見出し画像

【短編小説】 春を突く

 わたしはある朝方、近所の横断歩道を渡っていた。よく通りかかる道路標識は、いつもより少し黒ずんで見える。一歩一歩足が前へ出る度に、不気味な金属音が頭を揺らす。背中にはじっとりと汗をかき、頻りに、それも闇雲に木の枝がさざめいている。ガードレールの脇では、雨に誘われて出てきた大きなみみずがアスファルトの上をうねっている。薔薇色の雲は、今にもわたしの頭上に襲いかかってきそうな勢いだ。
 悪臭を漂わすゴミ収集車が目の前を通りすぎていく。以前はもっと上手く歩けたのにと思う。一歩一歩が神経質な亀のようになってしまった。こうして朝の町を歩くのは異例中の異例だ。朝、散歩をしていると、金縛りにあったような気分になる。遠くでは、雷鳴が轟いている。痩せこけたカラスが一羽電線に止まり、うずくまっている。わたしは外に出たことを後悔して、できるだけ早く家に帰ろうと足早になる。
 夜の帳がわたしを呼んでいるかのように、明け方の雲は後ろ向きに進んでいる。
 道端に痰が落ちている。数十歩先では、怒り狂った老人がよその家の戸を箒で叩いている。サンサン、サンサン……風が信じがたいほど静かに吹き、家々の屋根がうそみたいに白んで、吹きつける風をがさつに跳ね返す。
「雀のさえずりで頭がくらくらする。生きていると正気を失ってしまうのはなぜ?」
 虚な瞳で老人がわたしを見た。彼が手に持っていたのは箒ではなく、壊れた傘だった。それを目にしたとき、生き血を啜るような生暖かい音が脳内に響いた。百合籠を揺らし、人生の歩みを阻もうとする音だ。それを聴くと、耳が凍りつき、震える手を止めることができなくなる。
「生まれ故郷は信用ならん」
 老人がわたしに告げた。ふざけた手つきで傘をくるくる回しながら、わたしの方へと近寄ってきた。
「故郷というものは、まやかしだ。わしが数十年前あそこへ帰った時は、村中の人間がわしを罵倒しに、家へと押しかけてきた。鎌を携てやってきた奴もいたよ。年金を払え、年金を払えと、訳の分からないことをほざく輩もいた。わしがどれほどの若さでこの世を去ろうとしたか、想像がつかんだろ。五歳だ! 五歳の時分から、わしはこの世の馬鹿らしさを悟っていた」
 脱ぐか、騒ぐか。わたしの選択肢は二つに一つだった。刺すような気詰まりが喉元にまでやってきた。おんぼろの開いた傘が老人の手元をすり抜け、地面に落下した。その音を聞いて、わたしはさらに混乱した。無人の荒れ果てた空き地から、黒猫が路上へと飛び出してきた。猫はわたしに瓜二つの姿をしている。
 ある別の日、わたしがマンションの近くを通りかかると、拳くらいの大きさの緑色のブロックが目の前に突然落ちてきた。どうやらブロックの玩具らしい。上を見上げると、二階のベランダから次のブロックが空中に現れた。それからゆっくりと、赤、青、緑、緑、黄色、オレンジ、赤、オレンジ、青、緑のブロックが一つ一つ落ちてきては地面に転がり、私の足元にも一個、青のブロックが転がった。近くではすでに一人の女性がその場に立ち尽くして、一面に広がる色とりどりの何十個のブロックの山を眺めていた。歩道には消防車が一台停まっている。わたしがその出来事を彼に話すと、彼は真剣な面持ちで話を聞いた。水中で窒息しているような表情だった。
「空想の灯火は今にも消えようとしている。きみのその話はぼくの子供心をくすぐるような話だ。人類で一番尊敬すべき人種は、当然子供だ。子供はいつまでも夢を見続けて、しかもそれを完璧に実現してみせるからね。ブロックを外に放り投げてたのも、子供のはずだよ。ぼくはその子を尊敬する。けれども、消防車を呼んだ女性のことは軽蔑する。軽蔑しても軽蔑しきれない。そいつは結局、人間の価値を根こそぎ奪い取るような奴だから」
 わたしはその日の夜、世界の最下層へと沈み込むまでぐっすりと眠った。朝起きると、眼が赤く腫れ、目脂が瞼の裏にべったりこびりついていた。彼は横で細い寝息を立てていた。
 朝陽はありふれた残像を公園の影に落とす。町の公衆便所は若者の溜まり場になっていて、勇気のある者はそこで日中セックスをする。だから、小便のにおいがする便器には、混濁した体液が飛び散る。人々の忘れかけた頃にまた、けたたましく救急車のサイレンが鳴る。外では、湯水のように激しく降っていた雨が今はもう止んでいる。朝なのか夜なのか分からない時刻に、わたしは眠っている彼の耳元で、戦々恐々と朝の挨拶を囁いてみる。皮肉なことに、彼の髪の毛は逆立ち、張り詰めた空気がわたしたちの間を流れる。気兼ねしたわたしは台所へと向かい、水道の蛇口をひねり、鉄の味がする水をコップ一杯に注いで飲む。意味もなく、換気扇のスイッチを入れる。この町はつかみどころがなく、狭いようでとても広い。外では、自転車と人が突風に吹かれてばたばたと倒れていく。人気のない公園で、誰も乗っていないブランコが揺れている。乳母車に洋人形を乗せたおばあさんがよろめきながら横断歩道を横切る。太陽が昇る。
 河川敷の上を太陽が昇る。
 塀の向こう側で太陽が昇る。
 団地の電柱から太陽が昇る。
 鼠色の雨水が道路の両端にあるグレーチングに流れ込む。それと同じ速度で、遅咲きの桜は次々と枯れて、地面に実を落とす。信号の首元は大きく斜めにねじ曲がっている。彼は顎を引き、布団を頭に被り、孤独に満ち足りた寝顔をわたしから隠す。どうしたってふいに「孤児院」という言葉が脳裏をよぎる。奇妙な霊体が手を取り合ってさまようこの町が、協力的ではないことくらい分かっている。わたしには分かっている。
「銀河のような道を歩いてみたいよ。きみには僕の言葉がどう映っている?」
 とりとめのない夢が壁中に霧散する。この部屋の怪奇現象は間違いなく彼の言葉とわたしの親指から端を発している。
 彼は大それたことを言いたくない主義の人で、わたしとは正反対の性格をしている。この町のことを「薄汚い小宇宙」と彼が言うことは絶対にないだろう。三回目に来る春の残酷さを誇張して、人に訴えかけるような真似もしないだろう。その証拠に、彼は胡乱な目をしたまま体を起こすと、股座を掻き窓の外を見ながら「今日も変な天気だなぁ」とだけ呟いた。台所に立ち尽くすわたしを見てから、彼は大きな欠伸をし、枕元にあった本をどかしてまた眠りに入った。至る所で足音がするこの団地では、無数の穴とごわついた染みが群れを成す。わたしと彼は一緒にここで暮らしている。より正確にはここで、不純な沈黙の中で、わたしたちは実在しているのだ。
 坂道を転がるように彼が寝返りを打った。
 いつものように雀が鳴く。ネモフィラの芽が顔を出しても、春が町中の苦痛を受け止めるのには時間がかかる。

この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?