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【心得帖SS】わたしを、甘やかさないでください。(前編)

「…本当に、それで良いんだね?」
普段から聞き慣れた彼の声が、少し上擦っている気がしたのは私の思い込みが過ぎるのかな。
必要以上に時間を遣って逡巡するフリをした私は、ややあって静かに口を開いた。
「はい…宜しくお願いします」

昔から、何でも出来るコだった気がしている。
学業も運動も人並みに熟し、両親の言うことも素直に聞いていた。
『四条畷さんのところのお嬢さんは、ホントいい娘ねえ。それに引き換えウチの息子は…』
マンションの井戸端会議で母親がそう言われているのを、偶然通りがかった私は耳にしたことがある。
いつもと同じ荷物を入れていたのに、その時はやけにランドセルが重く感じたことを今でも覚えている。

中学・高校の時も、それなりに楽しく充実した学生生活を満喫していたと思う。
ずっと女子校だったこともあり、駅前のハンバーガーショップで女友達とポテトを摘みながら『カレシ欲しいなぁ』など話していたものだ。

私に待望の?彼氏が出来たのは、大学2回生の春。
わざわざ季節を入れたのは、シーズンが変わる前に早々と別れてしまったからだ。
彼から最後に聞いた台詞は『サキは頭が良くて見た目も美人だけど、つまらない女だな』
確か向こうから告白してきたハズだが、今から考えると随分と酷い男に捕まったものだ。

そのことを特に引き摺っているつもりはないが、今日に至るまでマトモに恋人を作ったことがない。
仕事が充実していて大変だとか、周囲にバリキャリ女子が多いとか、色々言い訳は出来たが、そう言うことから意図的に自分を切り離してる理由付けを探している状態でもあった。
ひと言で言うと、何だかモヤモヤしていたのだ。

最近、環境と共に一つの変化があった。
入社してから数年間お世話になった先輩が、自分の上司として戻って来たのだ。
京田辺一登先輩の言葉は、幾分難し過ぎることもあったが、それ以上に得られるものが多かった。自分に対しても相当厳しい人なので、彼の発言には常に重みがあったのだ。
ここで、彼と私の関係性を語る上では外すことができない出来事を、ゆっくりと思い出していくことにする。

学生時代まで、挫折らしい挫折を経験して来なかった私が初めて壁と呼べるものに当たったのは、入社2年目の夏。
自身の発注ミスで、通常では到底捌けないほどの商品在庫を抱えてしまったのだ。
担当の取引先や問屋に頭を下げて引き取って貰えたのが全体の3分の1程度。賞味期限が迫る中、このまま廃棄となれば莫大な損失を会社に与えてしまう。
まだ多くの営業的な引き出しを持ち得ていなかった私は、1日経つごとに悪化していく状況と、のし掛かって来る見えないプレッシャーに身体を震わせていた。

ある日、胃の中のものを全部出してトイレから出た私は、丁度出張から帰って来た京田辺先輩と鉢合わせした。
『っ、すみません』
『ん?どうした四条畷、暫く見ないうちに随分やつれたじゃないか。そんなに仕事がキツいのか?』
普段と変わらない彼の口調に、私の中で何かが崩れていった。
『先輩…わたし…わたし』
その様子を見て何かを察した京田辺は『ちょっと待っていて』と、私を休憩室の椅子に座らせると、事務所の中に入っていった。
遠くの方から、誰かが言い争うような声が聞こえてきた気がしたが、軽い心神喪失状態に近かった私は、風の音や自動車のエンジン音と同じくらいの感覚で、ぼうっとその音を捉えていた。
『待たせたな、四条畷』
やがて、先ほどと同じ表情をした京田辺が、私の肩に手を置いて言った。
『まずは、メシを食いにいくぞ』

