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心のままに進むか、理性に従うか、その決断にゾッとした。


ほんの感想です。 No.29 夏目漱石作「それから」 明治42年(1909年)発表

ある人を思い焦がれている状況で、「相手も自分のことを思っていた」と知ったときの幸福感!しかし、そのような喜びも束の間、これからの二人の道は、何度シミュレーションしても、不幸の谷へと向かうばかり。何も考えられなくなった瞬間、魔が差したように、ある選択をし、自分ながらにゾッとした。夏目漱石作「それから」には、そんな恋による衝動の怖さが描かれていました。

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「それから」の主人公、長井代助は、学校を卒業後も、無職のまま、父親の支援で気ままな生活を送っています。その見返りとして、いずれ何かを命じられることを予感しながら、父の話を受け流してきました。しかし、三十歳になり、兄や兄嫁である義姉からも、「あなた、お父様のお金で今まで遊んできたじゃないの」と、父の勧める結婚話を受けるよう迫られています。

そんな代助が、仕事に行き詰まり大阪から帰京した、友人の平岡夫妻と再会します。かつて兄弟とも感じられた平岡と代助でしたが、今は、埋めようのない心の隔たりがあります。

それは、現在の平岡が、「食べることを目的とする仕事」を得ることに苦しんでいるためです。平岡に対し、「食べることが目的となった働きでは、素晴らしい結果を出せない。だから、食べることを目的には働かない」と述べる代助。二人の間で、このテーマは、議論になりません。

その一方で、代助は、自分の取り持ちで幸福な結婚をしたはずの夫妻について、平岡の妻三千代に対する冷やかさや、三千代の淋し気な様子を感じ取ります。そして、三千代の結婚前から、彼女に恋していたことに気づきます。

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代助の場合、三千代を選ぶということは、家族に不名誉を与え、父の支援からなる経済的な豊かさを捨てるということです。三千代を選択するということが、どういうことなのか。彼は、次のように明確に理解しています。

もし馬鈴薯(ポテトー)が金剛石(ダイヤモンド)より大切になったら、人間はもう駄目である、と代助は平生から考えていた。向後父の怒りに触れて、万一金銭上の関係が絶えるとすれば、彼は厭でも金剛石を放り出して、馬鈴薯に嚙り付かなければならない。そうしてその償いには自然の愛が残るだけである。その愛の対象は他人の細君である。

「恋する」とは、特定の人を思い焦がれる、心の状態だと思われます。それが、相思相愛となった場合、恋そのものではなく、二人の人間が、共生を選ぶのか、選ばないのか、という別の問題を生むようです。

好き合っていて、共に暮らしたいと考えても、法律や倫理観から、それが社会的に認められない場合があります。内容に違いはあっても、認められない場合があることは、「それから」の時代も、現代も同様と思われます。

代助は、恋による衝動で、とんでもない選択をしてしまった気がします。しかし、実は、それが心なのか、脳なのかは不明ですが、彼が、心底、欲したことのようにも思えます。恐るべし、恋の衝動。

ここまで、読んでくださり、どうもありがとうございました。

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