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「花屋日記」エピローグ:あなたの名前は?

 ずっと、人に優しくできない時期があった。電車に乗り合わせた乗客も、コンビニの店員も、私にとっては「背景」でしかなかった。その一人ひとりに性格や生活があったとしても私にはまったく興味が持てなかったし、極端に言えば無差別殺人を犯すようなヤサグレた人の気持ちも、想像できなくはなかった。それは自分自身が、この都会でちゃんと「人」として扱われてこなかったからだと思う。

 今のオフィスの近くにある定食屋には、やたら明るい店員さんがいる。トレイを運び間違えて
「おっと! 危うくほかのひとのお腹にはいっちゃうとこでした!」
なんて笑っているのを聞くたびに「この人は楽しそうに働いてるなあ」と思う。ポットのお茶が十分に残ってるかとか、暖房が暑すぎないかとか、人懐っこくお客に話しかけてきてはニコニコとしている。この店にはきっとたくさんの常連客がいるのだろう。

 昼休み、東京コレクションがようやく終わって一息つきたくなった私は、店の入り口で立ち止まって品書き見ていた。ハナミズキがすぐそばで咲いている。すると
「久しぶりですね! 毎日、来られるのを待っていたんですよ」
と前掛けを付けた彼が調子よく声をかけてきた。
「嘘ばっかり」
と突っ込むと
「うん、ちょっと嘘だったかな」
と悪びれもせず、笑う。そして
「ねえ、そろそろ名前を教えてくださいよ。僕はモリちゃんと言います。いろいろね、みなさんとお話したことを覚えておきたいんですよ僕は」
と勝手に名乗り、息子が二人いて、野球部にいるから丸刈りなことなどを教えてくれた。
 ただの営業好きなおじさんなのかもしれないし、女たらしなだけかもしれない。でも私はこういう瞬間に、人が「背景」でないことを思い出して、不意に泣きたくなってしまう。

 こうやって言葉を交わせば、雑踏の中ですれ違うようなときでも、モリちゃんはモリちゃんで、もう「背景」ではない。私はそれだけで、駅前で刃物を振り回したりもできなくなる。「背景」みたいな人間なんて、私も含め、ほんとうは一人もいないはずなんだ。

 結局、私は炙りサーモンを注文して、モリちゃんの淹れてくれたお茶をすすった。そしていろいろ考えてから、帰り際に初めて彼に自分の名前を教えた。
「私はファッションの仕事をしているんですけど、今ね、丸坊主のモデルさんって多いんですよ。もしかしたら息子さんも将来、注目されちゃうかもしれませんね」
 お会計をしながら冗談めかして伝えると、彼は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「そう! 息子ね、高2なんだけど、顔は悪くないと思うんだよね。モデルが必要になったら言ってよ!」

 今、私にはみんなが、見えている。その人の人生を感じて、それを尊重したいと思える。それが私にとってはいまだに驚くべき変化で、その幸せな転換を与えたくれたのが花であることも、私は絶対に忘れないだろう。
(完)

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