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ミュージカル映画は突然歌い出さない。

最近の和製ミュージカル映画ってさ・・・・・・

 「日本でもミュージカル映画を!」という動きはメジャーの映画業界でも定期的に出現する。たとえば、去年話題になった映画『アイの歌声を聴かせて』という作品。少し前だとコメディの名手、矢口史靖監督の『ダンス・ウィズ・ミー』など。

 これらの作品には共通点がある。旧来のミュージカル映画を、「理由もなく人が突然歌い出すおかしなもの」として否定し、「突然歌い出すことにその理由を与えている」点だ。たとえば、『ダンス・ウィズ・ミー』なら、突然歌い出す理由は催眠術で説明され、『アイの歌声を聴かせて』であれば、それは登場人物が不完全なAIであることから説明される。

 そういうアリバイを作らないと日本のメジャーでは資金が集まらないのかもしれない。が、私はそんなアリバイを作ること自体、アンチミュージカル映画的な態度だと思ってしまうので正直現状が辛い。

 『君も出世ができる』(1964)のように、日本にも、正統派ミュージカル映画の成功事例はある。

 もし、ミュージカル映画を日本でもヒットさせたいのなら、設定をこねくり回すより、楽曲をこだわったほうが良いと思う。日本のミュージカル映画のヒット歴を見る限り、ヒットの条件は「映画公開前にすでに楽曲が好意的に国民に受け入れられていること」だと思うので(ディズニーとかまさにそう)。

「ごっつ」も「ミュージカル」も突然歌い出さない。

 そもそも、ミュージカル映画の世界でも、登場人物が突然歌い出すということはほとんどない。これが今回伝えたいこと。本題だ。実際には『ブルース・ブラザーズ』のアレサ・フランクリンのように突然歌い出して、びっくりすることもあるけれど、『ブルース・ブラザーズ』はもろに正統派ミュージカル映画ではないので、こことでは目をつぶって欲しい。

 私はそれよりも『ダウンタウンのごっつええ感じ』のコント「お前が歌うんかい」というコントのほうが非常にミュージカル映画的であると考えている。そのわけを説明したい。

 多くのミュージカル映画の場合、登場人物が歌を歌い出す前に然るべきイントロが流れる。そのイントロはシーンの情景にぴったりのインストゥルメンタルである。そして我々視聴者はその音楽を聴きながら、そろそろ登場人物が歌いだすのではないか?と静かに期待をかける。そしてついに期待は達成される。叙情的あるいは情熱的なミュージカルナンバーは常にこのようにして導入される。

 言うなればごっつのコントの真逆だ。ごっつのコントでは、イントロをたっぷりと聴かせて音源で本家の歌唱が流れることを視聴者に期待させる。そしてその期待を裏切ることで笑うを生む。

 一方でミュージカル映画では、イントロをたっぷり聴かせることで、登場人物が歌い出すことを観客に期待させる。そしてその期待に見事にこたえることでミュージカルナンバー特有の高揚感を生み出す。

 例を見ていく。まずは名作『若草の頃』の名シーンだ。ジュディ・ガーランド(女性)が思いを寄せる男性とついに二人きりになる。思いが募る夜。ミュージカル映画ではよくある今にも歌い出しそうなシーンだ。よく聞いてほしい。ストリングスで甘いメロディーが二人の会話の背景に流れている。これがそのイントロだ。実はこのイントロは動画の開始以前からもっと長時間流れている。途中ジュディがハミングを挟んだりするが、なんと計ってみたら3分30秒超あった。ためにためて歌い出す。これが王道である。

 ほかにも有名な『雨に唄えば』の雨の中で踊るシーンなんかも歌い出す前にストリングスの甘いメロディーがたんまりと流れている。いざ歌い出す直前にちょっとハミングするのも定番の流れだ。

 ここで古典ではない最近のミュージカル映画も見ていこう。たとえば、日本でも非常に人気の高い『ヘアスプレー』(2007)で、主人公がイケメン男性に一目惚れするシーン。一目惚れしたなって瞬間から例のイントロが流れ出している。

