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夏のマイノリティ



   1

 封印されたものを解き放ってしまえばどういうことになるのか、僕はほんのすこしだけ懼れていた。それは僕にとってある意味真実だった。僕たちの閉ざされた小さな箱はこなごなにされもう跡形もない。僕たちの記憶は根こそぎにされ、僕は行方も知れずあてどなくさ迷っている。荒野というにはすこしばかり飾り立てられた砂丘のような街を。
 
 僕と漣が初めて会ったのは、多分五月の終りで、僕は六年も付き合った彼女と別れたばかりだった。
 梅雨のまえのちょっと嫌な季節で、その日は朝からもう梅雨入りしたようなどんよりと重く垂れ込めた雲に空は一面蓋われていた。
 風は饐えた色を滲ませていた。
 僕は、朝から不機嫌で、それで会社には行かず、十時前に起きあがると、新聞に軽く視線を合わせる。もうそれで何だかすべて分かったような気がするから。
 それで、少しうんざりしながら髭を剃りはじめた。
 僕は、二枚刃の剃刀で注意深く頬に刃を当てる。
 それでも、僕の顎のつけねのあたりにはうっすらと血が滲んでいる。
 いいことなんか、ない。僕の彼女は、六年も待っていた。きっとそうだと思う。
 彼女は、本当に静かな女の子だった。本当に六年なんて一口で言うけど、彼女は何も僕に不平とか不満とか、少しは嫌味なところもあっただろうけど、僕はそれさえ気付かずにいられたのだから、全くどうかしている。全くどうかしてる、僕は。
 僕は、彼女を失ってから、やっと彼女の気持ちを心配しだしたんだから。
 僕は、本当に彼女を愛していたのか、全然自信がない。でも、もうそれは考えたところで仕方ないし。僕は、全くどうかしてる。
 
