とんだ

[ショートショート]


「あ。とんでる」
 汚れたスニーカーを見つめながら歩いていると、女性が私の後ろで呟いた。

『お前さ、空気読めよ』
 心地よい風に煽られながら息をつく。ベランダから見下ろした工場地帯のこの町には、灯りも人の気配も少ない、なんの見所もない夜景が広がっている。聞こえるものといえば、バイクとパトカーが追いかけっこをする音くらいだ。
『どういう意味ですか?』
 ただ一言、メールを返す。
 気持ちの悪いものが胸の辺りに住みついて離れない。痛いようなくすぐったいような吐き気をもよおしそうな。これは何なのだろうか。人はこれをなんと形容するのか。泣きたいような気もするが、涙の出る気配はさらさら無い。
『もういい。もう話したくない。俺に関わるな』
 一方的な否定の言葉。何故私がこの男にここまで言われなければならないのか。そもそも私に否があるとは到底思えないが、返す言葉など浮かびもしないし返す気にもならない。
携帯電話に結ばれたストラップを掴み、柵の外へ腕を出す。ぷらりと垂れた携帯電話は今にも落ちそうで不安定に見える。
 これが壊れてしまえば奴との関係を切ることができるのか。否。この部屋の合鍵を持っている以上、奴はこの部屋に入ることができる。それどころか、仕事の連絡が途絶えて困るのは私のほうだ。毎日の仕事がメールでの連絡ばかりというのも、なんとも鬱陶しい。
 握っている指を一本ずつ開いていく。全ての指を開き、人差し指と中指の付け根にその飾りを引っ掛けた。これには何の罪も無いが、奴のネックレスとお揃いというだけで何となしに腹が立ってくる。捨ててしまっても良いが、自分で買ったものだけに値段が頭にちらついてしまうのがまた、腹立たしい。

 事の発端は奴のブログだった。
『あんなに好きだと言ってくれていたのに。前の日に「お休み。好きだよ。」って電話で言い合ったのに。なんでだよ』
 ちょっと待った。何の話だ。と。
 確かに私と奴は体だけの関係だ。しかし、私が奴を好いているのは奴も承知済み。だからこそ、都合が良いと思われているのだろうけれど。
奴の友人知人等とも顔を合わせ、何度も遊んでいる。というより、私が仕事に行っている間に勝手に友人らを私の部屋に連れ込んだ挙句シャワーやパソコンを使い、挙句の果てには翌日私の仕事が朝早くからと言ってあるにも関わらず、夜中を通り越して朝方まで騒いでいたこともあった。
 第一、このブログは私が読んでいるのも知っている。別の女とブログを通じて連絡を取るのを見られてはマズいとでも思ったのか、私をブラックリストに登録して出入りを禁止にしたことも幾度となくあるのだ。
 即座に、事情を知っていそうな共通の友人に連絡を取った。彼女は私が奴に好意を持っていることも知っているので話しやすかった。
 聞いてみればなんともまぁ、馬鹿な話だった。
 ブログを通じて知り合った女と電話で話し(奴は実のところ、声だけはかなり格好良かったりする)結果付き合おうかという話になったらしい。そして「お休み。好きだよ。」などと私にはかけたこともない言葉をかけ合い、次の日にメールをしてみたが返事がなく、そのままフラレたのだ。

 訳がわからなかったが、一つ合点がいった。
 恐らくその翌日、私と奴は出かける約束をしていた。私は約束の時間に奴の家の前で待っていたがなかなか出てこず、電話をかけると眠っていたような不機嫌な声が返ってきた。その後買い物などにでかけはしたが、始終奴は不機嫌なままだった。
 なるほど。それは不機嫌なわけだ。だがそれを私に当たるのは間違いだし、そもそもはじめから「彼女が出来たから会うのは辞めよう」くらいはその女と付き合った時点で言ってほしかった。結局のところ、私は奴に何とも思われてはいなかったということか。
 そもそも何故そんな男でも側にいたのか。好きだなどという言葉をかけていたのか。それすらも分からなくなるほどに、はっきり言って呆れ果てているにも関わらず、こんなにも苦しく悲しいのは何故なのだろう。いっそこの暗い空に身を投げてしまえばすっきりするのだろうか?
 そうすれば、ほんの少しくらいは寂しく思ってくれるのだろうか。
 なんて奴のために身を投げる気にもならないのも確かなのだけれど。4階という中途半端な高さのこのベランダから身を投げたところで、下手をすれば運悪く生き延び、身体に支障をきたす恐れもある。そこまでしてやる義理もないのではないだろうか。
 考えるのも面倒になった頃、携帯電話が光った。

 一つくしゃみをしながら、友人との待ち合わせ場所に向かって歩いていた。
 夏も終わりかけの寒空の中、ベランダに4時間も座り込んでいれば風邪もひいて当然だ。
『返事くらいしろよ。ふざんけんな。自分の立場わかってんの?』
 それを読んだ瞬間、友人との約束を思い出した。部屋に戻り、窓の鍵を閉め、ついでに玄関のチェーンロックもかけて布団に入ればもう全てがどうでも良くなった。ただ頭に残ったのは翌日の友人との待ち合わせ時間と場所だけ。
 朝、携帯電話の目覚し機能を止めようと画面を見ると、あまりにも多くのメールと電話が入っていた。
 奴からのものだということは今までの経験上分かっている。内容は見ずに、フォルダ毎削除した。

 ふと足元を見ると、自分の履いているスニーカーが随分と汚れていることに気がついた。もとは真っ白だったそれも、茶色や黒で染まっている。どこで付けたのか、ペンキのような黄色いものまでついていた。
「あ。とんでる」
 すぐ後から、女性の声がした。恐らくは先ほどすれ違ったカップルであろう。振り返れば、男性の腕に自分の腕を絡めたまま、空いている左手を頭上にあげている女性がいた。
 その指先を辿ると、たしかに白い何かがふわふわと浮き沈みを繰り返しながら飛んでいた。よくよく目を凝らせば、それはよくあるコンビニ袋だった。くすりと少しだけ笑い、周りを見渡す。皆も同じように見上げ、口々に何か呟いている。
 ふと、冷たい風が袋を巻き上げた。昨日から下ばかりを見ていたせいか、頭がすっきりした気がした。
 待ち合わせ場所に視線を向けると、友人らしき人物も同じように見上げている。さて、これから何をしようか。まずはスニーカーとストラップを新調しよう。それから食事にでも行って。
 とんだ災難にあった。と思い出話でもしてみよう。

もくじ
マガジン『世界の欠片』

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