芸術は孤独からの救済であること
私は芸術が好きだ。
絵画や彫刻など美術をはじめ、音楽、文学、服飾、映画など、芸術作品といわれるものには大体一旦興味を持つ。
現在大学4年生だが、大学では4年間芸術だけを好き勝手学ぶ日々を送ってきた。非常に楽しかった。
しかし、私が本当に興味を抱くのは芸術作品そのものではなく、作品の、その先に見える〝人間〟だ。
具体的には、宇多田ヒカルの音楽よりも宇多田ヒカルが、小川洋子の小説よりも小川洋子が、マリー・ローランサンの絵画よりもマリー・ローランサンに興味を持つということ。
勿論、皆創作活動をする人たちなので、取っ掛かりは彼らの作品であり、まず好きになるのはそれであることに変わりはないのだが、結局、私が興味を抱くのは作品の先にある〝人間像〟である。
私にとって芸術は、作品を生み出してくれた人と繋がることができる、いわばコミュニケーションツールである。
宇多田ヒカルの音楽を通じて宇多田ヒカルと繋がり、小川洋子の小説を通じて小川洋子と繋がるのだ。
芸術家や作家はみな、魂を削って作品を生み、世に送り出している。
宇多田ヒカルが全身全霊をかけて生んだAutomaticや、同じく小川洋子が生み出してくれた博士の愛した数式を、私が「これは良い」と認識して受容する。
宇多田ヒカルと私、小川洋子と私が、同じひとつの作品に対して愛着を持つ。
そうすることで、私は孤独ではないことを知るのだ。
些かおこがましい話であるが。
世界のどこかに私と同じことを感じている人がいるということを、作品を通じて知ることができる。
それが私の考える芸術の魅力だ。
その誰かは、もしかすると同じ時代を生きている人ではないかもしれない。一千年前、遠い異国に生きていた人かもしれない。
しかし芸術は時間も空間も超えてくれる。
その人が見たものや、感じた喜びや哀しみを、絵画や音楽や文学にして残しておいてくれたおかげで、ここにも自分と同じ気持ちの人がいたんだ、と知ることができる。
それは他ならぬ孤独からの救済になるのだ。
日々日常過ごしているなかで、周囲に自分が理解されない、と感じたとき、私は小川洋子の本を開く。そこには、極限まで美しく、静謐でまた残酷な日本語がどこまでも綴られている。私は彼女の筆先が生む文章が、この世で一番好きだ。
小川洋子と私は、文章へ抱く価値観が同じなんだ。大変あつかましくも勝手にそう信じて安堵して、彼女の本を胸に抱いて眠りにつく。
(敬称略)
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