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私がわたしである理由12

[ 前回の話… ]


第七章 海軍省軍務局へ(2)


「どうも、お早うございます」
通用門脇に立つ警備兵に向かい背広姿の甲一郎がソフト帽を軽く持ち上げて挨拶する。国民服の潤治もやや緊張の面持ちで軽く頭を下げた。若い警備兵は顔を外に向けたまま素早く敬礼の姿勢をとる。

朝8時過ぎの海軍省内部は既に多くの軍人や軍属たちで活気付いていた。
スーツ姿の甲一郎はロビーや階段や通路ですれ違う軍人、軍属に会釈したり軽く手を揚げたり、時には立ち止まって脇に寄り「お早うございます」と頭を下げたり、落ち着いた態度と表情のまま機敏に卒なく振舞っている。潤治もその側にならい、気を引き締めて相手それぞれの表情、態度、服装、年まわりを記憶に留めることに専念した。今日から暫く自分が通うであろうこの場所を自分なりにどう利用していけるかを出来るだけ短期間に掴まなければならないからだ。


軍務局第二課・課長室は建物三階南側廊下突き当たりの一つ手前、大きな扉を持つ部屋だった。
「潤さん、いいかい?ここが俺たちの職場の一番の偉いさんだ。まずは挨拶しねえとな」
甲一郎がノックをすると、30代後半と見られる体の大きな下士官らしき人物が扉を開けた。
「おう、お早う。中佐殿はいらっしゃるかい?朝一番で顔出すことになってるんだがね」
「あ、野瀬さん。どうぞ、おられます」
下士官は人の良さそうな笑顔を浮かべ太めの身体を端にけて2人を中に入れる。

部屋は前室の取次部屋らしく、入って右側に控用のテーブルと椅子、入り口脇には下士官のものらしい小さなデスク、さらに奥へと続く扉の手前には大きめのデスクが置かれ、文官と思われる軍服姿の若い将校が甲斐甲斐しく書類にペンを走らせている。下士官は数歩彼に近付くと姿勢を正し声を掛けた。

「少尉殿。野瀬さんが中佐殿に御面会だそうで…」
若い将校はペンを止めこちらに顔を上げる。身体は大きいが、まだ20代そこそこの童顔の青年だ。

「あ、どうも。お早うございますっ」青年は慌てて立ち上がり、甲一郎に敬礼する。
「お忙しいところ、悪いねえ。今朝一番で顔出すことになってるんだけど、いいかね?」
「あ、そうですか。それで中佐殿も今朝は早かったんだな…あの…失礼ですが、そちらは?」
「ああ、此奴は俺の助手で今日からここで俺を手伝うことになってる川出っていうもんだ」

少し後ろに控えていた潤治は甲一郎の言葉で慌てて一歩前に出て頭を下げた。
「あ、か、川出潤治と申します。今日からこちらをお手伝いすることになりました。どうぞ宜しくお願い致します」
「はっ、初めましてっ。自分は事務官の小野と申しますっ。宜しくお願い致します」そう言って再び敬礼すると「じゃ、野瀬さん、ちょっとお待ち下さい」と言い残して、脇のドアをノックしノブを回して開くと部屋の中に身体を滑り込ませる。

潤治の場所からは部屋の奥は見えず、緊張した小野の直立不動の後ろ姿だけが見えた。
「中佐殿っ、特務の野瀬さんが川出様という方をお連れしていらっしゃっておりますが」
「おう、来たんか。入って頂いてええから」関西訛りの歯切れの良さそうな返事が返ってくる。
小野は一礼して踵を返すと入り口脇から「どうぞ、お入り下さい」と告げる。

甲一郎と潤治は促されるまま入室する。広い部屋には6名掛けの応接セット、その奥に執務デスクがあり、その向こうに白髪の混じった髪をオールバックに整えた将校が和かな笑顔を浮かべて立っていた。潤治は中佐という地位から体格の良い大柄な人物を想像していたが、当の人物は若い小野と比べるといたって小柄で華奢。軍人の中では貧弱とも言えるかも知れない。

