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人生のハンドル捌きは親との関わりに由来する。踏み出す勇気とはなにか


 新しい環境に身を置くのはとても怖い。見通しがつかない。
失敗が怖い。心無いことを言われたり誤解されて傷つくかもしれない。
いろいろな恐怖があると思う。
 自分がなかなか踏み出せなかった理由は「自分に勇気がないから」だと思っていた。
 いったい恐怖に打ち勝つ勇気とは。考えてみれば壮大なテーマである。

「おまえなんかにできるわけない」というブレーキ

 その原体験としてあるもの。
 自分がなにかを始めるとき「おまえなんかにできるわけない。金の無駄だ、やめろ」と父親に言われ続けた。
 幼い頃は父を見返したい反骨精神ではね返して頑張ってきた。
 それなのに良い結果を受け取った後でさえも父親にことごとく「おまえなんかにそんな価値があるはずない」と罵倒された。
 代表に選ばれた、大学に合格した、賞を獲った、試験に合格した、大企業に就職が決まった…晴れ晴れしいタイミングでさえ見事に父親に否定され、そのくせ他人には娘の自慢話を吹聴していることを知った。私が結果を出せば「そんな子種を仕込んだ俺がすごい」と自慢していることに心底吐き気がした。
 種ってなんだよ、私自身の努力を認めてはくれないのかよ。
 血を吐きながら働き詰めて育ててくれたのは母親のほうで、父親はむしろ私のために積み立てていた学資貯金をギャンブルのために持ち逃げするような人間だったのに。
 そして、そんな自分本位な父親であっても「私は愛されたかった」という気持ちを自分が性懲りも無く持っていたことを都度痛感させられることになるのがとても辛かった。
 そしていつしか私は新しい道を踏み出したい気持ちを封印する人間になっていった。

 

「あなたが大切だ」と伝わるかどうかで人生は変わる

 noteを始めることさえ1年以上躊躇していた。
 自分の気持ちに触れるとどうにもモヤモヤしてきて、下書き保存してお蔵入り。気持ちがまとまらないまま。
 新しいことを始めようとすると「おまえなんかにできるわけない」という父親の呪文がちらついて、途中で下書き保存しては続きが書けなくなる。
 いまだにこんなに父親の発言が自分の行動を制限する威力を持っていることに驚く。
 
 親になる人にどうか気に留めておいてもらいたい。親の発する言葉が子どもの心にこんなにも突き刺さり、長く支配するということを。
 衝動的な発言をしてしまったとしたなら、それ以上に「あなたが大切だ」と真摯に伝えてほしい。子どもはいつかきっと赦してくれるだろう。ただの「子種の主」であっても愛されたいと願うほど、子どもは駆け引きのない愛情を捨てきれないのだ。

 25歳の頃、私はうつ病になった。起き上がることもできずお風呂にも入ることもできず、時計の秒針の音さえ身体に突き刺さるようで24時間ヘッドホンをしてベッドに伏せる毎日だった。
 今までの努力の結果を全て手放すこととなった。絶望した。
 当時のメモ書きに「死にたい」と書き潰したものを後日姉に見つけられ、「寝たきりでもいいから、息しているだけでもいいから生きていてほしい。あなたがいないと想像するだけで私は辛い」と泣かれた。
 母は何も言わずに心配も見せずにこれまで通り淡々とお世話してくれた。
 条件なくただ存在しているだけで良い、病気が治っても治らなくてもいいという態度を一貫して表してくれた家族のおかげで、私は腹を据えて闘病する勇気を得た。ここから本当の自分らしさを探し出す旅が始まった。
 認知の歪みに向き合い、その旅の途中に夫と出会い、断薬することができた。寛解までに6年の歳月が経っていた。

自分の人生を生きるとは、自分の痛みを自分で引き受けること
 

私は今自閉スペクトラム症という発達障害をもつ長男と自閉傾向をもつ発達グレーの次男を育てている。
 正直手がかかる育児ではあるし、もちろんわかったときはショックも大きかった。何をしてもままならない育児の中で、鬱の虫がまた疼き出してきたこともあった。
 でも今はこの子達は私を選んできてくれたのだと思う。
 我が子の問題に向き合う中で、それは私の無意識にも問いかけるような核心をつくようなものだったりする。自分ひとりでは向き合いきれなかった深層まで掘り下げて、息子が鏡のように映し出してくる。
 自分の弱さ、傷つきを受けとめ、それでもいいと思えること。
 努力ではどうにもできない現実もあるが、捉え方で見える世界は変わっていくこと。
 他人から賞賛されるような道は華やかで充実するように見えたが、いざ踏み込めばずっと評価され続けないと存在していてはいけないような気がして苦しかった。私は今おっちょこちょい丸出しで特に取り柄も実績もない平凡な主婦だけど、そう認めた今のほうがずっと周りの人を信頼できるし満たされている。
 ほんのちっぽけな人間だとしても愛されていいんだと肩の荷を降ろすことができた。それは、順調でない毎日でもいつだって我が子は愛おしいと体感させてくれたおかげであり、どんな状態の私でも求めてくれる息子たちの愛のおかげでもある。
 愛は親から子に与えるものとは限らない。子のほうがずっと深く大きい愛なのかもしれないと思う。子どものように無邪気に周りの目も気にしないで素直に愛をふりまけたら。言葉を言葉の通り受けとめられるようになれたら。お世辞やら社交辞令やら予防線を張る技術のせいで疑心暗鬼にもなって、大人のほうが臆病なんじゃないのか。
 たくさんの傷つく経験から人は自分を守るために愛を制限していってしまうのかもしれない。許可制のように与えてくれる者にのみ渡すようになったり、暗号のようにわかりにくく伝わりにくく示すようになったり。

 


エンジンになる家族 ブレーキになる家族。どちらにシフトする?


 私のエンジンは家族からのまっすぐな愛だった。ママとパパがいてくれるだけでいい、大好きと毎日伝えてくれる。頑張る私も頑張れない私も変わらず好きなのだ。
 波風のない満ち引きもない泉のような愛だ。それは父親から課されたブレーキのネジを少しずつ緩めていく。
 このブレーキが愛すべき息子たちに装備されてしまわないように、私はこれから自分の中にいてまだ疼いている痛みに立ち向かうことにした。それはひとりでは向き合いきれなかった、とても深くじゅくじゅくした危険物のような部分である。私の痛みは私が請け負う。無償の愛を捧げてくれる家族のおかげで、私はここで踏み出す勇気を得た。勇気は愛がエンジンだ。
 ゆっくり発進しても一気に加速してもいい。エンジンはいつだって準備できている。
 このエネルギーをこの先も受け継いでいくために、私は勇気をもって自分自身と向き合い、ここに綴っていこうと思う。 



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子どもに教えられたこと

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