 その日、僕と漣は初めて口を聞いた。
 僕と漣はそれまでも何度か顔を合わせていた。でも、それはなんとなく「ああ、あいつ」といったような感じで、別に話することもなかったし。
 それで、僕は薄手の縦のストライプがはいったジャンパーを着ると、車で街に出かけた。途中で電話ボックスから会社に電話した。
 少し声を擦れさせて、風邪気味なんだと言うと、電話の向こうではわざとらしく「それじゃ お大事にね」と言ってちょっと笑っていた。少しむっとしたけど、そのまま電話を切った。
 ボックスから出ると、今にも降り出しそうでそれに風も冷たくなった。
 僕は車をいつもの店の前に止める。店は二階にあって、この街にしてはちょっといかした感じの店だった。彼女と軽い食事をとるのに、この店はちょうどよかった。
 店のなかは白と青をベースにして、白くて大きい丸テーブルがとても素敵で、ざらっとした壁にはきれいな引き伸ばした写真がいくつか掛かっていて、モルディヴやセーシェルの海が青く光っていた。店には、まだ誰もいなかった。
 僕は、L字型になった店の奥の方の籐椅子のひとつに腰掛けると、ベランダに続いている南向きの大きな窓越しに海を見ていた。海は、灰色に汚れていた。
 店の女の子が注文を取りに来た。
「コーヒーにして」
「いつもの?」
「アメリカンで」
 ツェッペリンの多分六十九年のアルバムが流れていた。僕は、少しいらいらしながら、曲にあわせて脚を小刻みに震わせた。
 この店では、僕のことは余り知れていない。僕は、馴染になるとすぐにあれこれ詮索しだす店は、ちょっと考えてしまう。僕は、この店の女の子の名前も知らないでいたし、彼女も僕のことはきっと変な勤め人ぐらいにしか思っていなかっただろう。火曜日の午前十一時に来る客なんて、余り信用しないほうがいい。そう思う。
 この店の女の子、名前はミサだった、僕はそれをしばらくしてから知ることになる。ぼんやりと港の埠頭のあたりに目をやっていると、彼女はコーヒーを僕のテーブルの上に置いた。僕が気付かずにいたように見えたのか、彼女は僕に声を掛けた。
「何か見えるの」
 僕は少し驚いて彼女の顔を見た。
「いや、でも、今日は黄砂で海が濁っている」
 偏西風に吹き飛ばされ、海を越え、何万年もかけて積もり続けた黄砂が、この豊かな土壌を培ったのです。そんなことが何かの本に書いてあったような気がする。
「あら、コウサって言うの、これ」と何だか遠くを見つめるような目をして僕を見た。
「海が、淡いピンクと霞んだようなブルーの縞になってる。春先にはよくあるんだけどね」
 僕は彼女の可愛いエプロンの模様に気を魅かれた。まだ小さな女の子と男の子が仲良く花を摘んでいる絵柄で、何だか全てが許せそうな、そんな気になる。
「可愛いね、そのエプロン」青いブラウスが眩しい。
「あら そう、でも これ、いつもしてるのよ、この店」
 僕は、今まで彼女のことを少しも気になどしていなかったのに。少しどぎまぎしながら、初めて見るように彼女の顔をもう一度見た。
「わたし、このユニフォーム嫌いよ、だって、これじゃまるで小学生よ」そう言って、くるりと僕の前で半回転すると白のミニスカートの裾を揺らした。
 にっこりと頬笑むと伝票をテーブルに置いて、カウンターの方に帰っていった。
 僕は、少し呆気にとられながら、彼女のきれいな脚の線と形のいいお尻のあたりを恐れるように目で追っていた。
 何だかはぐらかされたままで、僕の不機嫌はまるで遣り場のないまま。急に音楽が変わって、ドアーズになった。
