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芸術作品とポルノグラフィは同じなのか

はじめに
2019年に、日本赤十字社は献血を呼びかけるポスターをweb漫画とのコラボで作成した。そのコラボ相手となったのは、『宇崎ちゃんは遊びたい!』という漫画であり、ポスターには主人公の宇崎ちゃんが、胸を強調するような構図で描かれている。このポスターをめぐって、SNS上では激しい議論が生じた。たとえば、この絵は過度に性的なものであり、赤十字のポスターとしてふさわしくないという意見や、「環境型セクハラ」という言葉が飛び交った。大阪大学教授の牟田和恵は、「宇崎ちゃんのポスターが抱える問題がわからない人々は、女性差別の問題がわかっていない」 と辛辣なコメントを残している。
このような根拠を持ち出して、宇崎ちゃんポスターを批判するとき、そこにはある前提が存在している。その前提とは、宇崎ちゃんというキャラクターが「性的対象物」として描かれており、性的対象化をすることは女性差別である 。そして、女性差別というのは倫理的に不正であるという前提である。
本稿では、宇崎ちゃんポスターが不正であるのかという問いは取り扱わない 。本稿においては、上述した前提を認めつつ、女性を性的対象物として表象する芸術作品についても同じことが当てはまるのかについて検討する。換言すると、ポルノグラフィと芸術とが区別可能であるか、両者の間に倫理的な区別はあるのかということである。というのも、性的対象化することが不正であるという前提は、とりわけポルノ批判の文脈で用いられるためである。また、区別がないとすれば、芸術作品もポルノと同様に倫理的非難の対象となるのかについても検討する。
その際、以下のような手順をとる。最初に、ポルノグラフィの定義を紹介した後で、ポルノグラフィの倫理的な悪さについて説明する 。続いて、芸術作品にもその悪さが当てはまることを確認する。ここまでで、芸術作品とポルノグラフィの間に倫理的な区別がないことを確認する。最後に、「制度としての美術館」という概念を用いることで、芸術作品をポルノグラフィから切り離す試みを行う。

定義
最初にポルノグラフィの一応の定義について確認する。リーによると、ある人Sがある対象xをポルノグラフィとして扱うとき、以下の4つの条件を満たしているという 。

(i) xが何らかの伝達資料(写真、文章、パフォーマンス)のトークン(token)である。
(ii) Sはxによって伝達される内容によって性的に刺激されたり、満足したりすることを欲求する。
(iii) もしSがxによって伝達される内容が以下のような意図を持ったものであるとSが信じるならば、その信念はSがxの内容に関心を向ける理由の中には含まれない。すなわち、Sとxの主体との間の親密さを助長する意図を有していると信じる場合である。
(iv) もしSの欲求、すなわち、x によって伝達される内容で性的に刺激されたり、満足したりしたいという欲求が、その内容に関心を向けるSの理由の内にもはや含まれていないとしたら、Sがxの内容に関心を向けようとする欲求はあったとしてもわずかなものである。

(iii)の条件は、ポルノグラフィを親密な人(例えば恋人など)との間で交換される性的な手紙や写真と区別するものとして与えられている。(iv)の条件については、本稿において重要なものとなる。というのも、この条件は、マースが指摘するようにある物に芸術的な価値があるとすると、その物はポルノグラフィとみなされないと解釈できるためである 。事実、リーはこれらの条件を提示した後に、ポルノグラフィとポルノグラフィではないものの例をあげている。その際、「芸術作品における裸体の写真はポルノグラフィではない」ものとして扱っている。
驚くべきことに、ポルノグラフィ批判を展開する論者は芸術作品をその批判対象にすることは少ない。その一方で、彼女たちの批判を考慮すると、芸術作品も批判対象となることが明らかになる。そこで、次節では彼女たちのポルノグラフィ批判をいくつか紹介し、その批判が芸術作品にも当てはまることを指摘する。