「どうもお早うございます。例の川出君を連れて参りました。潤さん、こちらが我々が手伝う軍務局第二課の課長さん、日枝ひえだ中佐殿だ」
「あ、ど、どうも、初めまして。今日からご厄介になります川出潤治と申します」
「話は野瀬君から伺ってますわ。洋行経験もあって英語も堪能らしいですな。そうそう、先ほど軍令部の大森中将から連絡があって、なんや川出さんは中将の遠縁っちゅう話で、儂も安心しましたわ。このところ野瀬君も手一杯やよって、あんじょう助けてやって下さい。まあまあ、堅苦しい挨拶はええから、座って下さい」中佐はおざなりに軽く敬礼をしながらデスクを回り込み、2人にソファを勧める。

「あ、小野君。君は書類の方急ぐんやろ。ここはええから。いやいや大した話やないんやから。そや、誰かこちらさんにお茶でも用意して貰えんやろか」とドアの前に待機している小野に声を掛けた。
「はっ、かしこまりました。では、自分はこれで、失礼致しますっ」敬礼を終えると小野少尉は部屋を出る。

日枝は目の前のソファに座るとテーブルの上の木箱の蓋を開け、中から煙草を一本つまみ出すとマッチで火を着ける。
「お2人とも。良かったらどうぞ」そう言って蓋の開いたタバコ入れを二人の前に押し出した。
「お、じゃあ遠慮なく…」甲一郎が勧められるまま一本を咥えて火を着ける。潤治もそれに倣う。

「でと、班長の山辺やまべの方には野瀬君の助手さんを研究所の技官と組ませる様、言うといたで。それでええんやろ?」中佐が切り出す。
「それで…山辺中尉は納得してましたか?」甲一郎は少し声を落として尋ねる。
「俺から言うたのが少し気に入らん様やったで。渋々は承知しよったけどな。なんや民間人に大事な機密を触らせるんは危険やないか言うて渋っとったけど、そないな杓子定規なこと言うとる戦局と違うやろ、言うたら一応承知しよった。不満そうやったで。まあ、頭が硬いっちゅうか、融通が利かんちゅうか、また何やしょうもないことやりよるかも知れんけど、そん時ゃまた儂から言うたるわ。ほんまに困った奴っちゃ…それより野瀬君、いよいよ埒あかんで…こりゃもう八方塞がりやな」日枝は表情を曇らせ、苦笑を浮かべる。

「いよいよ、ですか…講和の道筋はやっぱり難しいんですか?」甲一郎が尋ねる。
「まあ、上層部が言う通り、ここまできたら、講和はもう無理やな。こう戦況が不利やと、敵さんも降伏以外納得せんやろ。ちいと遅すぎたわ。頼りの外務省も内務省と陸軍に抑え込まれとるし…こうなったら陸軍さんが言うように、本土決戦止む無し、ちゅう事しか方法はないやろけど…それはちょっとなあ…民間人がどないなことになるか…」
「軍令部の方では、終結論は全く無いんでしょうか?」甲一郎が真剣な顔で日枝を見詰める。
「いや、海軍の将官の半分はどう早く終結させたらええんか探ってるわ。でもまあ…ええ知恵は出んやろなあ…まあ、儂ごとき文官が言うてもしゃあないわ。野瀬君が言う通り、ちいとでも有利な情報でもあれば道も開けるんやろうけど…ま、何とか上手いこと頼むで」
「分かりました…できる限り探ってみます」甲一郎がそう応えると同時にドアがノックされ、部屋付きの下士官が扉を開いた。
「失礼致しますっ!お茶を用意いたしましたっ!」若い兵士が茶碗を盆に載せて3人の元に運んで来た。


潤治と甲一郎は課長室を出ると、廊下を突き当たり、さらに奥に進んでいく…

「さてと、いよいよここが俺たちの職場だ。まずは班長の山辺中尉に御目通りだな。ちょっと厄介な奴だけどよ、なあに若造だ。緊張にゃ及ばねえよ。俺に任せときな」甲一郎はそう言うと『特務電信技術班』の札が掛けられた部屋の扉を開いて中に入って行く。潤治もそれに続いた…

