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私がわたしである理由13

[ 前回の話… ]


八、予期せぬ再会(1)


午前中一杯を掛けて、甲一郎は潤治にこれから必要になるであろう省内の施設や設備を案内してくれた。
当たり前の話だが、潤治は軍事国家というものにも軍事施設にも触れたことはない。無論軍人と付き合ったことすらない。この時代の常識には大分慣れてはきたものの、帝国海軍省の規律や習慣、特に軍属や民間人が省内でどう軍人達と付き合えば良いのかについては何の知識もないのだ。

兵士、文官、技官、下士官、将校、その役職や階級、それぞれに対して自分はどういう態度をとれば良いのか、自分の役職と地位は誰に対して優位で誰に対して敬意を払わなければならないのか、さらに隣接する別館にある軍令部と海軍軍務局との力関係や兵学校出身者と徴兵組の予備将校との目に見えない格差など、各部署や設備への利用に際しても細心の注意が必要となる。
甲一郎は午前中半日を使って潤治に思い付く限りの注意を与えてくれた。


階下の食堂で昼食を終え、2人は翻訳部に戻り、週末の間に甲一郎が溜めた文書の翻訳作業に取り掛かっていた。英文書自体は私文や書簡などが多く、きちんとした辞書も揃えられていたので、潤治の語学力でもさして困難な作業とは思えなかった。

「どうですか?ざっとやってみましたが、こんな感じで…」潤治が下書き用のわら半紙に鉛筆で書いた訳文を甲一郎に手渡す。
甲一郎は渡された下書きを見て眉をひそめ、周囲に聞こえないように小さく囁いた。
「潤さん、仮名はカタカナだ…それに、仮名の使い方が変だぞ…」
「あっ、そ、そうか…」

潤治はこの時初めてこの時代の文章が旧仮名使いであること、また公文がカタカナ表記であることに気が付いた。
「すいません…僕の時代と仮名の使い方が違うんです…」潤治も声を落として答えた。

2人の押し殺した会話に気が付き、直ぐ側で作業をしていた職員の一人が声を掛けた。
「野瀬さん、どうかしましたか?」
「いやいや、大したことじゃねえ。ちょいと川出君に提出文書の書き方を教えてただけだ」

入口の扉脇からは部屋詰めの下士官が訝しげにこちらを見ている…その時、部屋の扉がノックされ、開いた。
若い貧相な兵士が入室し、緊張の面持ちで下士官の前に直立・敬礼した。
「へ、兵曹殿、し、失礼致しますっ!や、や、山辺中尉殿から、お、仰せつかりまして、ま、参りました、し、新任の伊東水兵でありますっ!」
「よしっ、用向きは何だ」
「はっ!じ、じ、自分は、ほ、本日研究所から、て、転属いたしました、ぎ、ぎじゅ…技術兵であります。文官の、の、の、野瀬様をお訪ねする様、お、仰せつかりましたっ!」

その声と吃音の様子…潤治は思わず顔を上げて彼に視線を移した。
「分かった。付いて来たまえ」
「はっ!」

兵曹に従えられてこちらに向かって来る新兵の顔…少しやつれて顔のあちらこちらにに痣をこしらえてはいるものの、確かに見覚えのある顔だ…
「あ…」
僅かに10日前に目黒の『旅荘三橋』で出兵を見送ったあの伊東だった。

「野瀬さん、班長殿から新任の技術兵が遣わされましたが…おいっ、挨拶せんかっ!」
「はっ!じ、じ、自分は、か、海軍、け、研究所から、こ、こ、こちらに転属するよう、め、命じられました、い、い、伊東二等、す、水平でありますっ」
「では、お預け致しますんで、よろしくお願い致します」兵曹は軽い敬礼を残して、扉脇の自分の席に戻ってゆく。

緊張したまま真っ直ぐ中空を見つめ続ける新兵の伊東に甲一郎が優しく声を掛ける。
「伊東君って言ったね。我々は軍属だから、緊張しなくていいよ。この部屋にいるのは全員民間の翻訳官だ。軍人はあの兵曹さんだけだから、気楽にしてて良いんだぜ。それより、ちょいと君に暫く手伝って欲しいことがあるんだ。まあ、まずはこっちで少し話そうか」
「はっ、はい…」