目の前にコトリと置かれた小鍋から漂う良い匂いに、私は久しぶりに(食べたい)と思う気持ちを思い出した。
『身体やココロが参ってしまったときは、ここの豆乳玉子粥が一番なんだ』
殆ど人通りのない裏路地で、ひっそりと看板を出している隠れ家的なお店らしく、お昼どきのピークを外したとはいえ、私と京田辺先輩以外にお客さんは誰も居なかった。
優しく刺激的な香りにゴクリと唾を飲み込んだ私は、恐る恐るお粥をひと匙口に含んでみた。

(あ…っ)

涙がひと筋、すうと両頬を伝う感覚がした。
『熱い…でも、美味しい』
『それは良かった』
夢中で食べ進めている私を見て、京田辺先輩はほうと胸を撫で下ろしている感じだった。
(暖かい食事なんて、何日ぶりだろうか)
何を食べても砂のような感触しかなかったことや、すぐ吐き戻してしまうことから、栄養ゼリーやサプリメントを食事代わりにしていたが、やがてそれすらおざなりになっていた。

『四条畷、暫く事務所に戻れない間に大変なことになっていたんだな』
幾分感情を押し殺したような彼の口ぶりに、この後怒られるのだなと思った私は、ギュッと目を閉じた。
だが、続いた言葉は全く違っていた。
『ごめんな、指導係なのに側にいてあげられなくて。適切な助言をすることができなくて』
思わず前を向いた私の目には、深く頭を下げている京田辺先輩の姿が、あった。
『そんな…先輩が悪い訳じゃないですよ』
『勿論、一番悪いのは入社2年目のコに全てを押し付けて知らん顔をしているバカ上司だ。さっき思い切り怒鳴りつけてやったよ』
彼はまだ怒りが冷めない様子だ。
『上司の役割は、部下の能力を最大化させて成果に繋げること。それを放棄した時点で退場処分、まさに【お前、船を降りろ】だな』
まるで自分のことのように怒ってくれたのだろう。何故か顔が赤くなってきた私は、残りのお粥を食べることに意識を集中した。

『四条畷。食べ終わったら、ここに行くぞ』
京田辺先輩はスーツの内ポケットから名刺入れを取り出して、一枚の名刺をテーブルに置いた。
『NPO法人…フードドライブ?』
『こちらでは、賞味期限が迫った食品や調味料を【寄贈】という形で引き受けて貰えるんだ』
続いて取り出したパンフレットには、フードロス撲滅活動の詳細や協力しているメーカー、問屋、食品を必要としている施設や団体の方の声などが記されている。
『うちの会社でも、本社の一部スタッフが主導で当該団体の方との取組を進めていると聞いていてね。先ほどスタッフに連絡を取って、⚫︎⚫︎支店の試験取組ということで認めて貰ったよ』
『それは…つまり』
『四条畷の商品過剰在庫は寄贈扱いとなるので、単純なロスには計上されない。普及活動にも繋がるので、むしろ前向きな取組に変わったよ。お疲れ様』
『ホントですか…良かった…本当に、よかったよぉ…うわあぁーん!』
堰を切って流れて来た感情に耐えられず、私は顔を覆うことも忘れて声を上げて号泣した。
『お、おい、まだ先方(NPO)との交渉が決まっていないから…な、泣くなよ』
私の突然のギャン泣きに、珍しくおたおたし始めた京田辺先輩は、ズボンのポケットからハンカチを取り出して差し出してくる。
あらあらぁと微笑んだお店のオバちゃんが、気を利かせたのか準備中の札を持って入口の方に歩いていった。
『グスッ…すみません…』
(涙やら何やらで京田辺先輩のハンカチをぐちゃぐちゃにしてしまった。これは弁償しなくては)
京田辺への気遣いを考えられるほどの余裕が出てきたことに、その時の私は気付いていなかった…。

入社から8年が経過、営業現場での経験を積み重ねた今でも、厳しい状況に直面したときには、必ず豆とお出汁の香りが漂うあの空間を思い出している。
(おそらくあれが、私の分岐点だ)

後編に続く

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