搾取論
ポルノグラフィの批判者は、それが搾取的(exploitative)であることを根拠にして批判する(搾取論) 。その際、ここでの搾取とは何を意味しているのかを確認する必要がある。論者によって、その定義は多種多様であるが、ファインバーグとウェルトハイマーの定義を採用したい。というのも、彼らの定義はクックが評価するように、「搾取が不公平(unfairness)と、何らかの利益のためにしばしば他者の脆弱性(vulnerability)を利用する」 ことを含むものであり、「有用で直観的に(intuitively)魅力的」 なためである。その定義は以下である。

ある集団や個人を搾取するとは、その集団や個人におけるある特定の諸特性(characteristics)や諸事情(circumstances)を利用することによって、不公平な仕方で利益を得ることである 。

搾取とは、他の非難に値する行為と区別されるものである。たとえば、搾取と強制(coercion)は別物である 。搾取の伴わない強制もあり、強制の伴わない搾取もある。前者の例としては、私が友達に対して彼が禁煙をしようとするまで口をきかないようにする場合などがあげられる 。後者の例としては、ポルノグラフィにおけるモデルやパフォーマーが自発的にその仕事をしている場合などが挙げられる。このような場合、強制はないが搾取はあると主張することができる。
さて、このことをふまえると、ポルノグラフィはどのような点で搾取的なのだろうか。少なくとも、以下の3つの点においては搾取的であると言われる。

1) ある実在する人や人々の集団が、ポルノグラフィを作成する過程で搾取されている点。

2) 鑑賞者を搾取する点。

3) 鑑賞者による第三者への搾取を推奨し(recommends)、支持し(endorses)、容易にし(enables)、あるいは引き起こす(causes)という点。

具体的に1)については、ポルノグラフィが搾取される側の脆弱性を、搾取する側(ポルノグラフィを作成する人々など)の利益に不公平に変化させてしまうということである。2)については、鑑賞者の道徳的に不完全な選好や感覚につけ込む、あるいはそれを満足させるという形をとる。最後に3)については、ポルノグラフィが性的な隷属を女性にとって望ましいものであり、女性が望んでいると、主張したりほのめかしたり、あるいは前提したりしているということである 。
以上が、ポルノグラフィが搾取的であるとして批判される根拠である。ここでは、この批判が妥当なものであるのかについては検討しない。重要なのは、ポルノグラフィが搾取的な特徴を持つがゆえに批判されているという事実である。そこで、次節ではアレン・ジョーンズの作品であるChair(1969)を紹介し、この作品がポルノグラフィ批判の1つである搾取論を回避できないことを示す。

Chairと搾取論
Chairは女性の等身大に近いサイズの彫刻である。女性は仰向けになっており、両脚は胸に押し付けられている。また、皮の手袋とショーツそしてブーツしか身につけておらず、皮のクッションのようなものが、太ももの後ろ側に取り付けられている。Chairとセットの作品として、TableとHat Standという作品がある。これらはいずれも家具をそのテーマとしている。これらの性的に挑発的な外見は、多くのポップ・アートと同様に意図されたものである。つまり、いわゆる芸術とされる規範に一石を投じるという意図があった。しかしながら、この作品が発表された際、即座に非難の嵐にさらされた。Chairに関しては、酸によって攻撃された。これらの3つの作品は全て搾取的であると批判された。

