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「バスケをやってみないか」一人の教師の声掛けが立ち直るきっかけに

学生時代、転校を機にいじめや孤立に苦しんだという海外在住の一人の男性。彼の人生は、ある一人の教師との出会いをきかっけに、大きく変わりました。さらに30代でがんに罹患し、子どもを持つ夢をあきらたことも。逆境を乗り越え、新たな道を歩みはじめた彼に話を聞きました。

「命知らずな遊び」に夢中だった子ども時代

「子どもの頃は内向的で恥ずかしがり屋だった。初対面の人とは緊張するから相手から話しかけられない限り、黙って相手のことを観察していたよ。話しかけれられても話題がなくなると気まずくなり、黙って座ってしまうこともあった。

その一方で、野球やサッカー、バスケットボールなど、アクティブな活動が好きで、よく友達と一緒に外で思いっきり体を動かして遊んでいたよ。「フォロー・ザ・リーダー」という遊びをしたり、自転車でジャンプをしたり、ハンドルを持たずに走ったりしたこともあった。これを「デアデビル」(命知らず)と呼んだんだけど、本当に楽しかったな。いつも友達といろんなことに挑戦し合っていたんだ。内向的な性格だった僕が社交性を身につけたのは、こうした近所の友達たちとの交流があったからもしれないね」

厳しくも温かい家族との思い出

「僕には9歳下の妹がいて、妹とは年の差を感じさせないくらい仲良しだったよ。典型的な兄弟姉妹のケンカはよくあったけど、ときには僕が彼女の父親のような役割を果たしたこともある。彼女が悩んでいるときは、できる限り良い選択をできるよう手助けをしたんだ。年齢を重ねた今じゃ立場が逆転し、彼女のほうが私の母親みたいに感じることがある。どっちが年上なのか彼女に思い出させないとね(笑)

彼は、子どもの頃どんな職業に就きたいと思っていたのでしょうか?

「医者になりたいと思ってた。僕が医者になりたいと思っていることを知った曾祖母と母は、いつも僕の夢を励ましてくれていたから、頑張って医者になろうと思ってたよ。

曾祖母は私が子どもの頃に亡くなったから、直接の思い出はあまりないけど、母がいつも彼女の話をしてくれたんだ。曾祖母はとても厳格で規律正しい人だったから、母も同じように厳しかった。その影響は私にも大きかったし、曾祖母の価値観や教えが私の人生に影響を与えたと思う」

転校を機に、学校に馴染めなくなった日々

「私たち家族は少数民族が住む地域に住んでいたんだけど、私が10歳のときに別の地域に引っ越した。両親がお金を節約して新しい家を買ってくれたおかげで新しい地域に引っ越したんだ。でも、残念なことに僕は転校先の学校に馴染めなかった。
普通は、地元の友達と一緒に小中高大って進学するんだけど、私は途中で引っ越してきたから、すでに友達の輪に入れなかった。だから彼らは私をいじめたんだ。でも家族から受け継いだ性格のおかげで自分を守れた。そのせいで彼らと対立し、一時は深刻な問題にまでなったんだ」

一人の男性教師との出会いが再起のきっかけに

「転機となったのは、8年生(13~14歳頃)のとき、理科の先生でありスポーツのコーチと出会ったこと。彼との出会いは、私の人生を大きく変えてくれたんだ。彼は、私と同じヒスパニック系だったこともあり、親近感を覚えたよ。彼も私に対して同じように感じたのかもしれない。

彼は、授業を通してなにかと私のことを気に掛けてくれたんだ。彼は私の話をじっくり聞いてくれ、ときには励ましてくれた。話をするうちに、彼は私がスポーツが好きだと気づき、バスケットボールのチームに参加するように勧めてくれたんだ。
バスケットボールを始めたことで、集中力も規律も身についてきた。そして少しずついろんなことが変わり始めたよ。新しい友達ができ、体を動かすことで夜もよく眠れる。十代特有の鬱々とした気分も晴れてきた。さらにバスケットボールで活躍することで、自然と自己肯定感も高まり、学校生活が楽しめるようになってきたんだ。彼のサポートがあったおかげで、私の学生生活はたくさんのいい思い出ができたよ。

