真実の口から考える正しさの"罪"とは。

イタリアと言えば、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?

芸術、食べ物、歴史や伝統に至るまで様々な素晴らしい軌跡を見ることができる国であることは疑いようもありません。
(ヘタリア?知らない子ですね。

イタリアを題材にした映像作品の中で、現在でも色褪せないものの一つに「ローマの休日」という素晴らしい映画があります。
(因みにローマの休日はイタリア映画ではなく、アメリカ映画です。

主演女優を勤められたオードリー・ヘップバーン。
その美貌は映像の中で今尚色褪せることなく、ひときわ輝いています。
(筆者は、ローマの休日を見たことはありません。恋愛ものは苦手。


そんな見たこともない人でも知っている一幕。


男性俳優さん演じる男性が真実の口に手を入れて、手が食べられちゃったと演技をされるシーン。

なんとも不可思議な光景です。
偽りの心があると手を食べられちゃうと噂の真実の口を利用して、女性を欺くわけです。(可愛い嘘といえばそうなのですが。

因みに、真実の口は元々寺院にあった集水器の覆いとして使われていた意匠であったとのこと。手を食べちゃうのは後付けの都市伝説みたいです。

ヘップバーンさん演じる女性は、あまりの出来事に大慌て、最後には泣き出してしまうも、それが彼の嘘だと分かって。。。どうなったのかは、ぜひ映画でご確認ください。


さて、ローマの休日では可愛い嘘だということで「真実の口」に手を食べられなかったわけですが
最近ではネットの「口」にムシャムシャと食べられて大炎上する方々が後を絶ちません。

ネットの炎上の正体は、一人から数人による「私刑」であることが大半であると聞き及んだことがあります。
最近では、もう少し規模が大きくなっているのでしょうか?


昨今、いじめが大人にも拡大しており
子供時代のいじめっ子が大人になっても子供のままに振舞っているような
そんな印象を受けてなりません。

もしかしたら、正義感からそのようなことをしているかもしれません。
「もっとこうすべきだ」「今までこうやってきて上手くいった」
”賢者は歴史に学び、愚者は経験から学ぶ”を真摯に受け止めているとも見受けられるのが恐ろしいところ。(都合の良い解釈もあるとは思いますが。


自意識の正しさ」から、他者を攻撃する。
それが正義であるとまかり通ってしまう世の中になってきました。
公的機関の重要な資料だって、自意識の正しさの外にあるならば内に引き戻すことは正しい行いであることが昨今証明されてしまいました。(それで人が何人亡くなろうとも。

まあ、お国の研究所に属している「頭のいい」人たちですら
自らの「正しさ」に固執するあまり多大なる犠牲を払ってしまったのは記憶に新しい事件だったかと思います。(京大のiPS細胞と双璧を成すかと言われた某細胞のお話。


算数の計算順序や過程を無視することを許容しない教育なんかも
「正しさ」に囚われてしまった結果なのではないかと個人的には思っています。


先ほどのローマの「真実の口」は、偽ったものの手を食べはしますが
偽られたものの「正しさ」までは判断していません。

真実が真実足らんのは、そう信じる人たちによって成り立っている実態があるかどうかに他ならないのではないかと考えています。
つまり、神様を信じたり、幽霊を信じたりする人たちからすれば神様も幽霊もいるし、逆にいないと信じる人たちにとってはいないものであると。

でも、信じてない人たち、または信じている人たちのどちらが「正しい」かは議論のしようがありません。
神様がいることもいないことも証明できませんし、幽霊がいるともいないとも言えません。

なので、ローマの休日で見た男性の行動は、真実の口を信じている人たちが信じている内容の行動を取っているので
男性の思想が真実の口を信じていなくとも、真実の口からすれば偽りにならないから食べられもしないと。
そういう解釈もできるというお話です。
(実際は真実の口は意匠であり、奥はただの壁ですから人間を本当に食べたりはしません。


中々哲学的な話になってきました。


では、真実の口の解釈の「正しさ」はどうやって証明すれば良いでしょうか?

例えば、私が考えるに

”真実の口”と名付けられたそれは無生物、ここでは鉱物であり、鉱物はその表面および表面となり得る中身に対してどのような傷、ここでは顔のような意匠、を付けられてもエネルギー、ここでは生理的熱量を示す、を捕食によって得るという概念は発生しないため、そもそも人間から観測される「食べる」という行為、行動を取ることはない。
よって、そもそも「食べられるという前提認識は正しくないが、男性が食べられないという事象は正しい」

ということはできるかなと思います。

まあ、あんまり美しくないですし、なんだか抜けもありそうですが
そこまで完璧さを求める話でもないのでなんとなくそうっぽいと思えれば良しとさせて下さい。(何でもはしませんが。


さて、論理的な正しさという点において上記は自然法に乗っ取って論じさせて頂きました。
(自然法とは、物事の自然本性から導き出される法の総称の事です。海はしょっぱいとか、人を殴ったらお互いに痛いとか、火は熱いとか、もうそういうものとしか言い様がないレベルの何かだと思って頂ければ大体合ってます。)

では、度々炎上する案件は果たしてどのような哲学が含有されており
その「正しさ」の証明の狭間にどれほどの自然法が内在しているのでしょうか?

