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【短編小説】あじさいの幻想クリームソーダ【幻想喫茶】

 からんころん、という音で、ちょっとだけ目が覚めた。

「ふわ……?」
「おはようございます」

 低めの声が柔らかに響き、目の前に透明なグラスが置かれる。

 あれれ、私って、お店にいたんだっけ。

 よく思い出せないままに、私はグラスを掴んだ。汗をかいたつめたいグラスに口をつけると、ふうわりとレモンの香りが広がる。喉にすべりこんできた香りが体中をすっきりさせてくれるみたいで、私は自然と力を抜いた。

「はー……おいしい。レモンの炭酸水だ。香料とか使ってないやつ……」
「ええ。産地直送のふぞろいレモンをそのまま冷凍して、ふたつに切ってカラフェに詰めて、炭酸水を注いだものですよ。初夏にはぴったりでしょう」

 レモン水をくれた店員さんは穏やかに言い、ガラスのカラフェを見せてくれる。
 なるほど、その中は黄色いレモンでいっぱいだ。
 ほうほう、とうなずきそうになって、私は慌ててグラスをカウンターに置いた。

「いや、それ以前にですね、すみません! 私、お店で寝ちゃってましたよね?」
「ええ、まあ。ぐっすりお休みになっていましたね」
「あああ、マジか……本当にすみません、あまりにも恥知らず……」
「疲れることは、恥ではございませんよ。特に最近は、疲れている方ばかりです」

 くすくすと笑い、店員さんはやんわり目を細めた。
 磨き抜かれたカフェのカウンターの向こうに立つ彼は、結構な長身だ。実験器具みたいな水出しコーヒーの機材と並んでも、そんなに小さく見えないくらいには背が高い。
 それでいて圧迫感が出ないくらいしなやかに痩せていて、短い黒髪はちょっと古くさいスタイルに整えていた。

 それより何より、彼の見た目で印象的なのは、目だ。

 このひと、紫の目をしている――。

 思わず見とれる私の後ろで、また例のからんころん、という音がする。
 紫の目の店員さんが、音のほうに声をかけた。

「ありがとうございました。また、いつでもどうぞ」

 あれって、ドアベルの音だったのか。
 何の気なしに振り返ると、店の全景が視界に飛びこんできた。

 ヨーロッパ風、って言ったらいいんだろうか。 思ったよりも広さのあるカフェだ。床には乳白色の石が敷かれており、客席は私の居るカウンターと、背後のホールにコーヒーテーブルがいくつか。

 お客さんの姿はぽつ、ぽつだ。BGMはなく、話し声もあんまりしない。澄んだコーヒーの香りを、高い天井に設置されたシーリングファンが、ゆる、ゆるとかき回している。

 まだ少し揺れているドアから出て行ったであろうお客の姿は、もう見えない。壁の一面を覆う窓ガラスの向こうに見えるのは、もっさりとしたあじさいの茂みだけだった。
 あじさいの色は紫だ。

 店員さんの目と同じ色だな、と思った。

「ご注文、何にいたしますか」

 不意に問われて、私は慌ててカウンターに向き直った。

「あ、はい! えーっと……メニューを、もらいたいんですが」

 控えめな私の申し出に、店員さんはさらりと言う。

「捨てていきたいお話を、ひとつ」
「は?」

 なんのこっちゃ、と思っていると、店員さんが優しく目を細める。
 まつげがかかると瞳の紫色がぐっと深い色になって、まるで日が沈んだ直後の空のようだ。
 彼は言う。

「この店のシステムをお忘れですか? 当店ではお客さまの、二度と思い出したくない、捨てていきたいお話の代わりに、お客様が今必要としている飲み物をお出ししています。メニューはあなたのここにございますよ」

 ここ、と言って繊細な人差し指が差したのは、私の額の辺り。

「捨てていきたい話……」

 そんなの、あったっけ。そもそも、私はどうしてここに来たんだっけ。
 私は今日は……多分、会社に行った。
 会社に行って、それで……?