彼のサポートがなかったら、私は学校に友達もできず、勉強についていけなくなり、やがて悪い友達とつるむようになっていたかもしれない。たとえ家柄が良くても堕落していく生徒もいる。多くの地域で、そういう人生を送る若者も実際にたくさんいる。だから、彼の助けは私にとって本当に重要だった。彼は私に「助けの手」を差し伸べてくれた。ここでいう「助けの手」とは、感情的に、精神的に、あるいは物理的に困っている人を支える手助けのことだよ。私は、彼の「助けの手」を受けてネガティブな状況から立ち直ることができた。彼の支援が私の人生を劇的に変えたんだ。

私が中学から高校に上がる頃、父と叔父が独立して仕事を始めたんだ。それもあって、私はビジネス管理や小規模ビジネスの運営のスキルを学ぶようになった。少しでも彼らの目標を達成できる手助けになればと思ってね。
あいかわらずスポーツは大好きで、なかでも野球が得意だった。ただ、アスリートになるつもりはなかったから、スポーツの道に進むことはしなかった」

がんになったことで気づいた2つの大切なこと

彼にとって二度目の転機が訪れたのは、30代のとき。

「ある日、急に体調を崩してしまって…。原因はがんだったんだ。自分ががんになったことを受け止めるのも大変だったけど、それよりももっとつらかったのが、治療のために子どもを諦めざるをえなかったこと。いろんなことを考えたよ。なんで自分ががんになってしまったんだろう、子どものいない未来に希望はあるのかとか、いろんな思いが頭を駆け巡ったよ。でも、今思うことは、がんになったことはつらい経験だったけど、悪いことばかりじゃないということ」

そういいながら、彼はつらい経験をどのように受け入れたのかを話してくれました。

「がんになったことは残念だった。でも、それによって気づけたこともある。1つは、姪や甥にとっていい叔父になれたこと。私自身、子どもは持てなかったけど、私には姪や甥がいる。私は、子どもたちと一緒に過ごすことができているし、良い叔父にもなれた。姪や甥との交流は本当に楽しくて、彼らと一緒に幸せな時間を過ごせることで本当に心が癒されるんだ。

姪や甥たちとは、一緒に水泳に行き泳ぎ方を教えるんだ。どうやってやるかというと、子どもたちをプールの中に投げ込むんだよ。これは僕の父や叔父から教えてもらった方法で、僕が子どもの頃はそうやって泳ぎを覚えたんだ。最初はびっくりしたけど、すごく楽しい。おかげで子どもの頃から泳ぐのが大好きで、今も続けている。姪や甥も水泳が好きになってくれたらうれしい」

「もう1つは、がんになったことで転職を余儀なくされ、その結果として新しく教師の仕事を始めたこと。私の住んでいる地域で教師として働くためには、学位が必要なんだ。だから大学で教育について学びなおし、教師の資格を習得したよ。先生としていろんな生徒に教えるのは、やりがいを感じる。

生徒と交流したり、教えること自体が面白いし、本当にやりがいのある仕事だと思うよ。正直なところ、アメリカで教師の仕事についてもそれほど収入は高くないからパートタイムの仕事としてやっているんだけどね。今は、友人からの勧めで、オンラインでいろんな国の生徒に英語を教えている。生徒たちとの交流は、本当に楽しいよ」

(編集後記)
今回インタビューに答えてくれた彼とは、初対面にも関わらず、とても丁寧に自分の経験を話してくれました。現在、英語の教師としていますが、その原点は、中学生の時の理科の教師の存在があったのかもしれませんね。いろんな点と点がつながり線になり、彼は今、教師の仕事についています。この点がこの先どんなふうにつながっていくのかわかりませんが、あとで振り返った時に「これでよかった」と思える人生になることを願います。


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