 コーヒーを一口啜ると、椅子の背凭れに体を預けて、僕はアラベスクみたいな幾何学模様に線刻された天井を眺めていた。ひとつの図形の中心からもうひとつの中心へと線を辿っていくと、途中で必ず奇妙な反転があって、そこからその図形は別の図形へと変質して、崩れた図形はそこで微かな逡巡を見せたあと、再び内側から捲れるようにしてもとの形に戻る。(曖昧な手口のくせに、鮮やかな手際だった。)そして、次々と増殖するひとつの試みのようなイメージが僕を不安にする。生命の輪廻、深い森の奥に棲む巨大な老いた樹木の悲しみ、砂漠の廃墟を彷徨うカラヴァンの幻影、痩せた女のあらわな胸、絶えまない抗争と流血に明け暮れる街、黒い河、赤く爛れた森、崩れたコンクリートの建築、あらゆる営みを無にするために。
 僕は、ふっと息を洩らすと、コーヒーカップの温もりを手にしてみる。規則正しい図形に戻っていた。
 窓の外は、少し風が出てきたのか、細かな砂が空気を巻いている。
 空は、濁ったままで、雨はまだ降りそうになかった。
 港は、数年前に造成されたばかりで、この店も出来てからまだ一年になっていなかった。空き地が多く、それに少しばかり街路樹のようなものが植えられていたが、それもほんの僅かで、背の低いビルがまばらに立っていた。
 去年の夏、僕は彼女と初めてこの店に来て、それは多分この造成された外港で催された最初のイヴェントをふたりで見にきた、その夜、僕は何度目かの別れ話を切り出して、少しうんざりしていた彼女を怒らせた。「シャレた店が出来たから」そう聞かされて、彼女を誘って、ふたりはドライブ・イン・シアターで時間をつぶして、多分そのときあの店で冷たいジュース飲んだから、僕は途中で我慢出来ずに埠頭まで駆けていって、そんなことがあったから。
 僕は、すっかり落ち込んでいた。冷めたコーヒーがやけに苦い。
 ぼんやりと腕を組んで僕は何か考えているつもりだった。
 誰か、店に来たらしい。時計に目を遣るともう十二時近くになっていた。
「ここ、いい」
 僕が振り向くと、漣がそこにいて、にやりと笑っている。僕は何だか言葉にならないことを口の中でもぐもぐさせると、それが同意のしるしだとでもいうように漣はテーブルの向いに腰掛けて、軽く会釈してみせた。僕は、少しばつの悪い思いを隠せずにいたが、それでも軽く頷くと、「どうも、えっと……」と彼の顔をちらっと見た。
「おれのこと、おれ漣っての、よろしく」そう言って手で合図してみせた。
「僕は、その、」
「カイ、でしょう」
「どうし……」
 僕が漣に理由を尋ねようとしたとき、さっきの女の子が来て、僕の質問を中断した。
「漣、何にするの。」
「いつものね、」
「またあれ、あんたどうかしてるわ、あんなもの……」彼女は軽蔑したように言い捨てた。
「あんなものとは何だよ、おれが気にいってるんだから」そう言うと右手で彼女の可愛いヒップを軽く叩いて、「痛えよ、おまえな、ここんとこやりすぎじゃないの、おお痛てえ」と大袈裟に手首を振って「馬鹿、あんたなんかどうしようもないパーよ、サイテー」そう言って彼女はテーブルに水の入ったコップを乱暴に置くとカウンターの向こうに消えた。
「あいつ、いい女でしょ」漣は僕に同意を求める。僕は曖昧に頷くとコーヒーを一口啜った。
「あいつ、気立てがいいっていうのか、たいていのことならすぐさせてくれますよ」
「よくできた女ってところかな」漣は僕の方を悪戯っぽく見ると、軽く目配せしてみせた。僕は、分かったような分からないような感じで頷いた。
「ねえ、カイ、あいつ昔おれのこと好きだったんですよ」
 僕は、漣は多分もう二十三くらいにはなってるだろうと思った。
