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仏教って哲学なの!?

哲学だと聞いてから、私の人生の中でポイントになっていた話と仏教が結びついて、なんていうかとってもスッキリした話。

きっかけは松波龍源さんと深井龍之介さんとの2人の話を聞いて、凄い面白いなー!と思ったところから始まります。ニューズピックス の a scope という音声番組で2人がお話していたのですが、具体的なことは番組を聞いていただくのが1番ですし、細かいことは置いといて。(無料で聞けますし興味がある方はそちらで。)

松波龍源さんは仏教を現代に“使える”ようにする、と話されていて、現代という視点から仏教を解釈し、その中からよりよく生きるための思考法として“実践”出来るように活用しようと話されていたのです。仏教は宗教ではなくて、あくまで思考法・哲学ということなんだなーということがとても伝わってきました。深井龍之介さんはコテンラジオっていう番組を別でされてて、リベラルアーツの観点から歴史を学ぶ楽しさを伝えてらっしゃるんですが、仏教の祖としての釈迦は、自分を神格化するな!っていっていたらしく、その点からも宗教じゃないんだよってことを話されていました。

ということで、色々な視点があると思いますが、ここではあくまで宗教ではなく、哲学としての仏教として考え、私がスッキリした内容をメモしておこうと。

余談として、じゃあなんで仏教が哲学的なものではなく、宗教的な認識で捉えられるようになったのかと考えると、大乗仏教の衆生を“悟りに導ける“存在としての仏陀という解釈が、衆生を“悟りへと救う”存在としての仏陀という解釈になり、神のような存在に繋がったのかなー、とか思ったりしました。そんな感じで日本では法然とか親鸞とかの考え方につながって念仏を唱えれば救われるみたいになったのかなと。中国では玄奘三蔵がいますし、歴史の中でどのように仏教が変遷してきたのか、政治との関係とか、色々あるんだろうなぁーという感想でとりあえずw

さてさて、じゃあ哲学としての仏教の考え方が私の経験とどう結びついてスッキリしたのか。

◯矛盾について
普段生活していたら矛盾って感じると思うのですが、わたしも自分の中の矛盾を感じてこんな自分はダメだーみたいな自己嫌悪をしたことがありました。例えば、この人を大切にしたいなーと思っているんだけどめちゃくちゃ腹立つこともあって、腹立ってる自分ダメだみたいな。厳密にいうと矛盾とはちょっと違う問題のようにも思いますが、大切にしたい気持ちと憎いという気持ちが同居しているので、心に矛盾があると感じていましたし、どっちが本心なんだろ?みたいなことも考えてました。そういうことは他の人もあるんじゃないかなーと思います。

で!
私の救いになったのは、宮崎駿さんの風の谷のナウシカ!の漫画の方!有名な漫画ですが、漫画は読んでなくても映画は知ってる人も多いですよね。めちゃくちゃ心優しい姫様のナウシカなんですが、お父さんが殺された時に怒ってそこにいた敵国の兵士全員殺しちゃうという。これを宮崎駿さんは本の中で「殺すことの痛みがわかった人間だから、それを背負って歩いている人間だから描くに値するんじゃないか」ということを言っていた。純潔であるとか、汚れていないことに価値があるんじゃない、矛盾を抱えたり痛みを知っていたりすることが大切だと。漫画の最後でも清浄と汚濁こそが生命だと。印象的だったのは「人間って動態で、静的な存在じゃない。だから同じ人物でも愚劣な瞬間があったり、実に思いやりに満ちたり揺れ動いているものなんですよ。」っていうのがありました。私は「あぁーそれでいいんだ。大切にしたいという気持ちと憎いという気持ちはどちらも存在していていいんだ。そしてその二つの気持ちを受け入れて歩いていけばいいんだ」と、思ったんです。ナウシカで描かれていることはとてもとても大きな話ですが、私は普段の生活の中にある相反する二つのものが同時に自分の中にあることも受け入れることが出来る様になったんです。

という自分にとっても大事な考え方が、実は仏教という哲学の中にもあったんですね!

それは、中道!

なんだ、中道か・・

と思われる方もいるくらい、割と仏教といえば当たり前な考え方かもしれませんが、この内容がストンと腑に落ちたのです!中道は辞書的に言うと「対立または矛盾しあう両極端の立場を離れ、両極端のどれにも偏らない中正な立場を貫くこと」という感じですが、なるほどねーと思う一方で、なんでそれが重要なん?とも思いませんか?
はっきり言うと、どちらの立場も取らないってだけで中途半端だ!とか、中正な立場ってだけで対立も矛盾も解決してないやん!って思えちゃう。

でもこの中道にとても納得感を得られたのです。

例えばこんな風に考えてみたのです・・
AさんとBさんの意見の対立があるとする。
AさんにはAさんの意見になった過去の経験や体験という原因があって、BさんにはBさんの意見に辿り着いた過去の経験や体験と原因があった。それぞれの過去の経験という“原因”があって、AさんとBさんの意見という“結果”として現れてきたということ。だからそれを批判したり否定してもしょうがない。だってそれぞれに育ってきた環境や価値観があって、そこには善も悪もない。そこにあるのはそれぞれの過去という“原因”によって生まれたAさんBさんであり、“結果”としての今のAさんBさんなのだから。時代が変わればそれぞれに考え方は違ったでしょうし、生まれる場所によっても違ったでしょう。また、出会ってきた人々によっても変わるでしょう。もしAさんがBさんの人生を追体験してBさんと同じ立場になったら、Bさんの意見を否定出来るでしょうか?それはとても難しいことのように思います。だからこそ、それぞれがそれぞれに“在る”ということを受け入れるしかないと。

現実にはここからAさんとBさんの立場からどのような意見の落とし所を探るかとか、今回はこういう軸の考え方だからAさんの意見にしましょうとかって話が進んでいくと思うのですが、まずはAさんの意見もBさんの意見もそれぞれを認める。で、今の段階で必要な意見はAさんの方だからAさんの意見を採用しましょう、とかってなるんだと思います。でも時間が経って状況が変化したらBさんの意見に乗り換えるかもしれない。だからBさんの意見を採用しないからってBさんがダメなわけじゃない。

だから、中道って・・
AとBの間に立つ
じゃなくて、
AとB両方を認める
ってことなんだなと思ったんです。

だから最初に話していた自分の中に矛盾というものがあっても、それぞれを認めて良いんだという考え方に繋がったんです。

実は、今回の松波さんと深井さんの話の中に、具体的にこんな話が出てきたわけではなくて、色即是空と空即是色の話や、形而上(非言語認識)と形而下(言語認識)みたいな話があって、それぞれに二面性の話があったんですね。それらを聞いていてこの中道の立場というのがぼんやり見えてきて、最後に仏教の世界には“区別はするが優劣はない”という考え方があるのをを聞いてそういうことか!と思ったんです。

まとめると、
仏教が哲学と聞いて、一つの考え方として意識してみた。結果として、自分が大切にしていた宮崎駿さんのナウシカのエピソードから、矛盾や対立への捉え方の問題と繋がった。その考え方とは、矛盾、対立、二面性みたいなものは否定するものではなく、同時に存在しているものであって、両方とも認められるもの。そしてそこに区別はあっても優劣はなく、その時々によって揺れ動いているものだ。ということ。

結果として私はこんなことを考えたのです。
今回のことは私の解釈であり、私がこのように影響を受けたという話なので、松波さんと深井さんの話がそれぞれの人にとってどんな影響があるのか?それは千差万別だと思います。でも仏教を哲学として考えてみると、仏教って面白い!って思いました。

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