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私がわたしである理由16

[ 前回の話… ]


第十章 東京大空襲(1)


潤治の伊東との通信傍受作業は翌日朝まで続き、別班への交代が許された。仮眠後、夕刻までそれぞれの職務に着き、伊東は研究所の兵舎へ、潤治は甲一郎の家に戻った。

「…という訳だからよ、潤さん、此処の電話は盗聴されると思って間違いねえ。誠治くんとも迂闊に電話で連絡は取らねえ方がいいぜ。なるべく、此処にも来させねえ方がいいかもだな…多分、俺にも潤さんにもその筋の尾行が張り付くだろうからよ」夜、帰宅した甲一郎は真顔で潤治に今後の危うい状況について話した。

「でも、誠治くんのお祖父様は軍の幹部なんでしょう?」
「ああ、軍令部の大森中将だ。その中将さんから、くれぐれも注意してくれって、頼まれたんだよ。相手は特高や憲兵だ。万が一パクられでもしてみろ、俺もあんたも、もしかしたら命も危ねえ。尋問中の病死なんざ当たり前の話なんだからよ。ま、今のところはまだ大丈夫だろうが、大空襲の後は奴等も躍起になんだろうからな」
「そうか…分かりました。でも緊急の連絡はどうやって…」
「ああ、洗足駅のとこによ、電話所があんだろ。1通話5銭で掛けられるから。あそこなら盗聴も難しいだろう。誠治くんのとこにゃ、あれで掛けた方が安全だ。誠治くんや正雄にも伝えといてくれ。大事な話ん時ゃ此処に電話掛けてくんなってよ」
「分かりました…」
「ま、兎に角、なんとか既成事実だけには漕ぎ着けたからな、早速明日から正雄には動いて貰わねえと…そうだ、潤さん、明日は1日非番だよな」
「はい…1日お休み頂きました。次は明後日の夕方からまた伊東さんと夜勤ですけど…」
「じゃ、朝のうちによ、正雄んとこ行って伝えてやってくれねえか?」
「はい、そのつもりです。明日は誠治くんとも正雄さん家の近くの喫茶店で待ち合わせてますから…」
「ああ、そうか…明日はもう土曜日か…こうドタバタしてると、曜日も分からなくなっちまう。俺は暫く土日もへったくれもねえからよ。宜しく頼むぜ。ただし、くれぐれも気を付けてくれよ」
「はい…分かりました」


この世界に飛び込んでから、2週間…次から次にあまりにも多くの出来事があったので、さすがに疲れが出たのかもしれない…潤治が翌朝目を醒ました時には、時刻は既に9時を回ろうとしていた…

急ぎ身支度を整え、甲一郎の部屋に赴く…もちろん、甲一郎はとっくに出省した後だった。
部屋はまだ暖かく、ストーブには火が残っているようだ。上に置かれたポットにはたっぷりとコーヒーが残っていた…
テーブルの上に書き置きがあった…
『おはやう。良く寢てゐたので、起こさずに出掛けます。正雄と誠司くんのこと、宜しく賴みます。くれぐれも身の周りには充分に注意するやうに。今夜は遲くなると思ひます。明日の朝、またゆつくり話しませう。テーブルの上のリュックは、白米と砂糖です。藤村家への手土產にして下さい。』

潤治はコーヒーで眠気を覚ますと、ストーブの火を落とし、手土産のリュックを背負って百反の喫茶店『スワン』を目指した…


百反へ向かう途中、潤治は何度も背後に気を配って注意したが、誰かに尾行されている気配はまだ感じられなかった。もちろん、潤治にはそんな窮地を経験したことはないので、ただ単に気配を感じる能力が未熟なのだけかも知れない…

「おいっ、潤さん、ここだここ!」
スワンに到着すると、店の奥のテーブル席から立ち上がって手を振ったのは正雄だった。

僕もついさっき来たところです」
潤治がテーブルに近づくと、誠治も立ち上がって奥に席を移動した。
「なんだよ、随分重そうな荷物背負ってきたんだなあ…」
「ああ、これ…野瀬さんが手土産に持ってけって…白米とお砂糖だそうです」
「おっ、そりゃ有り難え。うちのが喜ぶぜえ。潤さんからってことでいいんだよな」
「ええ、野瀬さんからもそう言われています」