 僕は、五月で二十七になっていた。自分の昔の女(女にとっては昔の男)のことをあれこれ言うのはどうかしてる。僕は、そう思うから。そのとき漣のことを少し嫌なやつだと思った。そんな記憶がある。
 僕は、何か言おうと思ったが、よしにした。僕は、黙ったままぼんやりと彼の肩越しに微かに盛り上がったように弧を描いている薄汚れた海を見た。
 マイルスのビッチェズ・ブリューが僕の沈黙を流れる。僕は、もう随分前から仮性近視になっていて、いまでもそのつもりで遠くを見るとき目を細くして、どこかもの欲しそうな表情をしていることに気付いたりする。それは、悲しい習性の代名詞、どこかで習ったのか、どこでなのか忘れたのに。
「漣、君、仕事は?いや、もし差し支えなければだけど……」
「仕事?今のところ自由業ってところかな」漣はにやりとして僕の前で大仰に両手を広げた。
 僕は、そうか、と思って彼をもう一度見た。確かにラフな格好をしていて、とても仕事の息抜きとは思えないし、それに彼はどこか精悍な感じがして、会社なんかに勤めるなんて似合ってなかった。
 僕は、話題のなさに少し苛立ちを覚えて、それでどうしようもない感じで「僕は、今のところ会社してるけどね」
「会社、昔おれも行ってた。だけど、おれどっちかって言うと会社きっとできないな、そんな相談。でも、いいことだよ、会社ってのは、たぶん世間のためには」そう言って胸のポケットから煙草を取り出すと、そのうちの一本を二本の指の間に器用に挾んで軽く三、四度テーブルに叩きつけるとライターですばやく火をつけて、カシャっとライターの蓋を閉じた。随分手慣れた動作で、僕は少し感心していた。きっと効果的なデモンストレーションだったのだろうか。うまそうに二、三度喫うと、僕の方に向かって煙を吐いた。僕は、一年近く煙草をやめている。
「あんた、きっと頭いいな、そんな感じだよ」
「とても、」にべもない。
「でも、おれなんか、頭のいいやつ一応尊敬することにしてるんだ」
「それにしちゃ、あんまり熱意ないみたいだ」
「熱意か、」変に感心している。
 なんとなく話ができそうで、僕は一応警戒を解いた。ということだ。
 ウエィトレスの子が漣の注文を持ってテーブルに来た。
「はい、ホット・ミルクの大盛り、」彼女がテーブルにコップを置いた。彼はエプロン越しに彼女の小さめの乳房に軽く人差指を突き当て、彼女から左の頬にきつい平手打ちを貰った。
「この変態」
「お、いてててて、なんだよ、乳首触ったくらい」
「なによ、変なこと言わないでよ。あんたなんか大嫌い」そう言って彼女はぷっと頬を脹らませると手に持ったトレイで漣の背中をごつんと叩いた。
「おーい、やめてくれ、やめてくれたまえ」漣は悲しげな声をたてて、両手を頭に組んで防御の姿勢をとった。
 僕はなんだかとても可笑しくて、つい笑ってしまった。
「おや、笑いましたね。」突然我に帰ったように漣が僕の方を見て、まだあの防御の態勢を崩さないまま、非難するように口をとがらせて言った。
「そうよ、このひと、卑怯だわ、わたしたちだけこんな目に合わせて、少しも平気なんだから」ミサは上気した顔を少し歪ませて、僕はそんな彼女をとても美しいと感じていることに何か納得出来ない感じだったが、僕を睨むようにして頬を赤く染めた彼女がそう言った。
 僕は、呆れたように首をかしげて、随分ちぐはぐな動作で降参してみせた。それがとても間の抜けた感じだったので、二人とも喧嘩するのも忘れて大笑いしだした。
 僕は、少し悲しい気持ちになった。で、憂欝そうに顔を伏せると、目にかかった髪の毛をさっと払い、きっと顔をあげて、「ぐわっはっふあ」と咳払いし、テーブルをどんと叩いて「not guilty」と叫んだ。
 
