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「どうでもいい」と開き直れたら、希死念慮が消えた話

ぼくは数年前まで、希死念慮に悩まされていました。
毎日「死にたい」とそればかりを考え、自傷行為もしてました。

未来に希望が持てず、生きる理由もなく、だけど自殺する勇気は持てず、また自殺する事で家族に迷惑をかけたくはない。そんな理由でただ惰性で生きている、そんな感じでした。

だけどその日々がとうとう限界に達し、ぼくは発狂して自殺直前までいき、精神病院に担ぎこまれました。
20代前半で精神病院に入院。これはぼくにとって人生最大の絶望になりました。
落ちるところまで落ちたと思ったぼくは、全てに対し「もうどうでもいい」となりました。

小、中、高、専門学校と順調に進んできて、少々変わっているところはあったもののそこそこ普通だった自分。このまま普通に進んでいくはずだった人生が終わったんだから、どうでもよくなって当然だと思う。

重度のうつ状態、精神病院入院、そして発覚した発達障害。憧れ望んでいた普通の人生はもう二度と歩めないという事実が与えた絶望は、「もう全てどうでもいい」と投げ出すのに十分でした。

入院した最初の三日間は荒れに荒れ、看護師に向かって食事を投げつけ、家族に対しても当たり散らし、「こんなところにぶちこみやがって」と怒鳴り散らしました。
「何で産んだんだ」と叫んだ記憶もあります。

精神病院に入院したという事は、ぼくにとって普通の、健常者のレールから外れたという事でした。
個室の中でぼくは絶望し、泣きに泣きました。
言い方は悪いけど、「ぼくはとうとうキチガイになってしまった」と。
健常者として生きてきた普通のぼくはもう死んだんだと、この時突きつけられました。

殺風景な個室の中は、ベッドとトイレ以外何もなく、当然何をする事もできず、ただぼうっとするだけでした。
何も考える気力も湧かず、ただぼうっと、時間が過ぎていくのを待つだけでした。
次第に「もうどうでもいい!!」が「もうどうでもいい」に、そして「もうどうでもいい…」に変わり、ぼくはこの先の人生の全てを諦めました。
普通の人生が歩めないのなら、「どうでもいい」と。

入院して五日くらい経つと、ぼくは落ちつきを取り戻し、個室の外にも出るようになりました。
そこで看護師や他の患者と話したり、絵を描いたりして過ごすようになりました。
びっくりしたのは、入院患者たちは思ったより全然普通だったって事。
みんな普通に意思疎通もでき、普通に歩いて、普通にご飯を食べてる。ここが精神病院だと言われなければ、まったく普通の病院の普通の病棟の入院患者だったんだよね。
なんかそれくらい、みんな普通だった。

ぶつぶつと独り言言って廊下歩いてたり、突然体操をし始める人たちには最初ぎょっとしたけど、数日も経てば慣れてきた。
精神病院ではこれが普通の光景なんだなって思ったからね。

入院患者たちに交じって作業プログラムに参加するようになってからは、嫌悪感を感じる事がなくなりました。
むしろ面白いというか、突然歌い出したり踊り出したり、大泣きしたかと思えば次の瞬間には大笑いしてる人たちを見るたび、「なんかこういうのが人間らしいって事なのかもしれないな」なんて思ってました。

というか、普通ってなんなんだろう。
病院にずっといると病院の普通に慣れてくるんだろうね。
外から見れば「異常」とも思える光景も病院内ではいたって「普通」な事に、普通の概念が急速にゲシュタルト崩壊していくのを感じました。

「普通にならなければ」の「普通」って何?
「普通」って何指すの?

「どうでもよくね?」

「普通の人生なんて、どうでもよくね?」

「どうせ普通にはなれないし、普通の幸せも望めない。なら、ぼくはぼくのまま生きていこう。ぼくなりの幸せを手に入れよう」と、思えるようになったのです。
ある意味の開き直りでした。

そんな感じで、「どうでもいい」と思えるようになった時、同時に希死念慮が消えました。
「死にたい」から、「生きよう」と、前向きに考えられるようになりました。

今思えば、ぼくがずっと抱えていた希死念慮は「普通に生きなければ」という強迫観念、「普通の人生を生きられなければ死んでしまう」という恐怖感からくるものだったと思います。
それから解放された事で、希死念慮も消えたんだと思います。

精神病院を退院した後は、ぼくなりの人生を歩もうと決め、それまでがんじがらめにされていた普通の概念から、さよならしました。

「正規雇用で働くのが普通」、「どうでもいい」
「安定した仕事に就くのが普通」、「どうでもいい」
「結婚するのが普通」、「どうでもいい」
「友達をつくるのが普通」、「どうでもいい」
「健常者として生きるのが普通」、「どうでもいい」

「どうでもいい」と全てに対して開き直ると、嘘のように生きやすくなりました。
普通の人生から決別して、ぼくははじめて、「自分の人生を生きている」と思えるようになったのです。

もちろん、今となっては「どうでもいい」と思える事も、当時の自分からすれば「どうでもよくない」事でした。それこそ自分の人生を捧げるほどの事だったので、「どうでもいいと開き直れ」なんて言われても今すぐに「どうでもいい」と思えるようにはならないと思うし、難しい事だと思います。

だけど、自分が命を懸けてしがみついているものに、「どうでもいい」と言う人もいる。
自分でも後々思えば、本当にどうでもいいと思えるものなのかもしれない。
今はそうは思えなくても、「どうでもいい」という言葉があるという事だけでも、もしかしたら後にそう思える時が来るかもしれないって想像だけでも、片隅に記憶しておいてくれたらいいなって思います。

ぼくにとっては、「どうでもいい」が、魔法の言葉となりました。
「どうでもいい」と聞くと、悲観的な、投げやりな感じがあるけど、
その投げやりな言葉が救いになる時もあると思っています。


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