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『私というネジ』

シワひとつない黒いパンツから伸びた細い足首の先に黒いハイヒールが見えたから、私はてっきり女性なのだと思っていた。窓際にかけたショルダーバッグのステッチも金の装飾も女性的で品が良い。
別にじろじろ観察しているつもりはなかったのだけど、通路を挟んで反対側の窓際に座るその人の仕草が目の片隅に入るので、何気なく見たらその顔は男性のものだった。
左手首の細身の腕時計は女性物に見えるし、座席に深くもたれかかる姿勢もしなやかな筋が通っていて男性的な雰囲気を一切感じさせない。
その人はふと身を起こし、ショルダーバッグからなにか小物を取り出した。オールバックに見えた髪は長髪で、きっちり後ろでまとめられて布の部品がついた髪留めで止められていた。その使いこなれた感じから、これがその人の普段からのスタイルなのだと思った。

時間にしたらほんの僅かな間だったけど、人の身なりをチェックする失礼な所業に至った我が身を恥じ入る。こんなふうに人から観察されたらどんなに嫌な気分だろう。
窓ガラスに映る自分を見る。
電車に乗り込んだときはまだ明るく山々の輪郭が浮きあがっていた。今はすっかり暗くなり、街灯と重なりながら明るい車内の様子を鏡のように映し出す。

一度ほどいてまとめ直しただけの、クセのついた髪。仕事着の下で一日中の汗を吸った黒いTシャツ。その上に羽織っているパーカーは、更衣室のハンガーの跡が肩の部分にカッコ悪く残っている。
化粧は元々ほとんどしない。唇が乾燥するからリップを塗る程度。鼻元についた跡が目立つので人前で眼鏡はほとんど外さない。見た目をつくろうための武装といえば、かろうじてこの眼鏡が該当するといえる。

明日もまた仕事だというのに、なんでこんな時間にこんなところにいるんだろう。
流れるように走る車両の感覚に身を委ねる。
不思議な行動が唐突に始まったのは、ほんのさっきのことだった。

これと言って特徴も、可も不可もない。ただ番号を振られて働いて生きているだけの存在。それでも、社会人として仕事を持っていれば、組織の中のコマや部品としてくらいの役割は持つ。例えば機械を動かすネジを一つでも無くしたら、ひとまず困るだろう。見つけ出すか、代わりを探さなければいけない。
私というネジは、どのくらいの重要度だろう。

そんなことをふと想像したら、なんだか急に、無性にここでネジのままじっとしていられなくなった。
一旦自宅に帰り、通勤にも使っているリュックから今日の水筒を取り出して流しに置いた。
とりあえず下着とTシャツを数枚、あと充電器をリュックに突っ込んだ。あまり寒くない季節だからかさばらなくて済んで良かったとか考えた。
窓は開けていないけどロックを確認して、カーテンを閉めた。電気をすべて消して、玄関で靴を履く。通勤も買い物もこのニューバランス一足で済ませている。サンダルは置いていく。
玄関ドアのノブに手をかけて、あっそうだと思い付いて靴を脱いでキッチンに戻り、冷蔵庫を開けると冷えたビール缶を一本取ってリュックの隙間にねじ込んだ。
再びニューバランスを履き直して外に出る。
一度戻ってドアノブの鍵を確認した。

どこに向かうかは駅で決めた。
いつだったか観たテレビ番組でサイコロを使って行き先を決めていたのが記憶にあって、その方法を取ることにした。駅前のコンビニでサイコロを買った。期待せずに探したら置いてあって少し驚いた。
この街を走る路線は一本で、東京方面か北国かの二択になる。私は北国に行きたかったから、忖度が働かないように「奇数は東京、偶数は北国」と決めて、サイコロを転がした。
サイを振る、だっけ。サイは投げられた?サイか賽か。そんなことを考えているうちにサイコロは赤い丸、つまり🔴1を出した。

東京行きの切符を買って、自由席の窓際に座った。
反対側の窓際に、黒いハイヒールが見えた。

停車駅に止まるたびに人が動き、混んだり空いたりしながら、ついに私の席の通路側に荷物の多いサラリーマンらしき人が座った。恰幅の良いその姿に隠れて、反対側の窓際の人は黒いハイヒールだけが見えた。スーツ姿のサラリーマンはワイヤレスイヤホンを着けてタブレットを取り出すと、視聴中だったらしいアニメの続きを再生した。

私もそうだ、なにか時間の有効活用をしなければとリュックを開けて、出掛けにねじ込んだ缶ビールを発見した。まずはこれだ。
前席の背もたれから備え付けのテーブルを開いてビール缶を置き、列車の振動に揺れて倒れかけたビールを慌てて取り直し、テーブルの隣に備え付けのカップホルダーを開いて収めた。
そして、リュックのファスナー付きポケットから、本を取り出した。

リュックに常に本を入れて持ち歩く習慣は何年も前から続けている。一人外食や病院の待合室など、ちょっとしたスキマ時間ができたら活字を開いて読む。自宅では音楽をかけたりドラマや映画を流したりするので意外と読書に向かない。
伊坂幸太郎、平野啓一郎、小川洋子、三浦しをん、池井戸潤、佐藤正午…気になる作品を買って読んでは次を買い、繰り返しながら蓄積する。そしていま持ち歩いているのは村上春樹。
ずっと敬遠してきて、そろそろかなと手に取ってリュックに入れてからもなかなか開かなかった。
ビールをくっと飲んで、ページをめくる。読みにくくはない。噂の通りやっぱりセックスの話なんだ、と思いつつ読み進める。
あてのない列車の旅とビールと村上春樹。
今この瞬間のこの身の所在地がなんだか面白い。

東京駅は何度も来ているから、それほど新鮮味はない。旅が始まるのはここからだ。

今引き返したら、まだ間に合う。何事もなかったかのように明日から元のネジに戻ることができる。
その未練と迷いに、私はとらわれなかった。黒いハイヒールの人、アニメの人。サイコロとビールと本。誰もがどこかの一部であったとしても、乗り合わせた瞬間は刺激的だった。

この駅から出る膨大な路線から、サイコロの目の数の候補をあげた。帰宅の方向は選択肢に入れなかった。

サイを振る、だっけ。転がるサイコロがとまるまで、また同じことを考えた。

そうきたか。

終(2,453文字)

第2話


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