され、八女茶も統制を受ける。地域の茶業は低迷を辿り、敗戦後GHQの占領政策から離れた後は、再び八女の茶業者たちと供に、茶の品質向上と生産拡大を計っていく。
多くの努力により現在は全国品評会で農林水産大臣賞を制覇する八女伝統本玉露を筆頭に全国有数の高級茶産地となった。
茶と供に歩んで来た当家の歴史は決して順風満帆なものではなかったが、情熱をもって茶業に取り組んだ先祖や地域の茶業者たちに応えられるよう、今後も地域や茶業に向き合い精一杯生きていきたいと思う。


接待棟 饗応用の奥座敷から坪庭を望む