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朗読で乗り越えた壁 6.19

 ひたすら朗読をしている。今日も昨日もその前の日も。毎日の朗読は短いときで30分、そして多ときは2時間分近くやっていた。朗読の内容は多岐にわたる。最近の流行作家の小説やエッセイのほか、何かの解説書のようなものを読むことがある。そのほか古典文学、いわゆる乞食のような無名のひとの習作や誰もが知っている偉人の伝記。また一時はあの聖書を読むことさえあった。

 さていつからこんなことを始めたのだろう。それは昨年から。このときまだ10代の彼にとって人生初の壁なのかもしれない。
 小学、中学、高校と順調な人生を歩んでいた彼が突然その歯車からずれたのは昨年の春だろうか? 高校3年に進級してクラスが変わったが、そのときからなぜかイジメのターゲットになってしまった。明確な理由はない。ただ事実として、ある日を境に楽しい学校生活が苦難に満ちたものになってしまう。
 裏で何らかの圧力があるのか、それまでの友達とも距離ができてしまった。本来なら大学進学のための重要な時期。なのに彼にとって勉学どころか高校生活そのものに支障をきたし始めていた。成績は2年までは中から上だったのに、気が付けば授業に全く身が入らない。小テストなどでは大きく成績を落とす。

 卒業さえすれば、この環境から逃げきれる。また元の環境に戻れるはずだ。と彼は踏ん張って学校に行く。でも辛い日々。「一体何の力? 何が悪かったのか」 自問自答の日々。ついに頭の中で卒業予定日までを逆算してカウントダウンする始末だ。

 そして梅雨のうっとうしい日々。彼のストレスはピークに達してしまう。7月を前についに気力が萎えてしまうのだ。つまり不登校になってしまった。もう学校に行きたくても体が動かない。これが中学までの義務教育であれば、たとえ不登校だろうが卒業できるだろう。だが高校はそうはいかない。いわゆる「単位」が取れないと、卒業できず留年してしまう。
 でも行けない。1週間、10日、気が付けば一学期は終わっている。期末の試験を受けずじまい。それだけではない。このままだとおそらく出席日数不足という問題まで発生する。

 おそらくはそのころからであろうか、目の前にある本を見つけると朗読を始めたのは。普通は声に出さずに本を読む。しかし彼は声に出した。声に出すことでこれからのこと、今までの苦痛目の前に立ちはだかる壁という存在を一時的にも忘れられる。
 声に出さなければ、最初読んでいてもそのよくない記憶が頭の中を充満し、読まずにそっちのことで思い悩む。だから声に出して読んだ。声に出すことで朗読行為そのものに集中する。ゆえに嫌な記憶が頭の中に湧かない。

 最初は家にあった本を片っ端から読む。やがてすべて読み終えたから図書館に行った。そして直感で気になった本を借りてそれを読み始める。もちろん朗読。声が辛くなる時もある。だけど習慣とは恐ろしいもの朗読ができないと、そのことがストレスになるのだ。

 ところで彼はただ朗読していただけでは無かった。そもそも勉強嫌いではない。朗読を終えると気持ちが集中できるのか自習はできる。学校に行かなくても支給されていた教科書を読みながらどうにか理解しようとする。今はネットがある時代。その気になればキーワードを入れるだけで、答えにつながるヒントが容易に見つかった。いつか通学して高校に復帰できても授業についていけるようにと。

 しかし復学への努力も試みた。9月に入り始業式の日。2学期のスタートからと思い切って通学を決意した。電車に乗って3駅先に高校はある。だが駅まで来ると、急に心臓の鼓動が耳に聞こえ、全身から震えのようなものを感じる。そしてそこから前には進まない。結局改札の前まで来たが、逃げるようにして家に引き返した。

 このままでは留年は確実。留年すれば今のクラスからは離脱できる。だが留年という立場はただでさえ危うい。再びいじめのターゲットになる可能性だってある。それ以上に高校で躓けばそのあとの大学の先、つまり就職先にだって影響が出た。いきなり人生の一般的なレールから外れるのだ。だから彼は高校生活の断念を考え、別の方法を模索し始めた。退学という二文字を思い浮かべながら。

 このとき彼は別の方法の一環としてある願書を提出した。それは「高等学校卒業程度認定試験」というもの。これは高校卒業者と同等以上の学力を認定できる試験。ただこれを持っていても高卒とはならない。高校中退すれば最終学歴は中卒となってしまう。
 だが彼は勉強嫌いではない。実は、そのまま大学受験を意識していた。

 大学に入って卒業すれば学歴は当然大卒になる。そうなればたとえ高校中退しても就職などのハンデは多少少なくなるかもしれない。

 こうして自宅にいながら、高等学校卒業程度認定試験の勉強が始まった。朗読をしながら毎日猛勉強。11月に行われた試験では、ほとんどの内容について理解できるものばかり。彼は合格を確信した。

 予定通り合格通知が来た。こうして高校は中退したが、学力だけは保証した。そして間髪入れずに次の行動に移す。それは狙っていた大学への願書を提出。彼は高校卒業程度認定試験の勉強と同時に大学受験のための勉強を続けていた。彼にとっては余計な環境がなかったのが幸い。
 さらに日課である朗読による集中力が受験勉強で知識を吸収するのに役に立つ。こうして高校は卒業せず高校卒業程度の学力認定を持って臨んだ大学受験。

 結果は見事に合格。4月に受けた突然のいじめ、高校中退という大きな壁を前に、それを乗り越えた。大学ではもちろんいじめなどはない。そして勉強が熱心な彼は元からの志望校での大学生生活を楽しく送りながら、今日も日課の朗読を行うのだ。

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シリーズ 日々掌編短編小説 514/1000

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