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映画レビュー『ミッドナイトスワン』トランスジェンダー映画として括らないで。困難に立ち向かうすべての人へ


私は学生時代から映画にハマり、それ以来「趣味は映画」と、少なくとも7〜8年は言い続けている。めちゃくちゃな映画ファンの方々からすれば、「ふんっ、その程度か」と思われてしまうかもしれないけれど、毎年100~150作品を見続けていて、総鑑賞数は1000以上。この数字は私がこれまで読んできた本の数よりも、SNSでの相互フォローの数なんかよりもぜんぜん多いわけだけど、それだけ映画にハマっている?のに、映画評(映画レビュー)なるものをしてこなかった。

そもそもnoteを書き始めたきっかけが、映画鑑賞記録を残そうと思ったからなのに!!!なんで!

実写版アラジンのレビューをしたっきり、映画考察を避けてきてしまった。(かなり拙い文章なので読まなくて良いですが、過去に書いた証跡を笑)

しかし、本格的にライターを目指すと腹を決めたのだし、せっかく他者と感情や意見を共有できるコンテンツである映画が好きなのだから、書かないわけにはいけないと、意図的に自分を追い込んでみようと思いいたったのだ。

前置きが長くなりすぎたが、今回はその試みの第2弾(一応第1弾はアラジンの考察ー←)。ということで、本題。ネタバレ含むので、まだ観ていない方は注意してください!


2020年9月公開、草彅剛がトランスジェンダー女性を演じたことで話題を集めた映画『ミッドナイトスワン』。第44回アカデミー賞最優秀作品賞を受賞。

2023年5月からNetflixにて見放題配信が開始されたので、改めて観る方や配信で観れるの待ってたよ~という方も多いのでは?

あらすじ

故郷新潟を離れ、新宿のニューハーフショークラブのステージに立つトランスジェンダーの凪沙(草彅剛)。重い前髪のロングへアーとトレンチコート、ハイヒールで自分を武装し、毎日ひたむきに働いていた。

ある日、ネグレクトに合っていた親戚の中学生・一果を預かることに。セクシャルマイノリティーとして常に社会の片隅に追いやられてきた凪沙と、親からの愛情をもらえずに孤独の中で生きてきた一果。

理解しあえるはずもない二人だったが、お互いの人生が重なったことで、凪沙の中にかつてなかったある感情が芽生える。

【予告編】


どうにもできない現実に押しつぶされ、手を噛む一果。

一果の母・早織(水川あさみ)が一果を虐げるシーン、そして、バレエの月謝を払うためにりん(上野鈴華)と闇バイトに参加したものの警察沙汰になり、バレエを習いたくても叶わない現実を目の当たりにさせられたシーン。これらのあと、一果は自暴自棄になり自分の手を噛む。

このシーンを観たとき、私は胸が張り裂けそうで辛かった。痛々しいし、このシーンが印象に残っている人は結構多いかもしれない。

私の場合は、自分と丸っきり重なってしまったからだった。

世の中に蔓延る理不尽や、自分では到底どうにもできないことが襲い掛かってきて、押しつぶされそうになることが私にもある。そんなとき、もうどうにでもなれって、あわよくば当たり所が悪くて死んじゃえって(自分で叩いたくらいだとたぶん死ねないってわかっているけれど)自暴自棄になって、自分の頭や体をひたすら叩くことが、ある(今は夫が必死に止めてくれるが)。

自傷行為をする事でしか気持ちを抑えられない一果が自分を見ているようで、そこから逃げていいんだよ、といういたたまれない気持ちになった。「逃げていい」は私が一番苦しんでいたときに必要としていた言葉なのかもしれない。

映画中では、凪沙がこれまで感じてきた思い通り生きられない孤独を、一果からも感じ取り、強く抱きしめるのだ。そして、凪沙は言う。

「うちらみたいなのは、ずっと一人で生きていかなきゃいけないの。強くならなきゃあかんで」


強くならなければ、とは、凪沙がこれまでたくさんのことを諦めてきた結果出た言葉なのだと感じた。

凪沙に芽生えていく、自分らしさよりも強い母性 

もともと凪沙が一果を預かったのは養育費目的で、最低限の手続きを済ませたら、一果に時間とお金をかけるつもりはなかった。しかし、一果にバレエの才能を感じ取ると正社員として働こうとしたり、栄養のある料理をしたり、一果への愛情を表していく。

そんな中でとても印象的だったシーンが、バレエの先生・実花(真飛聖)から「バレエはお金がかかるけれど、一果には才能があるから【お母さん】も一緒に頑張りましょう!継続です」と言われ、凪沙の顔がどのシーンよりもほころんでいたところだ。

実花の言い方も絶妙で、意図せず思わず【お母さん】と呼んでいた。言い放ったあとに凪沙から言われるまで気づいていなかったし、「あれ、まずかったかしら…?」と困惑している様子もまた良くて。

実花には凪沙が一果のお母さんに見えたから、そのまま言葉として出たのだろう。そして、それは凪沙が一番言われたかったことなのではないか。

一方で、凪沙は一果のために男性として力仕事も始める。ヘルメットに書く名前は、男性だったときのもの。【お母さん】と呼ばれて破顔一笑していたのにもかかわらず、女性として生きたいはずなのに、そんな自分を押し曲げても、一果の夢を叶えさせてやりたい。凪沙の痛いほどの愛情が伝わってくる。この対比が苦しく、美しかったと思う。