当時の批判をそのまま持ってきて、これらは搾取的であると判断するのは簡単であるが、ここではあえてそのようなことをしない。前節であげた搾取的であるとされる3つの点のどれに当てはまるか検討することによって、これらの作品がポルノグラフィと同じような意味で搾取的である可能性を指摘したい。
1)の意味で搾取的、すなわち、芸術作品を制作する過程において搾取されているといえるだろうか。この意味においては、Chairが当てはまるとはいえない。というのも、第一にこの作品におけるモデルは実在するある特定の人物であるとは言い難く、第二にわれわれはたいていある個々の芸術作品を鑑賞する際、その製作過程において搾取があったかどうかを判断するのに十分な知識を持っていないためである 。
しかしながら、2)と3)については、当てはまるかもしれない 。2)については、女性を「性的モノ化」(sexual objectification)することが不正であるとする倫理的規範に無自覚な鑑賞者の道徳的な感覚につけ込んでいると理解することができる。3)については、この作品によって鑑賞者は、女性一般を家具、すなわち道具として扱うことを推奨されたり、容認されたりするかもしれない。したがって、2)と3)の意味においてChairおよび他2つの作品が搾取的であるといえる。搾取論において、ポルノグラフィのみならず芸術作品もその批判の射程に含まれる可能性がある。
しかしながら、搾取論においてのみならず、因果論(causal argument)を根拠とする批判についても芸術作品はその射程内である可能性がある。次節では、因果論を紹介した後でそれが芸術作品へ適用できることを示す。

因果論
ポルノグラフィ批判において用いられる因果論は、搾取論における2)、つまり鑑賞者に対する搾取の主張を強化する議論として用いられる 。そのため、因果論を直接的に紹介するよりも、まずは搾取論における2)の議論の問題点を挙げ、その問題点を解消するものとして因果論が用いられることを示す。
2)の議論は、低予算のホラー映画批判によく用いられる。それは以下のようなものである 。

1. スラッシャー映画の製作者は、その鑑賞者の道徳観の不完全性によって利益を得ている。
2. その不完全性とは、とりわけ過激な残酷性や暴力性の架空の描写によって、楽しむということである。
3. 危害を加えられたり、自立が侵害されたりした人は誰もいない。
4. それでもなお、道徳的に不完全な判断力を食い物にするのは不正である。
5. よって、スラッシャー映画やその製作者は、鑑賞者の弱みにつけ込んでいる。

この議論は一般化することができる。つまり、ポルノグラフィもその鑑賞者の不完全な判断力や道徳観につけ込んでいるというものである。
しかしながら、この議論は1と2の前提に問題がある。問題は、行為することが道徳的に不正であるような空想に想像を用いることの道具的あるいは内在的価値はないという想定をしていることである。あるいは、想像に従事することと行為することの間に、道徳的な区別がないことを前提にしている 。この前提を正当化するためには、道徳的に不正な行為の想像は、実際にそのような行為をしやすくさせることを示す必要がある。もしくは、このようなものを楽しむことによって、ある人の倫理的な性格は変化すると示す必要がある。これこそが、本稿における因果論である。
難波はこの因果論をポルノグラフィに当てはめて、以下のように定式化している 。

あるポルノグラフィは現実の事柄に関するある鑑賞者の特定の信念に影響しうる。すなわち、(i)ポルノグラフィが現実の事柄に関するあらゆる鑑賞者の特定の信念の形成に先行して鑑賞され、かつ、(ii)現実の事柄に関するある鑑賞者の特定の信念形成の確率が、ある鑑賞者がポルノグラフィを鑑賞したときに、ポルノグラフィを鑑賞しなかった場合の現実の事柄に関する鑑賞者の特定の信念形成の確率よりも大きいことがありうる。

続いて以下のような具体例をあげている。

たとえば、ある暴力的なポルノグラフィがある鑑賞者にネガティブな影響を与えるとは、そのポルノグラフィを鑑賞した者が、以前にはなかったり以前より強力な女性に対する差別的な信念を形成するに先立ってそのポルノグラフィ鑑賞が行われ、かつ、そうした信念形成の確率が、その鑑賞者がポルノグラフィを鑑賞しなかった場合の確率よりも大きいことを意味する。

つまり、因果論とはポルノグラフィを鑑賞したことによって(原因)、そうしなかった時よりも倫理的に不正な傾向を持った性格を形成してしまう(結果)可能性があるという主張である。こうした点において、ポルノグラフィは不正であると主張される。