 彼の指先を見つめて記憶をたぐっているうちに、私の胸には、もやっとした記憶が湧き上がった。

「……『暗い大人なんていない』って言われた話、捨てたいです」

 むっすりした顔になって言う私に、店員さんは浅くうなずく。

「なるほど。どんなお話でしょう」
「いやー……、そのまんまなんですけど。私って、小さいころから割と思い悩む子どもで……もし明日死んだらどうしようとか、幼稚園生のころからそんなことばっかり考えて暮らしてたんです。だって不安じゃないです? どれだけ楽しいことがあったって、美味しいもの食べたって、結局はみんな死ぬじゃないですか。何歳で気づくかはひとによると思うけど、『死』ってものを認識したそのときから、100%楽しいだけ! みたいな瞬間ってなくなるじゃないですか」

 いきなりディープな話かなあと思ったけれど、店員さんはひるまない。予備のグラスを丁寧に拭きながらうなずいてくれる。

「そうかもしれません。死はいつか必ず爆発する不発弾みたいなもの、なんておっしゃったお客さんもいらっしゃいました。たったひとりで眠るときでも、ベッドの隣には不発弾が横たわっているのだ、と」
「わかる。わかるな~、そのお客さん、鋭いですよ。でも、こういうことって大人になってから言うと、変人扱いなんです。大丈夫? 不幸なの? とか言われてアドバイス攻撃が来るんです。それの極めつけが、今日会社で別部署のおっさんに言われたやつ。『暗い大人なんていない』ですよ」

 語るうちに、私のテンションは上がってきた。

 噂のおっさんは、うちの部署とはちょいちょい行き来のある別部署の主任だ。彼は元から私の苦手なタイプだった。大した能力もないのに歴だけ長くて、顔も広いから無視はできない。
 で、黙って仕事だけやってりゃいいのに、こっちの部署に来るたびにいちいち私たちに声をかけてくる。あれは多分、自分のふるーい価値観で若者を断罪するしか楽しみがないタイプなんだと思う。

 芋づる式に嫌な記憶を掘り返している私に、店員さんは言う。

「その方は、死を忘れない人間は暗い、とおっしゃるのですか?」
「そう! それどころか、『大人っていうのは自制するものだから、暗い雰囲気の大人っていうのはいないんだよ。暗いのは子どもだけ』って。毎日会社行って! 毎日喧嘩もサボりもせずにきちんと仕事して帰って行く私に! わざわざ普段どういうこと考えてるの? とか聞いてきたあげくに、そんな話しをするのは大人失格だって!!」
「なるほど」
「私に言わせりゃ、相手がよっぽど人間的に暗いんですよ。オーラっていうんですか? いつも陰々滅々とした空気背負ってんの。一応顔は笑ってるけど、皮一枚だけなのバレバレだからね? 特に梅雨に入ってから、マジでひどい。他人に説教する前に鏡見ろ!って面と向かって言わなかっただけ、私は大人! どう考えても立派な大人です!!」

 全部言い終えると、息切れがした。

 ぜえぜえと荒い呼吸をしている私の目の前に、ぶわっと紫が広がる。
 あじさいだ。
 えっ、と驚いて顎を引く。
 視線を上げると、店員さんが笑っていた。
 一体どこから出したものやら、彼はおおぶりなあじさいの咲いたひとえだを、私に向かって差し出している。

「お疲れ様でした」

 深くて、ゆっくりした、心を撫でるような声だった。

「……はい」

 私はごく自然に、そう答えていた。

 店員さんはさっきとまったく同じ笑顔で、手にしたあじさいを一振りした。途端に、ざらっと紫色の花が崩れていく。崩れた花はどさどさと、背の高いグラスの中に溜まっていった。

 なんだろう、まるで手品だ。
 ぽかん、としている私の目の前に、すうっと窓からの光が差しこんでくる。光を受けて、きら、きらと、グラスに溜まったあじさいの花が光った。

 まるで、くだけた色ガラスみたいに。
 ……いや、違う。これ、多分、ゼリーだ。

 気づけば、グラスの中のあじさいは全部、青から赤への繊細なグラデーションの細かなゼリーになっていた。
 上が赤、下が青。真ん中はうつくしい紫色。

 店員さんはきれいな手でゼリー入りのグラスを私の前に置き、冷えた青色のガラス瓶からソーダを注ぎこむ。さらに、まぁるくこそげたバニラアイスをソーダのてっぺんに乗せて、店員さんは

「どうぞ」

と、笑った。

「……これは?」

 ほとんどぽかんとして目の前の飲み物を見下ろし、私は問う。
 店員さんは何事もなかったかのように、静かに答えた。

「あじさいゼリーのクリームソーダです。あじさいは土の成分によっても、開花からの日数によっても色が変わるので、『七変化』と呼ばれることもあるんですよ。昼から夜に、春から夏に、赤から青に。すべてが移ろうように、あなたの気分もすっきりと変わっていきますように。そんな願いをこめて作りました」