「ねえ、このひと、変なひとね。やっぱ、変よ」彼女は息を弾ませながら僕を指差して彼の同意を求めている。
「そういうおまえだって、あんまり変だからな」漣は僕の同意を必要としているらしい。
「でも、あんたよりはずっとまともよ」そう言ってエプロンの紐を肩に掛け直している。「そうでしょ、……」
「カイ、このおひとは、カイさまだ、お分かりかね、君」
「ねえ、カイ、だってそうでしょ、このひといつもこうなのよ、最低よ、こんなやつ、そう思わない」
 僕は、ただ彼女の少し猥褻な唇の動きに感動していた。本当に彼女の唇は最高に猥褻だった。僕は、まるで読唇術の訓練をしているみたいに、彼女の不思議な唇の動きを真似ていた。
「何よ、言いたいことあったら言いなさいよ」ミサは、僕が口をもぐもぐさせているのをそう思ったらしい。
「き み が す き だ」僕は、多分読唇術をマスターしていると錯覚していたんだ、そのとき。
 

 
    

   2

 僕と漣は、その店で昼食を済ませると午後一時を少し回っていた。僕は、店の前に停めた車に近づいて、「漣は」と思って振り返ると、彼はちょうど車のドアを開けて、僕の方を見て軽く二、三度手を振って見せた。「また」そう言うとドアを閉めて、車を出した。風が埃りっぽいので、僕は目を細めて手を軽く挙げた。
 車に乗るとさっき階段のところで漣が言っていたことを思い返した。
「カイ、あいつきっとあんたに惚れてるよ、」
「勿論、あんたが彼女をどう評価するかは、別だけど」漣は僕を少し覗き込むようにして、僕は少しいらいらしながら、惚れてるなんてどうかしてる、そう思ってもう一度彼女のことを思い出そうとしてみた。
 確かにミサは、美しい女に属している。随分欠点、つまりアンバランスなところや大雑把なところがあって、繊細なところや洗練されたところなんてあまりなかったけど、全体から受ける印象は、少し痩せぎすの子鹿を連想させる、多分彼女の伸びやかな肢体のせいだ、僕は颯爽とした感じで、溌溂とした動きの彼女がとても眩しいように思えた。
 海から吹き上げるように風が造成地の土と砂を巻いて、空はあい変わらずどんよりと曇ったままだ。
 車を埠頭の近くに走らせる。十五メートル以上もあるのだろうか、護岸堤沿いに広い道路がある。その未舗装の海際に車を停める。シートを後ろに倒して、ガラス越しに岬の方を見た。両腕を枕替りにして、僕はカセットから流れるゆったりとした音のひろがりの中に包まれている。
「会社行ってるって、やっぱり頭いいよ」
 ふいに漣の言葉が甦った。多分少しの非難と少しの自嘲と少しの矜恃、それに少しの……そんなこと考えても仕方ないし、
 あいつ、今度また電話しますよ、なんて言ってた。
 惚れてるか、まあ、いいさ。僕は、多分僕の生き方しかできそうにないし、それに昔から惚れっぽいから、少しは大人になったくらいでそんなことできそうにないし、……まあ、いいさ、僕はいつものように僕のやりかたでひとを(たぶん愛する)しかない。
 愛する、なんて不健康だし、それに少し押し付けがましい、僕は欲張った言葉とか飾り立てた言葉なんか全然信じるつもりはない、いつだってそれだけで満たされたとしたら、僕は永遠に悲しいままで終ってしまう。だろう、そう思う、ことにしている、いけないだろうか、よく分からない。
 うっすらと日が差している。
 埠頭に向かう道沿いには、街路樹の疎らな葉叢がざわついている。
 薄日のなかで風に長い葉裏を翻して、濃い緑をぎらっとさせた。
 