因果論と芸術作品
ポルノグラフィ批判における因果論は、芸術作品においても適用可能である。というより、これこそが「人生は芸術を模倣する」(Life Imitates Art)ことの意味であると主張することもできる 。すなわち、芸術作品は人格を形作るというものである。一見すると、芸術は心を豊かにさせるため、よいものであるとも解釈できるが、ポルノグラフィ批判の文脈に照らすと、ネガティブな意味合いになる。つまり、たとえばChairのような作品は、女性に対する差別的な信念を形成する可能性があるため、倫理的非難に値するものであるということになる。その他にも、そのような信念を形成するかもしれない作品は、倫理的非難の対象となる。
とはいえ、この因果論は実証研究に依存するものである。というのも、あるポルノグラフィを鑑賞した後で信念が変化していないということもありうる。このことは、暴力的なテレビゲームが青少年の暴力的な行動にどの程度関係しているのかという問いと同じ類のものである 。
ただし、本稿においてはこの因果論が妥当なものであるのかという問いは扱わない。というのも、繰り返しになるが、本稿の目的はポルノグラフィとある種の芸術作品の間に倫理的な線引きを試みることである。また、ポルノグラフィが因果論によって批判可能であるならば、同じような特徴を持つ芸術作品も同様の理由で批判可能であることを示すのが目的である。
以上が、因果論によるポルノグラフィ批判であり、その批判は芸術作品にも当てはまるかもしれないことを示した。

小括
ここまでの道のりをまとめたい。最初にポルノグラフィの定義をした。そこからポルノグラフィを批判する根拠を2つ紹介した。一方が搾取論であり、他方が因果論である。前者については、ポルノグラフィが有する搾取的な特徴が不正であるため、ポルノグラフィを不正と判断するものであった。しかしながら、芸術作品もポルノグラフィと同じような意味で搾取的なものがあることを紹介した。
後者については、ポルノグラフィを鑑賞したことによって、たとえば女性に対する差別的な信念を形成する可能性があるため、ポルノグラフィは不正であると主張するものであった。また、これも搾取論と同様に、そのような信念を形成する可能性のある芸術作品にも当てはまる批判であることを指摘した。
以上のことをまとめると、ポルノグラフィが批判される時、それと芸術作品の間には倫理的な区別がなく、芸術作品も同様に倫理的に非難されてしまう可能性がある(実際問題、Chairのような作品は批判されてきたという事実がある)。本稿の最後に検討したいのは、芸術作品を救い出すことができるのかということである。そのためには2つの方法が考えられる。1)ポルノグラフィと芸術作品の間に倫理的な区別はない(できない)ことを受け入れつつ、ポルノグラフィを正当化する方法。2)ポルノグラフィの悪さを認めつつ、それと芸術作品の間に倫理的な区別を設ける方法である。
本稿においては、2)の方法、すなわち芸術作品とポルノグラフィの間に区別を設ける方法を採用し、線を引くことを試みたい。

