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【読書メモ】『ものがわかるということ』養老孟司④第四章 常識やデータを疑ってみる

第一章 ものがわかるということ
第二章 「自分がわかる」のウソ
第三章 世間や他人とどうつき合うか
第四章 常識やデータを疑ってみる
第五章 自然の中で育つ 自然と共鳴する

『ものがわかるということ』目次


写真では外していますが、本の帯にあった、絵本作家ヨシタケシンスケさんのかわいいイラストとオススメの言葉に吸い寄せられて購入した『ものがわかるということ』。

発売3ヶ月ですでに8万部突破とあるので、色んな方が書評は書いていると思いますが、こちらでは相変わらず私的な感想④を残したいと思います。

第4章 常識やデータを疑ってみる

養老さんは、この章の後半で人が「環境問題」や「生物多様性」という言葉を使う時に感じる違和感について話します。

生態系というものに対する知識、感覚がなさすぎる現実を、養老さんは「都市化」と呼んできたそうです。
養老さんが「生物多様性」をテーマとした座談会に呼ばれたときのこと。その会場にはハエも蚊もゴキブリも一匹もいない。それで何が生物多様性なのかと思ったそうです。そしてこういう話をします。

ドアを開けていたら、アカハナカミキリが飛んでくる。それで「夏が来た」と思います。普通の人は、それがカミキリムシであることに気づかないでしょう。アカハナカミキリは、敷地で切った木を積んでいたところで発生していました。発生するのは夏の時期です。こういうなにげなく起こっている現象の本当のディテールの相互関係が見えなければ、生物多様性と言ったって、頭の中だけの概念操作にすぎません。

『ものがわかるということ』p.160

都市化された環境にいると、眼の前の現象に気づかない。もしくは、現象を見ても、それが表している情報まで読み取れない。現象の背景が見えないと、世界の抱える諸問題との結びつきもわからない、ということでしょう。

目の前に見えている現象と、テレビで問われている問題は関連のないもの、別物として捉えてしまう。
それは、私が日常の中でとても実感することです。

今、私が住んでいる町は養老さんの言葉でいえば「都市化」しています。
森や畑はどんどんなくなり、キノボリトカゲやカナブンに出くわすことも少ない。空き地にいたトンボ、池にいたオタマジャクシやヤゴも久しく見ていません。朝、家の周囲に広がっていた畑から鳴り響くカエルの大合唱で目がさめることもない。空き地はなくマンションが建ち並び、管理された遊具のある公園が点在しています。上下水道は完備、ゴミは収集車が回収。家の中はコントロールされた環境にあり、秩序のある環境が保たれています。職場へも車で通勤するので、かなり意識して意図的に計画しないと、無秩序な自然の環境へ身を置く機会も、そして時間もありません。

私は幼いころ虫たちを見て育ちました。でも今、私の子どもたちはそういう自然を見て育っていません。虫たちのほとんどは、図鑑やタブレットの動画の中にいます。または、ペットショップの昆虫コーナーにいます。

養老さんは、生物多様性とは、言葉ではなく、自分自身の "感覚" を使って初めて理解できる、と話します。でも、私は子どもたちからその環境を奪ってしまっていると実感します。
見て、触れて、匂いを嗅いで、生き物が手のひらで動く感覚を知らない。身体を通して生物に触れていない。身体レベルで生物を理解していない。

そうすると、いつまでたっても社会で騒がれている「問題」と「自分」が身体感覚を伴って結びつかない。テレビで言われる環境問題や生物多様性の問題などはガラスケースの中にあって、私も子どもたちも直接触れることなくケースの外側から「問題」を眺め、頭で考えて、対応策や答えを探している。そんな感じがします。


養老さんはさらに、人間が住む場所を都市化することで ”秩序” を求めた代償の話をします。

たとえば、都会の野良犬を保健所で保護し、飼い犬をすべて鎖でつないだことで、田舎の畑は猿や鹿や猪に荒らされるようになってしまった。自分たち以外の生き物を排除して発展してきたわけですから、人間はそんな無秩序には気づきもしないでしょう。
意識はそれでいいかもしれません。でも、そのツケは身体に回ってきます。自然をなくした世界にいるんだから、具合が悪くなるのも当たり前です。実験室で買っているネズミと変わりありません。

『ものがわかるということ』p.162

実験室のネズミ。
だからといって、都市化した環境から離れる生活も考えられない。
私の思考は、そこで堂々巡りとなります。


私はたまに離島に行くと、生活環境が自然環境に密接に繋がっていることを感じます。排水のことを考えると、洗剤や薬剤を使用することにためらいを覚えるし、ごみを本島のゴミ処理施設まで船で運ぶことを考えると、むやみにゴミを排出できない。
自分の体に入れるものと体から出すものが、環境に強く繋がっていることを否応なしに感じるし、意識せざるを得ない。
自然との距離が近く、生活空間がある程度限られるとその意識は強くなります。

でも、都市化した社会に戻ってくると、夢でも見ていたように、その意識は急速に薄れます。洗剤も薬剤も使うし、ごみは大量に出してしまうし。

そうすると、養老さんの次の言葉がとても腑に落ちます。

食べ物を摂取してカスを外に出していることだけをとっても、自分の身体は環境とつながっています。そこに切れ目なんてあるわけがない。このことを忘れるから、生物多様性も環境も宙に浮いた議論にしかならないのです。

『ものがわかるということ』p.162

そこに切れ目なんてあるわけがない。
でも、そのことを忘れずに生活することがとても難しい
んです。

とても考えさせられたので、まとまりなく書いてしまいました。

次は最終章。第5章の感想を書きます。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


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