「今正雄さんとお話してたんですけど、いろいろ上手く運んでるようですね」
待ち兼ねたように誠治が切り出した。
「ああ、何とか上手くいってる…あれ?でも何で誠治くん知ってるの?」
「昨日、祖父から電話があったんですよ。ほら、僕、教練とか殆ど参加してないから、母が相談したらしくて…」
「学校の方はちゃんと行ってるんだろ?」正雄が尋ねる。
「ええ。でも今月はもう授業はなくて、教練だけですから、僕はちょっと身体を壊したことにしています。あ、これは母と祖父も了解済みです。元々母は、僕が徴兵されることには不承知なんです」

誠治の父親、つまり潤治の父方の祖父は誠治が幼い頃に病死している。つまり長男の誠治は川出家にとって当主なのである。この時代、この戦局にあっても、『家系』を守る事を優先させようとするのは、日本人の通念だった様だ。

「で、お祖父様からは、どんな連絡があったの?」
「はい、3月9日前後に東京に相当大規模な空襲があるかも知れないって、なるべく家にいる様にして、万が一警報が鳴ったら直ぐに防空壕に避難しろという事でした。ああ、これは野瀬さんと潤治さんが、早速上手いこと動いたのかなと思って…」
「どうなんだい?そういう事なのかい?」正雄が潤治に顔を向ける。
「ええ、いろいろあったんですが、思いの外上手く運んで、もちろん大森中将の助けもあって、昨日のうちには軍令部の方に正式に報告が上がりました」
「じゃあ、俺あもう動いていいってことかい?」
「はい。野瀬さんの方からも正雄さんにはそう伝えてくれっていうことです」
「そうかい、そういうことなら、早速明日から目ぼしいところに知らせてくるぜ」
「はい、そうして下さい。ただ、ちょっと不穏な動きもあって...」
「不穏?何だよそりゃ…」
「実は、軍部内の話なんですが…」
潤治は野瀬が警戒を促していた、軍部の強硬派たちの動きについても付け加えた…

「そうか…それで祖父はあんなこと言ってたのか…」誠治が呟く...
「え?誠治くん、何か言われたのかい?」
「ええ…軍部内ではますます戦争終結論を潰そうとする動きが激しくなると…祖父は僕が野瀬さんと関わりを持つことを心配していました。遠縁の川出潤治という人物とも暫くは連絡を取り合わない方がいいと...」
「そうか…野瀬さんも同じことを言っていました。特に野瀬さんの家の電話は既に官憲に盗聴されているかも知れないと...」
「なあるほど、表立って動けるのは民間人の俺だけってことか…早速今日の午後から急ぎ動いてみるけどよ」
「あ、今日のうちに知らせられる人には明日のことも含めて知らせた方がいいと思います。前にも話しましたけど、明日4日の朝8時過ぎに東京中のあちらこちらに焼夷弾が落されるはずです。大規模ではないんですが、これは、9日の大空襲に向けての試験空爆だったと言われていて、比較的被害も少なかった筈です。そのことも含めて知らせれば…信じて貰うにはいい材料かと…」
「まあ、どこまで信じて貰えるかは分からねえけど、やるだきゃあやってみるぜ。神田、深川辺りはよ、気心の知れた奴も多いから何人か手伝って貰うつもりだ」
「僕も、下町方面の知り合いには電話を入れようと思っています。祖父からは軍の機密情報なので、親族以外には口外しないように言われていますけど…」


3人が今後、お互いがどう連絡を取り合うかについて話し合っていると、正雄の長女積子せきこが店に入って来た。
「すいません..あのお….お父さん、来てますか?」積子がおずおずと店主の康男に尋ねる…
「ああ、奥のテーブルにいるよ。おいっ、正雄っ!積ちゃんが来たぜっ」店主が声を掛ける。
「おお、積子、どうした?」
積子は遠慮がちにテーブルに近付いてくる…