「制度としての美術館」
芸術作品とポルノグラフィを倫理的に線引きする際の手がかりとなるのが、藤巻の論文である。藤巻は論文において、2012年11月から東京都美術館で開催された展覧会『会田誠展: 天才でごめんなさい』を紹介している 。この展覧会は高い評価を得ていた一方で、不快感を覚えた人々が、メーリングリストなどで否定的な感想を漏らし始めた。人々が問題にしたのは、少女が全裸で肢体切断されて首輪に繋がれている「犬シリーズ」、少女が全裸でスライスされたり焼かれたりしている「食用少女。美味ちゃん」シリーズなどであり、ほとんどが「18禁」の部屋にあったとはいえ、女性の尊厳を貶めるポルノグラフィではないかと違和感を表明した。
会田誠展に関する議論は、会田が自身のツイッターで情報発信をしたことにより盛んに行われ、展覧会が終了した後も様々な形で継続していった。たとえば、ポルノグラフィのような作品は、猥褻・暴力的であるために制限がかけられるべきなのか、それとも芸術として認識されるべきであるのかといった点が争点となった。
藤巻は会田誠展と同じような騒動が過去に複数あり、この争点は幾度も繰り返されてきたと指摘しながら、ポルノグラフィという言葉の定義不可能性についても述べている 。つまり、普遍的にポルノグラフィを定義するのは不可能であると主張する。というのは、定義はその言葉が用いられている社会通念に依存するため、個々の文脈の中でどのように用いられているのかという文脈的な解釈と不可分な定義しかできないためである。事実、会田作品に関しても、「おぞましい」とか「変態」といった声は聞こえてきたが、ヘテロセクシズム的な批判はなかった。したがって、ポルノグラフィを定義するにあたって、どのような文脈においてそれが用いられているのかが重要であるということになる。
藤巻はこのことをふまえたうえで、忘れ去られている文脈の重要性を提示する 。その文脈とは、「制度としての美術館」という文脈である。制度としての美術館とは、「近代社会登場以降、美術史を形成する上で大きな役割を果たしてきた制度・期間」 のことである。言い換えると、作品の意味を形成・審級し、個々の作品を美術史に集約させてきたミュージアムの一形態として美術館を捉え直したもののことである。以下、具体的に説明する 。
近代ミュージアムは、近代市民革命以降に誕生した。その目的は、より多くの人々をそこで展示・開示される知識にアクセス可能にすることであった。その結果、帝国主義時代を経て、これまでミュージアムが存在していなかった地域にまで影響力を持つまでに至った。その過程で、「普遍」を標榜する知識を開示し、啓蒙しようとする近代ミュージアムは、これまでのその知識を知らなかった人々の日常世界を包摂していくことになった。
その例として、美術館に置かれる仏像は、芸術作品なのか信仰の対象なのかという争点があった。つまり、仏像は普遍的な美なのか、それともある地域に固有の信仰や因習を優先させるのかといった争点である。結果として、仏像は美術品として美術館に置かれることになった。この一連の流れについて「普遍」と「特殊」の対立の止揚・解消であると藤巻はみている。
近代ミュージアムが定着するには、それを受容する人々の日常生活の文脈を何らかの形で反映させる必要がある。というのも、ただ普遍を標榜する知識だけを展示していても、人々がその知識と無関係であるならば、ただの珍しい物に成り下がってしまうためである。つまり、前提として近代ミュージアムにおいては、普遍と特殊が対立されている必要があり、それらが何らかの形で解消されなければならない。
このことを芸術とポルノグラフィに関する争点に当てはめてみる。芸術家が作るものは、「美」に関係するため普遍的なものである。一方で、展示されるものを受け入れ難いと考える人々がいるという事態は、その展示された作品が特殊性を帯びていることを意味する。そうであるとするならば、どのようにこの対立は解消されるのか。藤巻は以下のように述べている。

そこで登場するのが、「寛容」や「節制」というリベラリズムの社会通念や、それらを指標することばである。受容しがたいと感じる人々が「寛容の精神」を発揮し、「普遍」を支持する人々は「節制」を発揮する¬––つまり、この争点の中で、「人間」と芸術との緊張関係を「人間」こそが引き受けざるを得ないようになっている。これは、まさしく人間中心的な思考方法を、鑑賞者が身につけていく過程である。「普遍」と「特殊」の間にある緊張や両義性を止揚・解消することで、近代的「人間」が誕生してきたのだ。