部屋はいわゆる大部屋で、所々に置かれた大型の工作台、その上や周囲には様々な電気機材や真空管や基盤が散乱し、それぞれにいくつかのデスクが置かれている。組み立て作業をしている者や通信機の前でヘッドホンを装着した者十数人があちらこちらで作業に没頭している。
軍服を着ている者が技術兵、国民服を着ている者は民間の技術者なのであろう。広い大部屋の一番奥に置かれた打合せ用の広いテーブルと大きな黒板、そこには配電図やグラフ、数式などが乱雑に記されている。

そのさらに奥には一回り大きなデスクが置かれ、文官にしては一際体格の大きな将校が肘掛け椅子に座り書類に目を通している。
甲一郎が潤治を従えて近づくと、彼はデスクの上に書類を伏せ、ゆっくりと顔を上げると、座ったまま無表情で簡略な敬礼を示す。年回りは30過ぎと言ったところだろうか、太い首でえらの張った四角い顔、坊主頭に太い眉毛、冷徹そうな小さな眼が甲一郎を見据えている。表情には愛想のかけらもない。

「ああ野瀬さん、どうも。お早うございます」声は野太くしゃがれている。
「どうも、お早うございます。今日からここで働く助手の川出を連れて来ました」
潤治は一歩前に出て、深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします。川出潤治と申します。今日からご厄介になります」
「ああ、あんたが例の助手さんですか。なかなか優秀らしいですな。まあ、日枝中佐からの指示ですから受け入れますが、野瀬さん、正直言うと、この件は自分としてはあまり気が進まんのが本音でしてね。あんたはどうも今ひとつ信頼出来んのです。この局内では随分上手く立ち回っておられる様だが、あんたを見ていると、どうも軍のために献身してる様には見えんのだがねえ。ま、上層部への覚えも目出度い様だから、それなりに役には立っとるんだろう。自分は軍属ごときが重要な軍の機密に触るのは、どうもあまり関心せんが…まあ、よろしくお願いしますよ。ただし、あんた方の行動にはきっちり注意してますから、あまり勝手なことはせん様に。いいですね」
山辺は愛想のない表情そのままに言い放ったが、甲一郎は対応に慣れているらしく、全く怯むことも反論することもなく、そのまま会話を続ける。
「先日話した様に、川出を技術兵の野口君と組ませるつもりですが…野口君は…」甲一郎は周囲を見回す…「今日は、まだこちらには来てませんか?」

一瞬山辺は口元に微かに笑みを浮かべると、「…ああ、こりゃあうっかりしてましたわ。急だったんですが、野口技術兵は第三横須賀の方に転属になりまして…そうでしたねえ…野瀬さんにも相談しとくべきでしたなあ。いやあ、どうも、申し訳ありません。まあ、戦局も戦局ですから、各基地、電信技官が足りんのですわ。代わりと言っては何ですが、本日午前中には研究所の方から新兵が補充に来ますんで、その者を組ませてやってください」
「…そうでしたか…それで、どんな方なんですか?その補充の新兵さんは」
「入隊したてですんで、自分も良くは知りませんが、なんでも戦前に軍関係の電気技師の経験があるということで、戦地補充兵から急遽研究所の方に配属になった様ですな。ま、昼頃には野瀬さんのところに伺わせますんで、色々指導してやって下さい」山辺はそう告げると、もう用は済んだとばかりに、再び読みかけの書類に目を落とした。


甲一郎の執務室は入り口に『第二課・翻訳部』と記された比較的大きめの資料室的な部屋だった。
壁一面には資料書棚が設けられ、書棚側には大きな作業テーブルが置かれ、その奥にいくつかのデスクが置かれている。僅かに4人の国民服姿の軍属職員と出入り口には警備監視役であろうか、下士官と思わしき軍服が一人だけ詰めている。