 次に見ていくのは『ララランド』(2016)のシーン。二人の会話を進める背景で美しいインストゥルメンタルが流れ出し、二人が歌い出すことを観客に見事に期待させている。

 アニメでもそれは変わらない。まずさきにイントロが流れている。

 まとめてみると、ミュージカルナンバーの導入は、

①登場人物の感情が盛り上がる、あるいは劇的なシーンに突入する
②インストゥルメンタルが流れ出す
③ステップを踏み出す、あるいはハミングをする、会話がややリズムに乗ってくるなど音楽に登場人物がノってくる。
④ついに歌い出す

という順序を経ていることが多い。ときにはそれらが高速で行われたり、順序が飛ばされたりすることもあるが、それでもイントロがいっさいないというのが非常にまれだ。それこそ突然歌い出すという印象の強い『アニー』(1982)の“It’s The Hard Knock Life”もイントロがまったくないということはなかっただろう。ちゃんと見れば①②③がほぼ同時に行われている。このように決して突然歌い出すなんてことはない。

 一方で『ダンス・ウィズ・ミー』ではどうだったか。この映画では、音楽が聞こえてくると催眠術のせいで歌って踊ってしまうという設定だった。つまりそもそもイントロという概念は存在しえない。設定上どうしても突然歌い出し突然踊りだすことになってしまう。設定をつくり込むことで、逆に自滅しているようにしか見えない。その点、『アイの歌声を聴かせて』のほうがずっと優れた設定に思える。

フラッシュモブと一緒にするな

 実は『ダンス・ウィズ・ミー』については2年前に絶賛の感想を書いたことがある。よく読んでもらえればわかるが当時と言いたいことは一緒だ。

 近年の和製ミュージカル映画はフラッシュモブすぎる。ミュージカル映画とフラッシュモブはイコールではない。フラッシュモブとは「音楽が流れたら踊らずにいられない人間の街中大量発生」のことである。ミュージカル映画にももちろんこういう異常事態は発生しうる。たとえば渋滞で退屈な時(『ララランド』)などだ。だが、それがミュージカル映画の本質であるわけではない。

 これは『若草の頃』の最も有名なシーンである”The Trolley Song”のシーンだ。待ちに待ったセントルイス万博のプレ公開に人々は浮き足立ち、誰もが歌い出さずにいられなくなっているというシーンである。

 定番のストリングスのイントロが、電車のベルをきっかけに加速、満を持して大合唱が始まるという、アイデアに満ちた完璧な導入であるが、よく見てほしい。主演のジュディ・ガーランドだけ歌い出さずに電車中をうろちょろしている。というのも、ジュディ・ガーランドの意中の相手が電車に遅刻しているからだ。

 そう。このシーンは見事な対位法になっている。意中の人が現れないジュディ・ガーランドの落胆を、周囲の大合唱が際立たせている。

 そしてついに、意中の相手が走ってやってくる。すると今度は周囲の大合唱は終わり、ジュディ・ガーランドの独唱が始まる。そうすることでジュディ・ガーランドの喜びがより際立つ。やがてジュディの歌声に周囲に人が集まる。

 そして再び大合唱が始まる。今度はジュディは満面の笑みで指揮者の真似事をしたりする。さっきとはまったく違うジュディの姿が強烈に印象に残る。すごく楽しいのがわかる。最後はジュディの見事な独唱でシーンは締まる。完璧だ。

 私はこれ以上完璧なミュージカル表現はないんじゃないかと思う。それくらいジュディの感情の変化を見事にミュージカル演出で表現しきっているのだ。そのカギは対位法である。このように対位法をうまく活用すればミュージカルシーンというのはすごく豊かな表現が可能なのだ。一方でフラッシュモブ的なシーンは画一的になりすぎる。そればかりだと、ドラマとしてはつまらなくなってしまうのだ。

さいごに

 自分は真正面のミュージカル映画が見たい。できるんなら作りたいし、作って欲しい。イントロがうまく流すことができればどんな日常のドラマもミュージカル映画だ。音楽だって今やヒップホップもジャズもロックも今は関係ない。フリースタイルにいつでもかませる。道端でラップバトル人を見かける今の日本。いったい何がネックなんだ。教えてほしいと思う今日この頃なのです。


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