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【心得帖SS】あなた自身の言葉で、伝えてください。

「はあ…」
●●支店営業一課の新入社員、藤阪綾音は本日何回目かのため息を吐いた。

新入社員OJT研修のプログラムに「取引先実習」がある。
これは一定期間取引先の実習生として業務を行うもので、綾音は今週一杯隣課の先輩が担当している取引先の主力店で実習を行なっている。
(三山木チーフや職場の皆さんはとても優しくて働きやすいのだけれど)
真面目でそこそこ要領の良い綾音が心底悩んでいること。
それは【マネキン販売】だった。

元々人見知りが強い彼女は、面識の無い人に話しかけられるとテンパってしまい、まともな応対が出来なくなる。
学生時代も接客業のアルバイトは極力回避していた。
そんな彼女の性格は、社会人になっても解消されることはなく…。

「お姉さん、これはどうやって食べるのかな?」
「はっ、はいいい。こ、これはですね」
後ろから年配の女性に話しかけられた綾音は、辿々しく説明を始める。
商品カタログに記載されている内容を話しているのだが、女性にはイマイチ伝わらなかったのか、「…またにしますね」と早々に立ち去られてしまった。
(これで5人目…やっぱり接客向いてないのかなぁ)
説明の途中で逃げられてしまうので、一度もクロージングに入っていない。指名買いの人を除くと、彼女に課されたノルマは殆ど消化されていなかった。

「藤阪さん、どんな感じ?」
その時、発注作業から戻ってきたデイリー部門のチーフ、三山木日向が彼女に声を掛けた。
「ご覧の通りです。誠に申し訳ございません」
試食台と接している大きな平台冷蔵ショーケースには、推奨商品が山のように積まれている。

「ああ、最初はよくあることだよ。御社の担当者さんだって、初めてあった時はひたすら頭を下げていたからね」
商品を載せたトレイも持たず、お客さまにペコペコ頭を下げていた数年前の【彼女】を思い出して、日向はクスッと笑った。

「私、接客が得意ではないんです。才能が無いのだと思います」
彼女の台詞を聞いた瞬間、日向の顔からスッと笑みが消える。
「…藤阪さん」
暫く声を閉ざしていた彼女はやがて、綾音を諭すように言った。
「【努力は才能に勝る】よく覚えておいて」
「はい、すみません…」

午後からも調子が上がることなく、綾音のマネキン販売初日は終了となった。

店から帰る間際に声を掛けられた綾音は、現在地鶏焼居酒屋のカウンター席に座っていた。
「ぷっはぁ〜っ、労働のあとのビールは美味い!」
彼女の隣では、日向が早くも2杯目の生ビールを空にするところだった。
「あの、三山木チーフ」
「何だか堅苦しいなぁ、日向でいいよ日向で」
「では日向さん、今日はどうして誘っていただいたのでしょうか?」
「うーん、そうだなぁ」
ジョッキを傾けながら最適な回答を探している日向は、綾音の方に向き直った。
「藤阪さんって、上手くいかなかったら一晩中思い悩むタイプだよね?」
「はい、良く分かりましたね」
若干驚いた素振りを見せる紗季。
日向に誘われていなければ、おそらく自宅で膝を抱えて悶々としていたところだ。
「商売柄、いろんな人を見てきているからねぇ」
表情を色々と変えながら話していた日向は、話を続ける。
「だから藤阪さんには、昼間に私が言ったことに対して丁寧な説明が必要だと思ったの」

「【努力は才能に勝る】とは、目標のために努力する人は生まれつき優れた才能を持つ人より秀でている、という意味よ」
良い感じにアルコールが回って来たのか、日向はとろんとした瞳で綾音を見つめる。
「よくスポーツ選手が使う言葉なのだけれど、彼等は見えないところで何十倍、何千倍もの研鑽を重ねているわ」
「見えない…努力」
ハイボールの入ったグラスを両手で抱えた綾音は、目の前にスッと差し出されたハンディタイプの大学ノートを思わず受け取っていた。

「あの、これは?」
「ワタシの【虎の巻】だよ。接客の基本とか色々と書いているから、綾音さんも参考にして貰えると嬉しいな」
相当使い込んだのか、よく見るとノートの表紙はかなり擦り切れている。
「いいんですか?こんな貴重なノートをお借りしても」
恐縮する綾音に、日向はひらひらと手を振る。
「大丈夫大丈夫、このノートは元々御社の四条畷さんと一緒に作ったものだから」
「えっ?」
(四条畷さんって、隣課の女性リーダーで仕事が超優秀な紗季先輩のことだよね?)
「日向さんを担当させていただいているのは、弊社の四条畷だったのですね」
「そう、紗季さん」
日向はぐいっとジョッキを飲み干すと、店員に手を振った。
「懐かしいなぁ。バイト上がりの私がサブリーダーになって悩んでいたとき、紗季さんがお客さまのために何か面白いことはできないかなぁと相談してくれてね。2人でまず基本のキから押さえようかって話していたのよ」
運ばれて来たおかわりの生ビールに早速口を付けた日向は、ハンカチで口元を拭ったあと話を続ける。
「ウチの事務所で時間の許す限り議論して、店長から2人とも早く帰りなさいと怒られたら、このお店に移動して毎回延長戦をしていたの」
「そうだったのですか」
知的なカッコ可愛い系女子の紗季が、生ビールと焼鳥を手にしてああだこうだ言っている姿を想像した綾音は、思わず吹き出してしまった。


翌朝、綾音は店舗のバックヤードに佇んでいた。
(努力に勝る才能は無し…か)
隅々まで虎の巻ノートを読み込んだ彼女は、それをパタンと閉じてエプロンの内ポケットに仕舞った。
(よし、いっちょ頑張ってみますか)

「いらっしゃいませ!」
売場に通じるスイングドアを押し開けた綾音は、真っ直ぐ前を向き元気な声でお客さまへの挨拶を行っていった。

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