 七変化、か。

 確かに、今の私に必要なのは気分転換だ。
 言い当てられてしまったような気分で、私はソーダを引き寄せた。ソーダの中でふるふるとゼリーが揺れるのが、なんだか不思議と愛らしい。

 そのかわいらしい飲み物を見つめているうちに、私は店員さんの手品の種なんかどうでもよくなってしまった。

「ありがとうございます。美味しそう」

 一緒に渡されたストローを差してひとくち飲むと、目の前が薄青くなった気がした。いったん唇を放して、グラスを横から見てみる。

 私がストローを差したグラスの底のほうは、確かに、青い色をしていた。

 店員さんはなおも語る。

「あじさいの花言葉は『辛抱強い愛情』『一家団欒』『家族の結びつき』。……そういえば、毎年梅雨に入るといつもいらっしゃって、そのドリンクを注文されるお客さまがおられます。きっと今年も、もうすぐいらっしゃるでしょう」

 私はグラスの真ん中あたり、赤に近い紫色のところにストローを移動させながら問うた。

「毎年同じ注文なんですか? さっき、メニューは頭の中にしかない、って言ってたのに」
「その方の注文は、同じなのです。命日というのは、毎年巡ってくるものですから」

 命日は、そりゃ毎年来るだろうけど。
 それが注文と、なんの関係があるんだろう。

 不思議に思いながら紫色を飲み込むと、今度は目の前が紫色になってくる。
 まるで宝石みたいな、店員さんの瞳の色。
 日が沈む少し前の空の色。
 夕暮れ。
 もしくは、朝焼けもこんな色だった。

 小さいころは朝が早かったから、よく朝焼けを見ていた気がする。
 子どもの生活は子どもなりに大変だ。いつもすがすがしい気持ちで朝を迎えたわけではなかったけれど、あのころは隣にお母さんがいた。

 怖い夢におののいて飛び起きた私は、そーっとカーテンの隙間から外を見た。明るい世界が見たかったのに、空は真っ赤に燃えていた。
 まがまがしいまでの朝焼けに震えて、私は寝ているお母さんをゆすり起こしたものだ。

「おかーさん! ねえ、おかあさん! 起きて。おーきーてー!」
「んー。どうしたの。また悪い夢をみた?」

 お母さんはこういうとき、眠たくって優しい声を出す。私はそれにものすごく救われながら、彼女に覆い被さるみたいにして話を続ける。

「うん。あのね。私が、『みんないつかは死ぬ』とか、そういうこと考えてたら、どっかのおじさんが『そんなこと言うやつは大人になれない』とか言ってくる夢」
「あはは、今回の夢は変わってるねえ。大丈夫、みんな大人にはなるんだよ。でも……そうねえ。多分そのおじさんはさ。最近、好きな誰か死んだんだよ」

 お母さんは笑ってそんなことを言う。
 私はお母さんの仮説がちょっと不満だ。あのおっさんが悲劇の主人公なのは許せない。悲劇の主人公じゃ、攻撃できないじゃないか。

「えー。そんなことないと思うなあ……」
「どうかねえ。ただの予想だから、違うかもだけど。そのひとはさ、自分はそういうことを話さないで我慢してるんだから、あなたにも我慢しろーって言いたいのかも、って、ママは思ったんだ」
「んー……。でもさあ、そんなの変じゃない? 悲しいのをみんなで我慢して、みんなで黙ってニコニコして、それでなんかいいことってある?」

 不満いっぱいの私の質問に、お母さんはしばし考えこむ。
 そして、笑って言った。

「うーん。ないかな!」
「ないよねえ。うん、ないよ」
「そうだ~、ないない」

 うなずきながら私を抱き寄せ、母はまた布団の中に潜りこむ。そうして布団の上からぽんぽんと私の体を叩き、歌うように言うのだ。

「ないない。だってこの世界は、みんなが好きなひとをなくすように出来てるんだもん。悲しいときは暗くなろうよ。ほーら、外も雨だ。梅雨は泣いても目立たないね。いい季節だよ、私は好き」

 言われてみれば、確かに外は雨だった。
 鉄線入りのガラスの向こうは薄青く、しとしと、しとしとと雨が降り注いでいる。

 あれれ、さっきの朝焼けはどこへ行ったんだろう、と少し不思議に思いながら、私はゆるゆるとまぶたを閉じる。


 眠りに落ちていくさなか、どこかでからんころん、と、軽やかな音を聞いたような気がした――。

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