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弱さを切り捨てず、互いの欠けを補い合う「大人」になりたい。

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
新約聖書 ルカによる福音書 18章9-14節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

成人式の時期ですね。
18歳成人になって、今年はどうするんだろう、18歳も19歳も20歳もみんな一斉に成人式なんだろうか……と思っていたら、美容師さんが「『はたちの集い』とかいう形で、今まで通り20歳の人たちだけ集まるみたいですよ」と教えてくれました。この時期美容師さん大変だし、一気に3倍の人数が押し寄せたらパンクするだろうから、なるほどそりゃそうだよなぁなどと思いました。

18歳になったら、20歳になったらいきなり「大人」になれるかと問われれば、たぶん誰もが首を横に振るだろうと思います。法的な扱いが変わるだけで、人間の成長というのはそんなに分かりやすい変化ではないですよね。

そもそも「大人」とはどんな人なのか、そこのところも問題です。いろんな観点があるでしょうし、人によって評価も様々かもしれません。

この『深呼吸の必要』(長田弘)という詩集には、「あのときかもしれない」という散文詩が収録されています。
以前も記事で触れました。

この詩では、「きみはいつおとなになったんだろう」という書き出しで始まり、大人になった、つまり子どもでなくなった「そのとき」がいつだったのか……ということを様々に思い巡らしています。

自分のことを自分で決めなくちゃならなくなっていた、つまりはほかの誰にも代わってもらえない一人の自分になったとき。
小石を蹴飛ばしたり、石塀の上を歩いたりすることなく、ただ目的地に向かうためだけに歩くようになったとき。
「なぜ」と問うことの代わりに、「そうなってるんだ」と退屈なこたえでどんな疑問を打ち消してしまうようになったとき。

そして次のような一節も出てきます。

「しかし、そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人の大人になってたんだ。きみが、一人の完全な人のでなく、誰ともおなじ一人の不完全な人の姿を、夏の日暮れのグラウンドで、遠くからきみの父親の姿にみつめていたとき。」

父親に何があったかは分かりません。詩なので、いろいろな読み込みもできるかとは思います。もしかしたら、人生の半ばで自分に情けなさを感じたり、現実の前に板挟みになって苦しんでいたりしたのかもしれない。そんな父親が黙ってバットで素振りをする姿を見た「きみ」。

「人間の不完全さを知る」ということも、「大人」のひとつの軸なのかもしれない。そう思います。

冒頭に引用した聖句では、自分の罪深さを知る徴税人こそが神に受け入れられたのだとイエスが語っています。

私は正しい。私は人より優れている。
あの人は間違っている。あの人は私より劣っている。
そんな風に誰かを貶めることで自分を認めようとする姿勢は、「大人」とは言えない、成熟した人間とは言えないのではないでしょうか。

それは、単に「自分はダメなんだ」と自分を卑下するべきだ、ということでもありません。
自分の弱さを知り、それゆえに同じ人間である他者の弱さも許し合う。
必要な時には助けを求めたり助けの手を差し伸べたりして支え合う。
そんな形で世界と繋がれる人こそ、神さまの前に喜ばれる「成熟した人」なのではないでしょうか。

巷では、弱い者は努力不足だと「自己責任」の言葉で切り捨てる風潮が広がっています。苦しい立場に置かれた人を助けようとする人たちに対してさえも、嘲笑するような空気を感じます。そういう様子を垣間見て、悲しい、情けない、腹立たしいと思いつつ、なかなかそういう世の中を変えていけない自分にも忸怩たる思いを抱きます。

でも、この情けなさとの葛藤をやめてはいけない、とも思います。
誰かを見下して溜飲を下げれば「葛藤する苦悩」から逃れるのは簡単でしょうけれど、そうはせず、嘆きを抱え続けることに耐えて、目指すべき希望を見失わない者でありたいと思います。
そういう小さな一人ひとりが集まることで、きっといつか世界は変わっていくと、信じ続けていきたいと願います。

新たに成人されたお一人お一人が、自分の弱さを受け入れることに対して恐れないでいられますように。
そして、互いの弱さを受け入れ、支え合うことで、来たるべき神の国の実現を共に待ち望む仲間となってくださいますように。


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