 訣れてまだ十日も経っていなかった。僕は、まだひとを愛せるはずがないから、でないと僕は自分のことを許したくなくなりそうで。
 僕の彼女は、エリという名前だった。
 エリは、とてももの静かで、いい子だった。
 本当にいい子ってのがいるのなら、神様は彼女のことを認めてくれそうだ、僕は最近ほんとに感謝したくなくなってしまったりしてるけど、彼女のためにはまだ祈れそうな気がしていた。
 
 僕のことはそんなに話すことはないから、少し安心してる。
 僕が彼女と出会ったのは、十一月の秋の終りで、多分学園祭の最後の日に片付けにかかったデコを僕と他に四、五人いたはずで、僕たちは散々だった三日間、すっかり参っていて、のろのろと後始末を始めた。あと、少しだけ、パネルが数枚、そんなところに現われたのが彼女だった。
「難民とともに───世界は救いなんか求めていない!」
 僕たちの教室の前には、そんな立看が無惨に醜態を曝していた。僕たちのデコは、まるで存在を無視されて、おまけに何を勘違いしたのか、某右翼シンパの学生の一団に二日目の夜、僕たちの教室はメチャクチャにされてしまっていた。教室に残されたまるで見当違いの声明文が、パネルのひとつ、僕がとても気に入っていたヴェトナムの難民の女の子の写真の上にべったりと糊で貼り付けてあった。僕は、日曜の朝に、教室に出掛けて、廃屋の破壊現場に立ち会ったような、とまどいと怒りと悲しみにしばらくは口もきけなかった。勿論、他にひとはいないし、というのは、僕たちが確保できたスペースは、北館の端っこ、他には着替えの部屋とか物置とかがあって、とても参観者の寄り付きそうにもないとんでもないところだったから。というのも、僕たちのサークルときたら全く名ばかりで、やっと学園祭の前に半年ぶりにメンバーが揃って、とにかく何かデコでもってことでなんとか話をつけて、だから急場しのぎもいいとこで、タイトルだけは立派だけど、中身は全くお手挙げだった。とにかく、パネルどこかから浚ってきて、本当にさらってきたのもあるから、これはどうかすると犯罪的なデコだったわけだ。
 僕は、茫然自失って感じで、それでも鼻歌なんか歌いながら日曜の午前を瓦礫の山の後片付けにかかった。他のメンバーは、きっと午後にならないと来ないだろうし。金曜と土曜の二日でここを見に来た人は、総数で五人、皆んなすっかり意気消沈て感じで、そのくせ食欲は旺盛で、なんやかやと言ってあっちこっちのデコからいろんなもの買ってきたり、当然のように略奪めいたことしたり、差し入れの角瓶とか缶ビールとか、とにかく勝手に盛り上がって二日とも夜は飲み屋に繰り出したり、で、僕は立場上(今度の企画をしたのは僕だったから)、それに酒にはとにかく強いってこと、それに朝にも強いから午前十時の開店には、誰かひとりはいないとってことで僕が〈自主的に〉その役目を引き受けたってことだ。
 壊れたパネルを仕分けして、まだ使えそうなのをよけるとあとは教室の片隅に固めておいた。それが却って難民キャンプ風で決まっていた。少女の肖像だけは無傷で、それでも額のガラスに付いた糊を洗い落すのに二十分近くかかってしまった。僕は、気を取り直して、数少なくなったパネルを並べていく。
 亡命者(僕はそのひとのことを多分トロツキーだと思った。)、ジプシーの一団、ヴェトナムの少女、それに念仏踊りの人々(高校の教科書で一遍上人遍歴絵伝というのがあった)、ポップ・アート風のイエスの磔刑のパロディ、パンソリの一座、結局パネルは五枚で、あと説明の貼紙がでたらめに貼ってある。
 僕は、隣の部屋から椅子をひとつ持ってくると座りこんで煙草を喫った。何気なく出来栄えを確かめて、まあこれならまだ救いはあると変に感心していた。
 ジャンパーのポケットに入れてあった例の声明文を取り出して読んでみる。
 とても読みにくい稚拙な字がマジックで書きなぐってあった。
「我々は、革命を阻止する。世界同日革命は、王統の尊厳を犯し、民族の崇高なる使命を忘却させる。我々は、一切の革命を打破し、一切の暴力を超越する。我々は、天命を拝し奉り、全ての邪悪なる叛乱と陰謀を白日の下に曝し、糾弾の鉄槌を下す。非難民に詩を!汝忠良なる臣民に告ぐ。帝国の興廃は純潔なる魂にある。我らに純潔と救済を!祓いたまへ、祓いたまへ。 世界純潔友の会学生行動隊」
 僕は喫いかけの煙草を床に落して靴で踏み付けて消すと、もう一本胸のポケットから取り出した。何だか馬鹿馬鹿しいほど悲しかった。煙草の煙が目にしみて痛い。僕は、ぼんやりと教室の外を眺める。中庭の芝生は、もうまばらで薄汚れた色に縮んでいた。
 誰もいない、人通りは絶えている、僕はこんなさびしいところにどうしてひとりこんなひどい仕打ちを受けて、誰もそのことに気付くこともないし、それでも何ひとつぐちも零さずに黙って煙草を喫ってお気に入りの少女とふたり見つめあったままで、ひとり取り残されている。僕には、どうしても分からなかった。何が幸福で何が不幸なのか、それには何か徴のようなものがあって、他のひとたちはそれを簡単に見分けられるのだろうか。僕は、今でもそのことをひとに聞けずにいる。きっと、僕は、臆病なのだ、僕は、そのことを知らないでいるので、愛することも知らずにいるのだろうか。彼女はその日の午後五時きっかりに僕の前に現われて、僕はそのとき多分もうひとつのことを知った。
 生きることの悲しみ、少しセンチメンタルな気分、僕は憂欝な情熱に憑かれてしまった。
「あの、難民に救いをって、ここですか」
 彼女は、少女のパネルを壁から外している僕の背中越しに声を掛けた。僕は、不思議な声の響きに心を奪われていた。何だかとても懐かしいような、一緒に口遊みたくなるような綺麗なアルトだった。振り返ると彼女は黒っぽいゆったりとしたスカートに白いやわらかい感じのブラウス、それにふんわりとしたカーディガンを重ねて、髪は長く背中に垂らしていた。
「ええ、でも、もう終りの時間なんだけど」
 