すなわち、鑑賞者と製作者の双方が美徳を発揮することで、この対立は解消される。その美徳を発揮する過程において、ヒューマニズム的な思考方法を獲得せざるを得ない。そのために、近代的な「人間」が誕生することになる。つまり、近代ミュージアムには、概念としての人文主義的「人間」を生み出す契機があると言われている。
藤巻の論文においては、これ以降ポストモダン的な観点から会田誠展を批評する作業を行なっているが、制度としての美術館(美術館論)という観点から倫理学的なエッセンスの抽出を試みたい。
この美術館論に則るならば、少なくとも美術館に展示されている作品については、ポルノグラフィと倫理的に区別可能かもしれない。というのも、そもそも美術館の目的とは、「人間」を生み出すことであり、そこには普遍と特殊が不可欠だからである。つまり、ポルノグラフィ批判の射程内に位置づけられるような芸術作品も、鑑賞者にとっての特殊な性質を持つものして回収可能ということになる。
美術館論のさらなる利点は、作品に対する鑑賞者の評価や解釈が特権的なものではなく、製作者の意図と鑑賞者の評価の中で生まれる相互的な交わりこそが特権的である点である。「人間」を形成していく際には、製作者が表現する普遍も不可欠であり、鑑賞者の解釈が優位性を持たない。つまり、ある作品を搾取的な作品であると一方的に評価することは容認されない。というのも、その際製作者の普遍や節制というものが無視されているためである。したがって、鑑賞者による一方的な評価は難しくなる。
以上のようなことを考慮すると、美術館論は芸術作品とポルノグラフィを倫理的に区別するようなエッセンスを少なからず有していることになる。

おわりに
本稿の目的は、ポルノグラフィと芸術作品の間に倫理的な区別が可能であるのかを検討することであった。そのため、最初にポルノグラフィの定義を確認し、その定義に沿ってポルノグラフィが持つ特徴と、その悪さについて確認した。悪さの根拠としては搾取論と因果論があった。続いて、一部の芸術作品についてもその悪さが当てはまり、ポルノグラフィ批判の射程内にあることがわかった。そこで、芸術作品をポルノグラフィから区別する手がかりとして美術館論を紹介した。美術館論をふまえると、芸術作品についてはある程度正当化可能かもしれないことがわかった。
とはいえ、限界はある。たとえば、美術館論における「人間」概念はかなり曖昧なものであり、藤巻自身も明確に説明してくれていない。あるいは、特殊というのは必ずしもポルノグラフィ的なものである必要はないのであり、センシティブなテーマを作品にする必要性はないかもしれない。また、そもそも現代の芸術は美術館に展示されているものに限らない。むしろオンライン上にあるデータとしての芸術の方が多いのかもしれない。そうであるとすると、芸術とは何であるかという定義の問題に踏み込まなくてはならないかもしれない。いずれにせよ、本稿で扱える問題はここまでである。

参考文献
・Cooke, Brandon, 2012: “The Ethical Distinction between Art and Pornography”, Art and Pornography, Hans Maes and Jerrold Levinson ed., Oxford: Oxford University Press, pp. 229-253.
・Maes, Hams, 2012: “Who says Pornography can’t be Art”, Art and Pornography, Hans Maes and Jerrold Levinson ed., Oxford: Oxford University Press, pp. 17-47.
・Rea, C. Michael, 2001: “What is Pornography”, Noûs 35(1), pp. 118-145.
・江口聡, 2019:「『宇崎ちゃん』ポスターは「女性のモノ化」だったのか¬¬––「性的対象物」という問いを考える」, 『現代ビジネス』, <https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68733>, 2021年7月19日最終確認.
・難波優輝, 2020:「ポルノグラフィが影響するなら、誰に何ができるのか: 製作と鑑賞の倫理学の試論」, 『美学芸術論集』16, pp. 48-69.
・藤巻光浩, 2016:「『制度としての美術館』と作品の意味・可視性–––森美術館における会田誠回顧展と『ポルノグラフィー』論争–––」, 『日本コミュニケーション研究』45, pp. 47-70.
・牟田和恵, 2019:「『宇崎ちゃん』献血ポスターはなぜ問題か…『女性差別』から考える」,『現代ビジネス』, < https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68185 > , 2021年7月19日最終確認.


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