見出し画像

熱帯夜は

馬鹿程、暑い夏だった。

「君もさ、クズになったらよかったんだよ。」

黒髪ショートの一つ上の先輩、僕の彼女はそう言った。
そして彼女は、元彼女になった。

「あ、これは置いていくね。この香りはもういいから。」
ボトル半分ほどになったDiptyqueのDo Sonを置き土産に、彼女は姿を消した。


「私ね、好きな人ができたら、その人っぽい香水を纏うの。お洒落でしょ? 君はねぇ、DiptyqueのDo Sonかな。あ、Diptyqueって知ってる?」

彼女との出会いは、友人に半ば強引に連れていかれたサークルの新歓だった。よくわからないバンドのツアーTシャツに古着屋で買った90年代風のジャケットを羽織った彼女は、居心地が悪そうな僕の隣に腰掛け、なぜか香水の話をした。聞いてもいないのに。というか、初対面なのに。彼女は新歓が終わるまで僕の隣に居座り続け、好きな映画の話や面白くなかった小説の話、これまで出会い系で出会ったクズな男の話をした。アメスピをふかしながら。

結局、その場でLINEを勝手に追加され、僕は彼女に定期的に呼び出されるようになった。そして、なんだかんだあった。なんだかんだあって、金木犀が香る頃には、彼女の香水はMargielaのジャズクラブからDiptyqueのDo Sonに変わっていた。

渋谷でDJポリスが輝く季節には、僕の部屋には彼女がいた。逆に、彼女の部屋で二人で過ごした時期もあった。彼女の部屋には必ずマリブとマンゴヤンの瓶があって、山積みの小説と花瓶があった。僕の部屋には、彼女が買ってきたペアグラスとと灰皿、アメスピのカートンがあった。僕の生活は、彼女に染まっていった。


そんな生活が数か月続き、馬鹿程暑い夏が来た。
馬鹿程暑い夏の夜だった。

「私さぁ、クズなんだ。それにさ、やっぱりクズが好きなんだよ。ごめんね。私は汚れすぎてるんだ。ごめんね。」

急だった。何を言っているのか分からなかった。ドッキリかと思った。でも違った。
彼女は、酔った勢いでノリのいい先輩と寝たそうだ。罪悪感に苛まれ、僕に告白したらしい。


「君はさ、クズにならないでね。」
いつか、行きつけの喫茶店でそう言ったのは、誰だったか。
僕がクズになることができたなら、僕が選ばれたのだろうか。
僕がダメだったのだろうか。


彼女と過ごした203号室に、愛はあったのか。
たまに訪れる402には?
近所のミニシアターのE2とE3には?
他愛ない会話でモラトリアムを消費した、喫茶店の角の席には⁇

そんなことを考えていた。


割れてしまったペアグラスは、もう元に戻らないらしい。
「レパロ」で直せる関係性があるのなら、画面の中からハリー・ポッターを呼んでくれ。
不思議なライトで記憶を消せるなら、MIBを呼んでくれ。



僕は貴方が好きだった。

私がまだ燃えている頃、恐らくもう冷めていた猫みたいな人。
結局クズが好きなのに、真面目な僕に手を出してくる人。
珈琲が苦手な僕に珈琲を飲ませて、面白がる人。
選び取る言葉が繊細で綺麗で、でもたまに口が悪い人。
映画や小説で、簡単に涙を流す人。
僕に気を遣って、デートでは煙草を少しだけ我慢していた人。
本当は吹き替えで映画を観たいのに、見栄を張って字幕で観ていた人。

僕は貴方が好きでした。



貴方と別れた熱帯夜。
貴方が出ていった数時間後、僕はコンビニに行った。貴方とアイスをよく買ったあのコンビニで、明るいイエローのアメスピと安っぽいライターを買った。煙草に火をつけると、君の匂いがした。一口吸っては噎せながら、何故か止まらない涙でぐちゃぐちゃになりながら、あてもなく歩いた。

純粋無垢だった僕の肺は、たった一本の煙草で、ひどく汚れた気がした。

今、僕の頬を伝う涙は、いつか私を救ってくれるのだろうか。
いつか僕は、クズになれるのだろうか。


僕の身体が、血が、細胞が、父と母の遺伝子からできていたとしても。僕の脳には、心には、多分細胞にも。貴方が教えてくれたあの小説の、あの言葉が刻み込まれている。貴方の好きな映画のセリフが、貴方の好きな煙草の匂いが、DiptyqueのDo Sonの香りが多分、刻み込まれている。


p.s.
貴方は僕を振り返らないだろうけれど。
僕の視界に入らないところで、せいぜい幸せになってください。


この記事が参加している募集

スキしてみて

夏の思い出

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?