#69「モノ」とも対話しよう|学校づくりのスパイス(武井敦史)
今回取り上げるのはジェームズ・ダイソン氏の手による自伝『インベンシ
ョン 僕は未来を創意する』(川上純子訳、日本経済新聞出版、2022年)です。筆者はこの本を読むまで「ダイソン」という企業をほとんど知りませんでした。記憶にあるのは、(今ではよくある)サイクロン方式で稼働する掃除機のテレビコマーシャル、そして空洞から空気が流れる送風機を家電量販店で見てびっくりしたのも覚えています。
本書の原題は‘Invention: A Life’で、発明に魅せられた一人の人間の生きざまを本人自らが綴った作品となっています。今回は本書に垣間見える「モノ」へのまなざしから学びについて考えてみようと思います。
モノづくりに魅せられた男
ダイソンはイギリス発の家族経営企業で、掃除機や空調家電のほか、ドライヤーなどのヘアケア用品なども手がけ、パンデミックの際には新型の人工呼吸器開発や1,000km近い航続距離をもつ全個体電池の電気自動車、農業や教育にも事業の枝葉を拡大しています。
このうち人工呼吸器と電気自動車については、プロジェクトが途中で頓挫し、事業としては成功には至りませんでした。どちらもその背景に政治的な駆け引きがあったようで、その内実も本書には赤裸々に綴られています。
手広く事業を行っている企業は多々あるものの、それらの企業ではたいていCEOは経営をつかさどり、個々のプロジェクトは担当(チーム)にゆだねているはずです。ダイソンの驚くべきところは、ダイソン氏自身がほとんどのプロジェクトの開発においてリーダーシップを発揮してきたということです。
本書には氏の日常について次のように記されています。「起きている時間のほとんどはダイソンの研究開発拠点で社内のエンジニアや科学者に囲まれながら、五年、一〇年、あるいはもっと先に形になればと思うアイデアを研究している」(402頁)。
本書では教育についても一つの章が設けられ、氏が一から大学を立ち上げた経緯について語られています。ダイソン氏がつくったのは、授業料無料で「学生たちは週に三日、ダイソンで若いエンジニアたちとともに実際の研究プロジェクトに携わり、正規の給料を稼ぎ、残りの二日は僕たちが教育を行う」(378頁)という、うらやましいかぎりの大学です。
氏が巨額の資金を投じ、反発を受けながらも大学教育の世界に足を踏み入れた背景には、次のような切実な問題意識があったようです。「悲しいかな、メディアには意欲的なエンジニアの心を躍らせるような報道が少ないし、英国には、いまだに製造業を蔑む俗物根性が残る。プラグの取り換えや芝刈り機の修理、あるいは壁の絵の掛け替えができないことは、文化的洗練と社会的優位性の印であるというわけだ」(364頁)。
「モノ」をどう見るか
「モノばなれ」とも呼ばれる現象が起こっています。「ミニマリスト」や「片づけ」への注目、サブスクリプション消費の拡大など、何かを所有するより「持たない豊かさ」の方に関心が集まっています。確かにブランド物や宝飾品等のように、所有によって持ち主のステータスを表現する「地位財」としてのモノへの執着は筆者自身も古臭いと感じます。
けれどもモノにはもう一つの面があります。それは大げさに聞こえるかもしれませんが、一つひとつのモノはそれ自体がある意味「宇宙の表象」であるという側面です。
たとえば本書には、掃除機が吸い込んだ塵やホコリが溜まっているのを見たい人なんていないという関係者の声や市場調査の結果も押し切って、掃除機に透明な容器を採用したときの次のような逸話が紹介されています。「自分たちの直感を信じ、調査や小売り業者が言うことは無視した。ピートと僕は掃除機を開発している間、集めた塵やホコリを見るのが好きだった。僕たちは機械の賢明な働きぶりを隠したくないと思った」(408頁)。
氏はオープンキッチンのレストランのように、掃除機の働くメカニズムを見せることで、機械というモノの魅力を伝えようとしたのではないでしょうか? 掃除機という一つの道具の中に「遠心力」という物理法則を視覚的に顕現させたのです。
「対話」とは、単なる情報のやり取りでなく、相手(対象)の水面下に潜む思いを感じとったり、その背景に思いをはせたりしながら、自分のなかにもそのエッセンスを取り込み、ともに変容していくプロセスであると筆者は考えています。だとすれば、対話はモノとの間にも成立するはずです。
ダイソン氏は掃除機を世に問うまでに、実に5,127個のプロトタイプづくりを重ねてきたそうです(408頁)。気の遠くなるような「モノとの対話」です。
モノとの対話は日常のいたるところに転がっています。相手がモノなら、しつこくても不満を言われることはありません。
筆者は先日、ある小さな窯元で湯飲みを一つ買ってみました。
そこには水の流れるような模様が白赤緑の3色で表現されていました。作者に聞いてみるとその模様は塗ったのではなく、3種類の粘土を混ぜてろくろを引いてつくったとのことで、同じ絵柄は二度と再現できないそうです。
石ころから宇宙まですべてのモノにはそれができてきた歴史や必然性があります。また人のつくったモノには作り手の美意識や哲学が込められていることもあります。
私たち大人が、モノの背後にある世界を想像して、それを子どもとも分かち合うことができたなら、モノとの間に生み出される「対話的な学び」も、その分だけ生き生きとしたものになると思うのですが、いかがでしょうか。
(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)
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