「あのね…お母さんがね、今日はお雛様だから、ちらしこしらえたから、良かったらお客様も一緒にうちでお昼ご飯、どうぞって…」
「あ、そうか、今日は雛祭りかあ…積子さんのお家でも、お雛様飾ったの?」潤治が尋ねる。
「はい。うちのね、お雛様は立派なの。お母さんはね、戦時中に外聞が悪いから、今年はやめときなさいって言ったんだけど、お婆ちゃんが今日一日位いいじゃないかって、今朝みんなで飾ったの」積子が満面の笑顔で答える。
「でも…僕らまで伺っちゃっていいんですかねえ?」潤治が正雄の顔を窺う。
「そう言ってんだから、2人ともちょいと寄ってやってくれよ。どうせ、どっか行ってもロクなもん食わせる店もねえんだから。お、そうだ、積子、こちらは川出誠治くん。潤さんの親戚だ。誠治くん、これあ俺んとこの長女で積子ってんだ」
「どうも、はじめまして…長女の積子です」積子は少し顔を赤らめながら、誠治に頭を下げる。
「こんにちは、川出誠治です。そうですかあ…正雄さんのお嬢さんですか。お父様にはいつもお世話になっています」
「あはは…此奴あお嬢様なんて代もんじゃあねえよ。お転婆でよ、暇さえありゃあ女だてらに本ばっかり読みやがって、店の手伝いも家の手伝いもからきしだ。まあ、鼻っ柱が強えのは俺の血筋だから仕様がねえや」
「もう、お父さんっ!」積子は真っ赤な顔で正雄を睨みつける。
「いや、積子さんはしっかりした頭のいいお嬢さんですよ。お話も面白いし…」
潤治がそう言い添えると、積子は照れ臭そうに含羞はにかんだ。

「じゃあ、直ぐに2人お連れするからよ。お前、先に帰ってそう伝えといてくれるか?」
「うん、分かった!じゃあ、後でねっ。お待ちしてます」
積子はそう言い残すと、急ぎ店から出て行った。

「それじゃ、俺も昼飯食ったら動き回るからよ、後の細え話はまた明日同じ時間にここに集まることにするか。どうだい?2人とも大丈夫かい?」
「ええ。明日も夕方までは休みですから」「僕も大丈夫です」
「そうかい。ついては、ちょいと頼みなんだけどよ。丁度いい機会だ、この後の昼飯の時に、潤さん、うちの婆あに少し粉あ振っといて貰いたいんだ」
「え?粉って何ですか?」
「ちょいとな。こんな感じでよ…」正雄は声を潜める…


「どうも、あんな貴重なものを沢山頂戴致しまして、本当にありがとうございます」
畳に手をついて深々と頭を下げたのは孫を背負った姑の久邇くにだ。
「いえいえ、今ちょっと軍の仕事を手伝ってますから、余分に手に入ったもんで…私は独り身ですし…」潤治が微笑む。
「うちは口が多いんで、本当に助かりますよお。それに今日は、こんなむさ苦しい仕舞家しもたやに男爵家のご当主様までお連れ頂いて、まあ、本当に晴れがましいことでございます。有難や有難や…」
「いや、僕は当主っていっても、まだ中学生ですから…」
「中学たって、慶應でございましょう?そらあ、やっぱりその辺の学生とは格が違いますよお」
「全く…持ち上げんのもその位にしとけよ。誠治くんだって気詰まりじゃねえか。気楽に立ち寄ってくれたんだからよ」正雄が苦笑しながら窘める。
「何言ってんだい。世が世ならお前なんか口も利けないんだからね。こうやってお付き合い頂いて、少しゃあ感謝しなきゃいけないんだよ。本当に罰当たりなバカ息子で、こっちゃ恐縮だよ」
「分かった分かった。有り難えと思うからよ、もうその辺で勘弁してくれよ…はは…」

台所から娘3人を引き連れて正雄の妻きくが料理を運んでくる。
「まあまあ、お越し頂きまして。折角の雛祭りですから、大したもんじゃありませんが、形ばかりのちらしこしらえましたんで、少し召し上がって下さいねえ。ほら、積ちゃんもかよちゃんも御膳並べたら、後ろの襖開けて…お客様にお雛様ご覧になっていただくんだろう?」
「はーい」
「正子は、イサどん呼んでおいで。お店番はもういいからって。どうせ客なんて来やしないんだから…」