甲一郎は翻訳部の職員たちに一通り潤治を紹介して回りながら、手早く室内設備の説明を終えると、隣の小さな面談室に彼を連れて行った。

「全く…山辺の野郎…厄介な奴だぜ…」
面談室のテーブルに潤治と向かい合って座ると甲一郎が呟く。
「例の技術兵の方のことですか?」
甲一郎は潤治に顔を近づけて声を落とす。
「ああ…野口のことさ。時間を掛けて、折角取り込んどいたのによ。何か感付いたのかもしれねえなあ…いいかい、話聞いててもわかっただろうが、日枝中佐は戦争終結派だ。何とか敵さんと講和出来る情報を探してる。班長の山辺は戦争継続、本土決戦論の親派でよ。後ろには軍令部の将官が付いてる。翻訳部詰めの兵曹も山辺の配下だ。俺たちがどんな情報を探し出してるのかはいつも監視されてるってことだ。転属になっちまった野口君はよ、まあここだけの話だけど、どちらかと言うと反戦論者でよ、何とか気心も知れて、こっちの都合に合わせてもらえる様に算段した矢先だったって訳よ。それなら潤さんと組ませても適当な情報がでっち上げられっだろう?」
「そうか…でも何でそんなに技術兵の協力が必要なんですか?」
「潤さん、軍の機密ってのはよ、半端ねえんだぜ。いいかい、俺たち軍属はよ、この部屋に入るんだって軍人の許可がいるんだ。資料を持ち出すんだって、通信室に入るんだって、全て軍人の許可がいるんだよ。行動は全部記録される。ここで通信機を使えるのは軍人だけだ。俺たちは横について助言するだけ…それが大原則なんだよ」
「でも、通信兵の方は英語は分からないんでしょう?」
「いや、舐めちゃいけねえよ。海軍内部は下士官でも意外やある程度英語やドイツ語がわかる奴らがいる。それにマグネトもあるしな」
「何ですか?そのマグネトって」
「傍受した通信は記録出来るのさ。ここの通信機には全部録音機が付いてる。情報源の裏も取られる訳だ。勿論全部が全部録音する訳じゃあねえ、そこは通信兵の裁量ってことだ。だから俺たちにゃこっちの事情を分かってくれる技術兵が必要なのさ。まあ、出来ればついでに潤さんの事情も分かってくれると有難いんだが…そりゃあ無理ってもんだ」

「成る程…じゃあ、その野口さんの代わりに来るっていう新兵さん次第ってことなんですね」
「…だな…聞くところじゃあ若え新兵みてえだからよ、望み薄だな。多分山辺のいいなりだろうよ。何たってここは軍隊だからな…ま、次の手を考えるしかねえか…それより潤さん、ちょっと状況が変わっちまったからよ、余程気を付けなきゃあいけねえぜ。野口と組んでりゃあ多少あんたが変わりもんでも挙動がおかしくてもよ、心配するこたあなかったんだがなあ…」
「まあ、仕方ないですよ。折角甲一郎さんがここまでお膳立てしてくれたんですから、僕は僕なりに何とかこの職場に馴染んでみます。それに、今日赴任される新兵の方だって、もしかしたらそれほど堅物じゃないかも知れないじゃないですか。仲良くやれるかも知れないし」
「はは…そうだな。くよくよしてても始まらねえや。ただし、それほど悠長には構えてられねえ。俺は俺の方で別の手立てを考えてみるとするからよ」

甲一郎に比べれば、潤治にはさしたる落胆はなかった。何故なら潤治にしてみれば、自分が国政の中枢とも言える海軍省に潜り込めたこと、またこの時代に自分の居場所や身元や身分までも取得できたことは単に幸運がもたらしたこととはとても思えないからだ。この時代に飛ばされたのは僅かに11日前のことである。潤治にしてみれば、まるであらかじめ敷かれたレールの上を予め決められた場所に向かって連れて行かれている様に感じるのだった。


つづく...



この小説では、さる7月7日の夜に急逝されたイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを提供して頂いておりす。
本編掲載中は氏のイラストを使わせて頂くことと致します。
TAIZO氏のProfile 作品紹介は…







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