 僕は、少しどぎまぎしながら、パネルを両手で囲って、申し訳なさそうに首を少しかしげてみせた。
 彼女は、まだ高校生の感じで、僕の方に近づくと僕の抱えこんでいるパネルをそっと覗き込んだ。
「これ、ヴェトナムの子」彼女は、僕の目を見ながら確かめるように言った。
「ああ、そうだけど。よく分かったね。君、興味あるの?」
「ええ、でももうおしまいならお邪魔だし、」彼女は一、二歩後退りした。
 僕は、慌てて彼女を呼び止めると「よければ、見ていってもいいよ。別にまだ早いんだし」
 他のメンバーが運びだすものを取りに帰ってきた。彼女は、少しためらっていたが、僕が椅子を示すとぴょこんとおじぎして座った。僕は、手にしていた少女のパネルを彼女に手渡すと、無性に煙草が喫いたくなって、「煙草、構いませんか」と彼女に断ってから煙草に火をつけた。
 他のメンバーは、僕たちふたりを胡散臭そうに眺めては、まだ運びだされていないガラクタを脇に抱えて、ぶつぶつと聞こえよがしに何かつぶやきながら僕たちの目の前を通り過ぎた。
 僕は、少しハイになっていて、その少女のことをべらべらと喋りだしていた。
 彼女は、気持ち良く僕の話を聞いてくれた。ときどき、あの少しハスキーなところのある声で相槌を打ったりして。
「この子、まだ十三なんだけど、両親は北爆かなんかでやられちゃって、それでサイゴンの近くで多分米軍の従軍記者かなんかだけど、避難する途中で、この子とても毅然としていて少しも臆したところがないでしょ。
 でも、この状況は最悪なんだ、それでもこの女の子には自分の運命とか民族の運命とか地球の運命とかそれだけじゃないって何だか痛烈にそのことが伝わってくるんだ。状況とか運命とか宿命とかそんなのは多分どこかでまがいものが混ざってしまうんだって、本当に見つめていなくてはならないものはもっと他の多分言葉じゃすぐに裏切ってしまうような、そんなぎりぎりの厳しい深いところにあるんだって。
 僕は、この少女を見るたびに勇気ってことを考えるんだ。でも、それは、言葉にしたらただのごまかしになってしまうから。僕は少なくとも自画像でなら隠してしまうだろうし、肖像としてなら曖昧な妥協に終るだろうけど、写真でなら客観性の幻想さえ持たなければ多分可能な、そう信じたいのだけど、例えばカフカの視線を感じるように、僕は彼の幻想さえ恩寵のように聴いてしまうだろう、写真には余計な感情を洗い去る機能が与えられている。彼の視線は同時に彼の特異な聴覚を幻視している。もう、ここにはないけど、僕は彼の写真を共感できる。そこには表現者を無効にするある共通の呪力がある。写真の本質は、呪力による表現者の地位の剥奪、喪われた時刻の反逆、僕たちはいつだって転落と追悼を模倣している、慰めや戯れ、忘れるために費やされる多くの詭弁。
 十三で人生を知れば、そんなことはいったいどういう意味を持ち続けるのだろう。」
 僕は、まるでどうでもいいことをでたらめに喋り続けていた。それでもその子はおとなしく僕の言うことに耳を傾けていた。僕は、急に自分が嫌になっていた。
「ね、君、こんな話つまらないだろ」
「いえ、あなたのおっしゃることとても面白いです」彼女は励ますように僕の方を見て微笑んだ。僕は、少し不審に思った。ちょっと変な子だと思った。
「よかったら君にプレゼントするよ、これ」彼女が断れないように強引に彼女にパネルを押し付ける。弾みで僕の手の甲が彼女の胸に当たり、柔らかい彼女の乳房を感じてしまう。
「いいです、ほんとにそんな」彼女は少し顔を赤らめながら受け取れないと言っている。僕は、彼女の感触を失わないように、償いのようにパネルを与えようとした。
「でも、君に持っていてもらう方がいいみたいだし。僕には何だか重荷だし。君のような美しい女の子に引き取って貰えれば一番いい結末なんだ。」僕は彼女の髪が揺れるのを不思議なものを見るように見つめていた。
「でも、大切にしてらっしゃるのに……、わたしなんかが……、ほんとに」彼女は仕方なく手にしたパネルを少し重たそうに膝の上に置いて両手で支えていたが、少し持ち上げて光の方向を確かめるように動かした。ガラスの反射が、僕の目を射た。僕は、彼女の横顔に目を奪われて、こんなにいとしい存在がこんなに僕の近くにあることがどうしても納得できなかった。もちろん、僕は現実を受け入れた。僕は、すぐに彼女を愛し始めていた。
 僕は、もうヴェトナムの少女を必要とはしていなかった。それが、まるで僕の罪のように思えたとしても、僕はそのとき僕を責めようとは思わなかった。ひとは、愛することで償われているのだから、たとえ失うことだけが愛の真実だったとしても。
 彼女は、ちょっと変梃子なところのある子だった。十七で難民に興味を持つ子は、最近では変梃子なのだ。それに彼女の物静かさと難民への関心(彼女の場合は、関心というより痛烈な自制心、他人の悲惨に非情であることを許しがたく思う心の働きに忠実であること、それを自制心のように慎ましい意志の力で包んでいるなんてことはない、ただ趣味のように憐憫の情というやつに飾られて、慰めのようにひとを愛する訳でもない、ほんとは傷つくことに対する過剰な反応のひとつでしかないなんて思わないでくれ、彼女はただ愛することに慣れていないだけで、愛される以上に愛さずにはいられないだけなんだから、だからそれを不幸だと思ったとしてもそれを拒否したりしてはいけない、それはできない、それは彼女をどうしようもなく傷つけて彼女を根刮ぎにして、……)、釣り合いのとれないそのふたつのために彼女はときどき悲しそうな目をした。
 僕は、目を閉じると今でもあのときの彼女を思い出すことができる。
 そんな気がするだけだ。
 目を閉じると、彼女の優しい微笑みが見えてくる。さらっとした髪の感触。少し突き出た唇。
 僕は、彼女の横顔を愛しただけなのだ。
 それは、どうしようもない。僕は、自制心がないから、愛する以上に愛されていなくてはならない。それは、多分もっと不幸だ、不幸を知ってしまっているから。
 