奥の間に飾られていたのは、見事な5段飾りの雛人形だった…
「いやあ、立派なお雛様ですねえ。これならお嬢さんたちが飾りたがるのも無理ないですねえ」潤治が思わずそう言うと、三姉妹は得意そうに笑顔を浮かべる。
「まあ、こんなご時世ですからねえ、お祝い事なんて近所の手前派手にゃ出来ゃしませんから、今年はよしにしとこうかと思ったんですけど、娘たちがどうしても飾りたいって言うもんで…でもねえ、いざ飾ってみると、やっぱり華やかで、たまにはいいもんですねえ。まあ、お祝いですからご遠慮なく召し上がって下さい。お酒も一口ずつだけご用意させていただきました。イサどんも遠慮なしでやってね」
「えへへへ…頂きます!」店員の功夫は嬉しそうに箸を取る。

「どうです?誠治さん、お口に合いますか?」尋ねたのはきくだ。
「ええ…すごく美味しいです。ちらし寿司なんて本当に久しぶりです…」
「主人から伺いましたけど、誠治さんのお爺様はお偉い軍人様なんですって?」
「あ、はい。海軍中将で今は軍令部の方におります」
「まあ…中将様…そりゃあ大変だ…しかし、華族様のお身内ともなれば、やっぱり随分とご身分が違うんですねえ…」久邇が感嘆する。
「潤治さんも、そのご関係で軍の方で働き始められたんですか?」
「え?ええ、まあ、たまたま、そう言うことになりまして…あまり、詳しいことはお話できないんですけど…」潤治が何とか誤魔化していると、向かいに座った正雄がそれとなく目で合図を送っているのが分かった。
潤治は慌てて話を続けた…
「いや、このところ日本各地で空襲が増えてきてますんで、その…敵の情報分析を少し手伝わせて頂いています」
「やっぱり、この辺りも空襲はどんどん酷くなるんでしょうかねえ…」きくが不安の表情を浮かべる。
「まあ、この辺は大丈夫だろうよ。何たって商店街だからね。軍事工場が近くにある訳じゃなし…ねえ、そうで御座んしょう?」久邇が潤治に同意を求める。

少し間を置いて、潤治は久邇に尋ねる。
「あのお…こちらは疎開先はご準備されていないんですか?」
「そんなこたあ考えていませんよっ。死んだ連れ合いが苦労してようやく広げた商売ですからねっ。店が守れない位なら、あたしゃ死んだ方がましってもんです。第一、敵さんだって、こんなちっぽけな商店街、相手にしたって何の得にもなりゃしませんよ。ね、そうで御座んしょう?」
「いや…いいですか?敵の空襲は、このところだんだん軍事施設から無差別爆撃…つまり、主要な都市全体を攻撃する方向に変わってきています。まあ、まだ間はあるとは思いますが、この辺りもいずれ攻撃を受けるでしょう」
「あの…うちは大分山手の住宅地ですけど、それでも一応地方の知り合いの方に伝手だけは付けてありますよ。これには祖父も同意しています。こちらはご家族も多いんですから、考えるだけ考えておいた方がいいと僕も思いますけど…」誠治も潤治を援護する。
「そんなもんですかねえ…それでもあたしゃ、店を捨てるのは不承知ですがね…」正雄から聞いていた通り、久邇の決意は堅固な様子だ。
まずはあまり頑なにならないように、潤治は正雄から言われた様に、粉だけを振っておくことにした。

「人が守れる程度の攻撃ならいいんですが…ここだけのお話にしておいていただきたいんですけど、軍の情報では今月の9日から10日にかけての夜中に、東京の下町方面で大規模な無差別爆撃の可能性があります。もし、それが本当に起きたら、この辺りも…そうですねえ…4月か5月辺りには間違いなく爆撃されると思いますので、それだけは心に留めておいて下さい」
久邇は暫く沈黙して、考えを巡らせている様だった…

「ま、心づもりっていうことだろ。暫く様子を見てから決めりゃあいいさ」正雄が重苦しい雰囲気を元に戻す。
「そうですよ。辛気臭いお話はまた後で…折角のお祝いなんですから、たんと召し上がってくださいよ」きくが笑顔を浮かべた。


つづく…



この小説では、さる7月7日に急逝されたイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを提供して頂いております。
本編掲載中は氏のイラストを使わせて頂くことと致します。
故TAIZO氏のProfile 作品紹介は…









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