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こんなやつが居ても良い―10/30~週読んだ本

こんばんは。11月とは思えない暑さが続いていますね…。
バタバタしている間に、気づけば水曜日。毎度のことながら先週読んだ本について。先週読んだ本はこちら。うーん、もう少し読んだ気もするのだが…思い出せない!笑

  • 森山至貴×能町みね子「慣れろ、おちょくれ、踏み外せ」

  • 梅崎春生「怠惰の美徳」

読んだ本を思い出せないのですが、このラインナップ的に、きっと色んなジャンルの本に関心を持てた、比較的心に余裕のあった1週間なのだろうと推察します笑。選書は心の中を映し出す鏡ですね~。

森山至貴×能町みね子「慣れろ、おちょくれ、踏み外せ」

こちらの本は、社会学、クィアスタディーズがご専門の森山至貴さんと文筆家の能町みね子さんの対談集です。副題に「性と身体をめぐるクィアな対話」とある通り、内容は性に関することです!

この本とは、仕事帰りに立ち寄った書店で出会いました。能町さんのことは前から好きでエッセイはだいぶ読んだし、NHKラジオに出ていたときも良く聴いていました。「それなら絶対楽しめると思います!」と書店員さんに勧められ、すぐ読みました。

「LGBTQ」「性的マイノリティ」、言葉は聞くものの腹落ちしきれていない。
そんな状態で読み始めたのですが、2人の掛け合いはテンポよく進む上、ゲイ(森山氏)やトランスジェンダー(能町氏)としての語りにはどんどん引き込まれました。

「クィア」という言葉は元々同性愛者やトランス女性への侮蔑語として使われ始め、今では「LGBT」のいずれにも当てはまらない層などを指す言葉として使われるようになりました。
クィアと自覚する人たちの思考やこの本のタイトルの意味は、読んでいくうちに分かります。

ただ、当然ですが、本著者たちの語っていることがゲイやトランスジェンダーを代表するものではありません。この本を読んだだけではすべてを理解できるわけではないのです。

「分かり合えないことが前提だよね」と、ついすぐに言いたくなるのですが、このことが孕む危険性についても指摘がなされています。分かり合えないことを前提とすると、分からない・分かろうとすることも許容することにつながるからです。
今までは、相手の中の多様性をリスペクトする気持ちや「分かった気になるのは失礼ではないか…?」という遠慮から、分かり合うことの難しさを捉えていました。ですが、こういった、決してネガティブではない感情も、無関心と隣り合わせであることに改めて気付かされました。

結局なにが正しいんだろう?いや、正解を求めること自体が無理なんだろうな…とモヤモヤさせられる場面も多いのですが、最後は不思議と背中を押された気分になる、そんな一冊です。

梅崎春生「怠惰の美徳」

次はこちらの一冊です。この本との出会いは、POPYE 9月号の中の特集記事でした。タイトルとあらすじを読んだ瞬間、「これは人生の友になりそうな一冊だ!」と、直感的に思いました笑。

戦後派を代表する作家・梅崎春生のエッセイなのですが、タイトルの通り本当に怠惰な日々を送っています。怠けることも一つの欲望の現れ、といったことを萩原魚雷氏が述べるのですが、良い得て妙だなと…。

だらだら過ごしているようで、日本社会における戦後の変化や制度への批判は鋭く、目を見張るものがあります。とくに印象に残っているのは下記の記述です。

どんな具合に変ったかというと一言にしては言えない。あらゆる点で微妙な歪みとなってあらわれて来る。異常と言うのは正常があってこそ言えるのだが、今は皆が少しずつ狂っているので、以上は存在しない。皆胸の中に異常を蓄えているから、不思議なことを見たり聞いたりしても少しも驚かない。泰然として事に処している。

前掲書, 51

これは、現代で起きているコロナ禍や国際社会の不安など、あらゆることに通じるのではないかと、実感を持ちながら読みました。
1日12時間、いやもっと寝たいという筆者は、一般的には変わり者・かなりの少数派(本当はそうしたいけどできない人がおそらく大多数)。そんな生き方を選んだ筆者だからこそ、気付ける異常さも沢山あっただろうし、それがこういう形で今日まで読み継がれているのだろう。そんなことを考えさせられました。

こんなやつが居ても良い~まとまらないまとめ

ここまで書いたことを読み返すと、「マイノリティだからこその視点がある」「もっと彼らの声を聞こう」という主張にも読める文章を意図せず書いていたことに気付かされます。

そうではないんですよね。「マイノリティである」ことだけで持ち上げる・称賛するというのはどこか違う。

「おちょくれ、踏み外せ」とあるように、既存の制度や風潮を疑う、面白がる、都合の良いように解釈して利用する。マイノリティだからそうするのではなく、それをやるからマイノリティと位置付けられるようになるのではないか。そんなことを考えさせられました。

私自身も、仕事をちょっとさぼったり逸脱しかけたりしたとき、「こんなやつが世の中に一人くらいいても良いよな」と無理やり思うことがしばしばあります。全員が同じ規範の上で生きる必要はないはず。
むしろ、それは梅崎が指摘するよう以上に気付けなくなる、非常にリスクの高いこと。

こんなやつが居ても良い、というか、こんなやつから気付かされることもある。「居ても良い」と考える時点で、誰かから許されることを求めている自分がいることにも気付くのですが、もしかしたらそんな承認欲求すら本当は必要ないのかもしれません。

あー、今日もうまくまとめられず終わることになりそう…。まだまだ言語化しきれていない、示唆と感動を、この2冊から与えられていたことを改めて実感します。

いつも通りまとまりがないのですが、この辺で。ま、こんなやつが居ても良いでしょう。ということで!

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