周りのことなんか気にせずに、思うままに行動してみよう(『荘子』大宗師篇)
今回取り上げるのは『荘子』大宗師篇からの言葉。
直訳的には、時期を失うのは賢者のすることではない、という意味。
一見これは「時がきたら逃さずに行動せよ」という意味に見えますが、実際はむしろ逆です。
つまり、タイミングを見計らって一喜一憂するのは賢者のすることではない、外部の要因は気にせずに、自分の思うままに行動せよ、ということですね。
この箇所は「真人(しんじん)」についての話題となっています。
「真人」とは道を極めたすごい人のことです。
いわゆる仙人みたいな人をイメージすると近いと思います。
「真人」は万物と一体化するほどの境地に至った人なので、その心身は外部の影響を受けません。
失敗しても後悔しませんし、成功しても得意になったりはしません。
辛いことがあっても受け流しますし、嬉しいことがあっても落ち着いたままです。
このような人は高いところに登っても恐れませんし、水の中にいても濡れたりせず、さらには火の中に入っても焼けません。
心頭滅却すれば火もまた涼し、というやつですね。
ものすごいスーパーマンのように見えますが、これは道の境地に至って世界と一体化したからこそ言える比喩なのです。
自分と世界が一体化するということは、自分と自分以外との境目がなくなるということ。
「自分=世界のすべて」という図式で考えると、個人の成功や失敗は些細なことですし、個人の感情の揺らぎなどは尚更でしょう。
さらに、世界と一体化したということは、自分の肉体の制限を超越したということでもあります。
自分が世界という概念そのものであると考えると、自分の体が濡れようが焼かれようが世界そのものには影響がない。
つまり、実質濡れてもいないし焼かれてもいない、ということです。
一休さんのとんちのような理論にも見えますが、仙人とはそういう人なのだと思います。
さて、「真人」についての概要を確認したところで、今回の言葉について見ていきましょう。
「時を失う」というのはタイミングを逃すということです。
これだけだと「時期を逃さずに行動せよ」という意味になりますが、「真人」の話を念頭に置くと、それでは少しおかしくなってしまいます。
なぜなら、荘子が理想とする賢者は、外部の影響を受けず、何が起きても動じない仙人のような人だからです。
仙人が好機を逃して悔しがる姿はイメージしにくいですよね。
つまり、「時を失う」という意味を理解するためには、もう一歩踏み込まなければなりません。
そもそも時期を逃すのはなぜかというと、良いタイミングを狙おうとするからです。
いくらで買っても良いと思っているならば、たとえ買い物をしたあとでセールが始まったとしても、それほど気にならないと思います。
逆に一番安いタイミングで買おうと考えてあちこちのサイトを比較し、お得なタイミングを見計らって買い物をしたとして、その後でよりお得なセールが始まった場合はどうでしょうか?
私ならかなりショックを受けると思います。。。
これは「損をしたくない」という思考によるものですが、より良いタイミングを狙って行動しようとしても限度があるのです。
未来のことを100%予想するのは無理なので、どれだけ労力をかけたとしても一番良いタイミングに出会えるとは限りませんし、待ちすぎるとそもそもタイミングを逃してしまうかもしれません。
そんなふうに外部要因に振り回されるのは、荘子の理想とする姿ではありません。
荘子が理想とする「真人」ならば、外部の状況は気にせずに、自分の思うままに行動するでしょう。
外部要因に左右されないのが「真人」だからです。
従って、「時を失うは賢に非ざるなり」とは「時期を逃すな」ということではありません。
「真人」にとっては、時を得るのも失うのも大差ないからです。
むしろこれは「時」という外部要因に縛られるのがよくない、ということ。
つまり、タイミングを見計らって一喜一憂するのは賢者のすることではない、外部の要因は気にせずに、自分の思うままに行動せよ、ということなのです。
外部要因は気にせずに、自分の思うままに行動しなさい、という言葉をご紹介しました。
今回の言葉は難解なので、その部分だけで考えると荘子の意図を読み違えてしまいます。
そのため、いつもより長くなってしまったのですが、できるだけ『荘子』の文脈を考慮してご紹介してみました。
『荘子』は比喩表現も含めて面白い本なので、できるだけ本来の意味を忠実に、かつ噛み砕いて説明できるようになりたいなと思います。
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