これは非常に難しい問題です。
この問題を最上級に難しくしているものの一つは人が持つ感情です。


一つ、例題を出してみます。

ある男性に嫌悪感を持つ女性が第三者から
「彼を邪険にするんじゃない!失礼じゃないか!」と言われた。

上記のような状況をSNSなどで見かけたときの「正しさ」とは何か?を検討したみたいと思います。


1. この女性の嫌悪感は間違っていたのでしょうか?

そんなことはないはずです。
誰しも苦手な人の一人や二人存在しますし、それを他人からとやかく言われたら益々嫌いになるというものです。


2. ある男性が嫌悪感を抱かせたことが間違いなのでしょうか?

それも違います。
相手の感じかは千差万別ですし、何もしてなくても、顔が気に入らない、体臭がきつい、着ている服が相手のセンスと合わない。など、嫌悪感を感じようと思えばいくらでも感じられます。
そして、それは彼自身だけのせいではありませんし、彼自身だけの責任として攻めるべきでもないはずです。


3. 第三者の指摘が間違っていたのでしょうか?

ここも判断が分かれるところでしょう。
男性に近い思想を持っている、もしくは彼に近しい方であれば第三者の言っていることは真っ当に見えるでしょう。

女性に近い思想を持っている、もしくは彼に縁遠い方であれば第三者の言っていることは実に不愉快極まりないことでしょう。

または、第三者の指摘の仕方に問題を見出す方もいるかも知れません。
感情的に怒鳴り散らしているから悪いとか、強めに言って聞かないようならば諦めるための布石だから良いとか、昔こんな風に言われたことあるなーと懐古に浸る方もいらっしゃるかも知れません。


1. 2. 3. と見てきましたがどれも間違いとも正しいとも言えないようです。
つまり、一方にとっては正しいが、他方にとっては間違っている。ので、論理的に0とも1とも言えるような状態です。

この問題の難しいところは、どの立場の人も善悪のどちらとも取れるところです。

状況説明が足りなすぎる感はありますが、文章で示されたら状況は補完するしかありません。


さて、この問題を紐解くためには事実を一つ一つ考えていく必要があります。

i. 女性は、男性に嫌悪感を抱いている。
ii. 第三者は、男性と女性の両方と面識がある。
iii. この場に少なくとも女性と第三者が存在する。
iiii. 第三者が、女性を叱責した事実が描かれている。
iiiii. 第三者は、女性が男性を邪険にしていると考えている。

こんなところでしょうか?

少なくともここから読み取れるのは
女性が男性を邪険にした事実は存在しない」ということになります。

ということは
女性は確かに嫌悪感を持ってはいるが、男性とはなんとかやっている可能性もあるわけです。

では、第三者が間違っているかと言われると少し考える必要があるかなと。
何故ならば「叱責された」という感情が、女性の言質を歪めている可能性があるからです。

先ほど出した「女性が男性を邪険にした事実は存在しない」というのは
あくまでも「女性の視点から見ているこの文章上に存在しない」というだけです。


ここまでをまとめると
①どうやら女性視点で描かれた叱責のシーンである。
②第三者は実は声を荒げて叱責していないかも知れない。

ということが浮かび上がってきました。

今までを総合すると
この文章に欠落している重要なパーツが分かってきます。

一つ、女性は何故男性に嫌悪感を抱いているのか。
一つ、女性は男性を邪険にしたのか。
一つ、女性は男性に対して話し合いを行ったのか。
一つ、女性は第三者から叱責を受けたのはこれが初めてなのか。


「正しさ」を判断するには、これらの情報も加味する必要があります。

なので、この設問時点での「正しさ」は「根拠不十分により不明」であり
目にした私ができることは「上記の質問を女性に対して行うこと」になります。

これだけ考えても、状況の正しさ、誰が誰に対して正しいのかまでは分からないのです。

しかし、多くの方が根拠不十分な問題に対して、上述した1. 2. 3.のような形で止まってしまい、結論を急いでしまいます。
誰も本当のことは分からないまま、世間のどこかで出てきた感情論理の結論が一人歩きを始めてしまうのです。

気に入る、気に入らないで語るのは、異性の芸能人の顔が好きか嫌いかぐらいで留めておくべきではなかろうかとも思います。



正しさの導出には本来相応の時間が掛かります。

正しいことが必ずしも良いこととは思いません。
しかし、正しくないことで罪もない人が苦しむのも良くありません。


現代は真実の口に手を入れて、そのドキドキを楽しむといった時間すら惜しい人が多すぎる気がします。
即時即応は、もちろん良さもありますが人間の思考する機会すら奪いかねません。


裁判が数年にも渡る長期間で行われるのは、正しいことは何か。を、事細かに詰める必要があるからだと思っています。

研究なんかも、数十年、物によっては数百年の歳月を掛け、代替わりしながら一つの物事を明らかにすることが必要なことだってあります。

ビジネスのように来月どうなっているかも見えない世界で即時即応で戦わなければならないこともあります。


できることならば
感情的になる前に少しだけ立ち止まって、どういうことなのかを考えてみて欲しいと願って止みません。

権力に物を言わせて弱者を脅す前に
強者から暴力を振るわれて仕方ないと思う前に
自分とは一切関係ない物事について、第三者の立場から感情的に言葉を発する前に。


正しさで人を断罪する前に
少しだけ考えを巡らせて頂ければと思います。(自戒を込めて)

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