「流行ってますよね、大変ですよね。」のセリフに集約されたLGBTQへの間違った視線


一果にバレエの才能があると実感した凪沙は、一果にバレエを続けさせるために行動し始める。バレエの月謝やコンクール代、衣装代のために、一般職の面接に行ったり、男性として力仕事の仕分け業務をしたり。

そんな中で私が気になったのは面接のシーンだ。凪沙がトランス女性だと気付いた面接官のおじさんがこう言う。

「流行ってますよね、大変ですよね。LGBTについては僕も研修で勉強してますよ。」

こういった態度をとってしまう人も一定数いるのだろう。

LGBTQに関することは昨今「発見」されたかのように問題化しているが、以前からずっとLGBTQとして生きる人はいたし、さまざまな人が自分らしく生きたいと声を上げ続けていることを知らないといけないと思う。

たとえば、インターネットの発達以前からトランスジェンダーとして生き、2000年から大学教授として活躍している三橋順子さん。(私は大学で彼女から「ジェンダー論」という授業を受けたことがあり、そのときにはじめてトランスの歴史に触れた。)

2003年に日本で初めて性的マイノリティを公表したうえで、世田谷区議会選挙で当選した上川あやさん。

彼女たちのほかにもトランスジェンダーの権利のために活動している人はずっと存在したのだし、声を上げていない人もずっと闘ってきたのだと思う。

トランスジェンダー問題は「流行っている」のではないし、そもそも流行り廃りがある一過性のものではない。

さらに、トランスの人々のみが体験しうる特殊な問題ではないという意識も必要だと思う。社会で弱い立場に置かれた人々が体験しやすい問題であり、社会で暮らすあらゆる人の問題だと思うから。

「この子からバレエを取ったら何も残らない」何者かにならないといけないプレッシャー


映画中で最も母性を持ち娘を思っていたのは凪沙だろう。一方で、一果の友人であるりんの母親(佐藤江梨子)は、自分の夢を娘に押し付け、娘自身には向きあおうとしない。ケガをしてバレエを続けられなくなったりんに対して放つ「この子からバレエを取ったら何も残らない」。自分の価値が認められず絶望したりんは、パーティー中のビル屋上で、バレエを美しく踊り、華麗に飛び立ってしまう。

毒親として映るりんの母親だが、彼女もバレエの世界で活躍することを目指して頑張っていたのだと思うし、同じく母親からバレエで期待されて育ったのかもしれない。何者かにならないとという呪いが自分にかけられていたから、りんにも投影してしまったのだろう。

何者かにならないと自分が成り立たないような気がするのは、私にもわかる。昨今では「何者かになりたい病」という言葉もあるし、世間には何者かになりたい人に向けた書籍もあふれている。みんな何者かになりたくて足掻いているのだ。

しかし、自分が目指していたその【何者か】に到達できたとして、それは幸せなのだろうか。きっと一時的な幸せは手に入れるだろうが、それが一生続くとは思わない。さらに上の何者か、はたまた別の何者かを目指し始めて、また足掻くのではないか。

これは個人の思考や家族間の問題に収まらず、社会的な構造の問題だと思っているから、りんの母親を責める気にはなれない。りんの母親も足掻いて苦しんだ一人なのだと思うから。

だからこそ、私はりんの母親に声を大にして伝えたい。「人は存在するだけで価値がある」「ありのままの自分を認めてあげてください」と。自分を許すことが、りんを許すことにもつながったと思うから。

承認欲が肥大化して辛くなってしまう自分への自戒も込めて。

賛否両論を呼んだラストシーン トランスジェンダーは悲劇の象徴なのか

いろんな方のレビューで触れられていることが多いのが悲劇的に描かれたラストシーン。つまり、凪沙が性適合手術を受けたものの、術後ケアを怠った結果、最終的に命を落とすという結末のこと。

映画の中では、凪沙が「女になったはいいけど、サボったらこんなになっちゃった」と一果に告げる。詳しい説明は映画中ではないが、小説版では「手術部分が壊死し、常に発熱しているようになって数カ月が過ぎた」と書かれているそうだ。そうなった原因は「術後ケアをしなかった」ためとのこと。

しかし、性別適合手術の専門医によると、凪沙のようにアフターケアを怠っても、皮膚が壊死して死に至ることは、現実的には起こりづらいそうなのだ。誇張して悲劇的に描くことは、トランスジェンダーを悲劇の象徴として「消費」しているのではないかという意見も生まれている。

とはいえ、映画という多くの人の目に触れるエンタメに昇華させ、トランスジェンダー問題を考えるきっかけを与えた点では良コンテンツと言えるのではないだろうか。

しかしながら、注意したいのは、私は26年間生きてきて現実でトランスの人々と対話したことがないことだ。それは相対的にトランスの人口が少ないから出会わなかった可能性もあるし、出会っていても生まれたときの性として接してしまい気づかなかった可能性もある。

つまり、トランスの人々が本当に直面している困難を私はまだ知らないのだ。この映画に出てくる凪沙のモデルとなったトランス女性はいるのかもしれないし、映画を作るにあたってトランス女性に取材したそうなので、一定数のトランス女性の意見は反映できているのかもしれない。しかし、凪沙はトランス女性の代表ではないし、映画を観たからといってトランス女性を「理解」したと思うのは危険だ。現実には自分の思いを発せない人が存在することも、筆舌に尽くしがたい言葉が常に存在することも忘れてはいけないと思う。


【参考文献】
映画『ミッドナイトスワン』の結末や、性別適合手術の描写をめぐる賛否両論から考える | ハフポスト アートとカルチャー (huffingtonpost.jp)
・青本柚紀、高島鈴、水上文編集「反トランス差別ブックレット われらはすでに共にある」現代書館、2023





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