甲一郎に促され3人は面会室に入る…
ドアを閉めると、潤治は緊張する伊東に近づきそっと肩に手を置き囁いた。
「まさか、こんなに早くまた会えるとは思いませんでしたよ。伊東さんですよね?ほら、僕ですよ。忘れましたか?」

新兵の伊東は不思議そうに潤治の顔に目を移し暫く見つめると、驚きの表情を浮かべた。
「ああっ!か、か、川出さんっ!ええっ、な、な、何で、か、川出さんが、こ、此処にいら、いらっしゃるんですかっ?」
「僕もあれから色々あってね、この野瀬さんのお世話で今日から翻訳官としてここで働かせて貰う事になったんだよ。伊東さんは、てっきり戦地に配属されたのかと思ってましたよ。何で内地に残られたんですか?」
「何だよ…お前えら、知り合いだったんか…まさか伊東君も…」
「あ、それは違いますよ。先日目黒の旅館で知り合った方です」
潤治は慌てて甲一郎の疑いを否定する。
「そうかい…ま、座って話したらどうだい。俺あ茶でも貰って来るからよ」
「あ、お、お茶でしたら自分が…」慌てて伊東が進み出るのを甲一郎は制する。
「まあまあ、知り合いなら話は早えや。まずは2人仲良くしててくんな。ただし潤さん、ここで突っ込んだ話はご法度だぜ」そう言い残し、甲一郎は部屋を出ていった。

その後の伊東の経緯はこうだった。招集の指定通り千葉の歩兵部隊で入隊検査を受けたが、結果はやはりぎりぎりの丙種で、外地戦線は難しいとそのまま数日兵舎に留め置かれた。
勿論、その間配属は決められず、仮の部隊での訓練に参加し、兵舎内では上官たちから連日の虐待を受けることとなる。その後、電気技師の経歴が上層部の目に止まり、技術兵の増員を求めていた海軍省に技術兵として転属が決まり、思いがけず目黒の海軍技術研究所・電波研究部に配属が決まった。そして先週末、研究所からこの軍務局二課への出向勤務を命じられたのだそうだ。

「いやあ、い、一度は、ど、どうなることかと、は、配属の、決まらない、は、半端もんですから、こ、殺されるのかと思いました。で、でも、か、川出さんが、夏まで、し、辛抱すれば、戦争は終わって、次の時代が、く、来るって、お、仰ってたんで、それを信じて、し、辛抱しました。あ、あの…伺っても、いいですか?」
「あ、はい。何ですか?…」
伊東は声を落として尋ねる…
「か、川出さんは、元々、か、海軍省の、と、特別な、立場の方だったんですか?そ、それで、あ、あんなことが…分かってらっしゃって…いるんでしょうか?も、も、もしかしたら、自分をここに呼んでくれたのは、か、川出さんなんですか?」
伊東は何かを確信したかの様に、前のめりになって潤治の顔を覗き込んでいる。
「いやいや、そんな…全くの偶然ですよ。僕も海軍省には今日勤め始めたばかりで…そんな、大したもんじゃなくて、あの…何て言うか…」

潤治が何を、どういう風に、どこから、どこまで話したら良いのか、言葉に詰まっているところに甲一郎が茶碗とヤカンを持って部屋に戻ってきた。伊東は2人の会話は聞かれてはまずいと思ったのか、何事もなかったかの様に慌てて姿勢を正す。

「お待たせ…お、何だ何だ?随分堅苦しい雰囲気じゃねえか。知り合いだったんじゃなかったのかよ」
「いや、それはそうなんですけど…あの、伊東さん、この野瀬さんはね、気にしなくて大丈夫ですよ。軍属ではありますけど、僕の理解者っていうか、味方っていうか…この戦争の状況については僕と同じ考えですから」
「ほ、本当ですか?…」伊東は驚きの眼差しで甲一郎を見詰め、同時に安堵の表情を浮かべた。

