「読書記録 「書くことの不純/角幡唯介」」

・「書くことの不純」
少しの前情報もなく、ただただこの言葉に吸い寄せられるように手に取った本。
私は言葉が好きで、表現が好きだ。
言葉での表現に強く惹かれる。

ただその思いと裏腹に、いつまでたっても、自らの文の嘘臭さに心底うんざりしてしまう。
また、自分の表現の軽薄さに葛藤するのだ。
 

NOTEでの表現を続けている。
主に読書記録として、まとまりのない率直な文を残す。
友人や知り合いに開いてはおらず、とても自由な個人的な表現。
そこには己の中の汚さ愚かさ、葛藤がとてもリアルに記されている。
 
対して、最近仕事の関係もあり、インスタグラムを数年ぶりにインストールした。
友人や家族、仕事仲間に開けた媒体での表現は、想像以上に私にとって困難なものだった。
「匿名性」に私もすがっていたのだと自覚した出来事だった。
「どう見えるか」に翻弄される自分を恥じると同時に、やっぱり本質的な部分は何も変わらないのだと思いしれらされる出来事となった。
 
実名での発信をやってみたいという素直な気持ちもある。
でも、知人の顔が頭の片隅にある状態での表現は、丁寧に慎重に本心を掬い上げているはずなのに、どこまでも嘘くさく、軽薄で。
そしてこの一文が「私」を作るひとかけを担うと思うと急に不安に押しつぶされてしまいそうになる。
私の投稿なんてス­ーッ流れていくのだけれど。
この一文で「私」の全てを推し量る人なんて存在しないと頭で分かっていようとも、言葉に力不足を感じずにはいられない。

私の言葉として残すことの恥ずかしさ。

大袈裟なのは分かっていようとも。
 
でも、本来「表現」というのは、
己の一部である思考や思索を世界に明かすというのは、
それくらい慎重にあるべきではないのだろうか、とも思う。

その行為の入口は低く、広くなっているけれど、それの有する恐ろしさは何も変わらないのではないだろうか。
 

そんな私の大好きな言葉や表現に対するやりきれなさに、どこか通うものがあると感じたのがこの本を手に取ったきっかけだ。

 
・思い出した言葉
「あなたの行動がほとんど無意味であったとしても。それでもあなたはしなくてはならない。
それは世界をかえるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」

「「一色」はこわいことなのだ。
「いろいろあり」であり、その「いろいろ」に優劣をつけないことこそが民主主義の基本ではないか。
それが来る日も来る日も一色である。
「一色」というのはあまりに味気なく、恐ろしく不気味ではないだろうか。」
「生き方」として坂口恭平さんの思考に通う部分もあるような気がした。
 
・245「内在的なプロセスをたどることに成功したら、その行為はやがて、社会や時代の目から見て無意味な領域に突入するだろう。
このような無意味さは得体の知れなさ、不気味さに繋がる。なぜなら意味のないことをコツコツ続ける人間は、周囲の目から見たらわけもわからず、気持ち悪いからだ。でも、この無気味さこそが、人に振り返らせる力を持つのも事実だ。(ここで気を付けたいのは「人に振り返ってもらいたい」を動機にしてはいけないということ!)常識的な行為に迫力は伴わない。独りよがりで不気味で得たいがしれないからこそ、そこまでやるのか...と人の心胆を寒からしめる力をもつのである。
私は行為者として、まずこの領域を目指したいと思う。
そもそもそこまでいかないと書く意味もない。」

もしかすると純粋な行為をできる人はある程度の人数いるのかもしれない。内的な豊かさ、内的な満ちを具えてしまっている人々。
ただ、それを社会と繋ぐことができるのはほんの一握りなのだと思う。
それは己の力ではどうしようもない時代の流れとの噛み合いだから「運」以外ないのだと思うのけれど。
自分の行為を社会に繋げたいどんな形であろうと還元したいという思惑がある時点でまだまだ不純なのかな、とも思う。
「すでにあなたは世界最高である」
あなたはなにかの世界のイチローであることは間違いありません。出から打席に立つだけで、経験値が増してゆくのです。練習などしなくていいですから、どんどん外に出て行動を積み重ねていきましょう。だた、注意すべきは何かのイチローではあるが、それが何かはだれも知らない。自分にもわからない、ということです。一切その才能に気づかれないまま、死んでしまうこともあります。
あなたの真価は死後発掘されることが初期設定です。
生きている間に成功したいなどという非躁鬱人たちの戯言に付き合うと、したくもない努力が必要となります。
野垂れ死にで十分、好きに生きるよ、という人生を選びましょう。
そうやって自由な気持ちでやればやるほど、実は非躁鬱人の目には非常ンい興味深く映るので、仕事は絶えないはずです。
(ここでの「非躁鬱人」は外的動機で生きている人と通ずるのかもしれない)」この言葉を思いだ出す。

きっと、周囲から冷ややかな目を向けられて形見狭く一生を終えた「純粋な行為」を貫いた人は本当に沢山いるのだろうな、と思う。気づかれることも理解されることもなかったかもしれないけれど、彼等の中にはあたたかな豊かさがあったのだろう。

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