甲一郎は潤治の言葉への伊東の反応で、大体のことは察した様だった。
「まあ、初年兵で転属したばっかりじゃあ緊張するのも無理ゃあねえが、俺と潤さん、いや川出だけは本音で大丈夫だからよ、安心していいぜ。まあ、どう信じるかはあんた次第だが、細けえことは今ここじゃあ一寸話せねえし、話したところでとてもじゃねえが信じられる話じゃねえ。近いところで俺が機会を作るから、それまでは早速川出と組んで作業に入って欲しい」
「あの…な、何をすれば、いいのでしょうか?つ、通信技師が必要だと、あの…中尉殿からは、う、伺っていますけど…と、兎に角、い、い、依頼されたことは、全て、記録して、ほ、報告する様、命じられておりますけど…」
「ここの無線機は俺たち軍属は使えねえだろ。俺たちゃ戦況がどう動くのか、敵さんの情報が欲しいんだ。潤さんは英語に慣れてるからよ。一緒に組んで暫くここの通信室で傍受を手伝って欲しいんだが…」
「そ、それは…中尉殿からも、そう言われて、おりますけど…」
「それが、表向きの作業だ。ま、今日のところは潤さんと一緒にそれで仕事を始めてくれ。後の算段は今晩にでも潤さんと相談しとくからよ」
「お、表向き、ですか?…いえ、は、はい…分かりました」


潤治と伊東はその日の午後から電信技術班に隣接する試験室で敵軍の通信傍受作業の準備に取り掛かった。試験室にはこの時代最先端の超短波通信機と録音機が3組用意されており、まず伊東は各機材の機能と性能に加えて、自分が所属する海軍省科学研究所がこういった新技術をどの様な電波兵器に活用しようとしているのかについても説明してくれた。

「こ、これが、マグネト録音機です。じゅ、受信した、信号やお、音声を、そ、その場で、こ、ここの、て、鉄線に、じ、じ、磁気で記録して、す、直ぐに、再生して、聞くことが、できます」
「ああ…レコーダーだな…これは…」潤治が呟く…
「れ、レコーダ?英語では、そ、そういうんですか?か、川出さんは、見たことがあるんですか?」伊東が驚いて潤治の顔を見る。
「え?ええ…確か、アメリカの雑誌かなんかの写真で…」潤治は咄嗟に誤魔化した。
「そ、そうですか。あ、後で、じ、実際に、録音してお見せします」

伊東は先端の技術に余程造詣が深いのだろう。水を得た魚の様に嬉々として設備の説明を続けた。
作業の合間に潤治と交わした話では、伊東は日々受け続ける初年兵への虐待に絶望していた。元々虚弱なこともあって、出兵の際潤治から言われた『半年間何とか生き延びる』という唯一の目標も達成出来るかどうか自信を失いかけていた。
そこに降って湧いた様に海軍技術研究所への転属が決まり、いきなり電気技師として最新の設備環境で本来の腕を振るえることとなったのだ。しかも戦地ではなく、堅牢な兵舎での生活で、もちろん戦闘もない。周囲は技術兵ばかりで、理不尽な虐待もない。そしてさらに今日、自分に生きる望みを与えてくれた川出潤治に偶然再会できたのだ。その嬉しさが普段は吃音で無口の伊東を饒舌に変貌させていた。

試験室には頻繁に技官や技術兵たちが部品の検査や基盤の検証に出入りした。潤治は伊東と2人きりになった時に、甲一郎と潤治が何を目的としているのか、多少でも粉を振っておきたかったのだが、誰にも聞かれずに安心して話が出来る機会を探すことは難しかった。

その日、甲一郎は電信技術班にも試験室にも顔を出すことはなかった。潤治は定時に作業を終え、山辺への報告を伊東に任せて翻訳部に戻ったが、甲一郎はおらず、兵曹から発行されたばかりの身分証が渡され、伝えられた。
「身分証は常に携行する様に。野瀬さんは外部局に寄ってから帰宅されるとのことだから、先に帰っててくれとのことだったぞ」
「あ、はい。有難うございます」


つづく...



この小説では、さる7月7日に急逝されたイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを提供して頂いております。
本編掲載中は氏のイラストを使わせて頂くことと致します。
TAIZO氏のProfile 作品紹介は…






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