 カセットのテープは止まっている。
 僕は、少し眠っていた。
 雨が車の窓を叩いている。
 水滴が幾つも細長い筋を付けてガラスを這うように落ちていく。
 空は少しこの雨で透けてきた。
 岬の先が光っている。
 遠い雷───What the thunder said?
 漣は、もう僕の自制心のなさを見抜いてしまったのだろうか。僕は、そんなことを考えていた。
 

    

   3

 翌日、僕は会社で仕事をしていた。
 僕は、この会社に勤めだして四年になる。大学を出て、一年はそのままいい加減に遊んでいた。心配しだした両親がこの街で探した仕事がこの会社だった。僕は、たいして面白くもない仕事を熱意もなく適当にこなしていた。無難な人生、僕を誘惑するには少し手がこんでいすぎた。僕に必要な人生の栄養素は、新鮮な酸素と海鳴りのする海岸通りと美しい女、忘れ去られた詩人のソネット、それにグレン・グールドのピアノ。
 僕は、まるで人生を信じていなかった。「人生」って言葉には、あんまり埃りがつきすぎているから。
 僕が仕事を終えて、帰る準備をしていると僕に電話だという。僕の隣りに座っている子は、僕と同じときにこの会社に入った子で、二年目から一緒の部署になった。彼女は、ユミといい、二十三。
「はい、カイです」
「やあ、漣です、どうも。元気してます?」
「ああ、漣。ええっ、で、」僕は少し言葉に詰まった。
「やだな、約束したでしょ。今日ひま?」
「ああ、別に、でも」
「でもってないでしょ。やだなあ、気のない振りして。でも、グッド・ニュースです。」漣は、確信に充ちて語尾を押さえた。
「グッド・ニュース?」
 僕は、少し頓狂な声を出して慌てて受話器を押さえた。ユミが変な顔をして、僕を見た。
「そう、喜ばしき便りだね、こいつは。」
 漣は相変わらずじらしている。僕は、それが分かっているのについ彼のペースに合わせている。僕は、本当は親切なひとなのだ。
「なんなんだ、そのニュースって。おい、」
「いやですね、これですから。お勤めご苦労さんってほんと、ってとにかく会いません。話はそこで」お楽しみのおまけのようだ。僕はとりあえず一時間後に会う約束をして電話を切った。他に何の約束もなかったし、まして彼女はもう僕とは他人だし。僕は、自由で胸が痛い。
 僕が受話器を置くとまだそこにいたユミが「ねえ、カイ、今の電話、漣?」と僕に聞いた。「ご免、変なこと聞いて」
 僕は、少し驚いて(僕はいつも少しずつ驚いたりする、それは僕のスタンスの問題なのだ)「どうして、彼のこと知ってるんだ」と彼女に言った。
「やっぱり、彼なのね……」彼女は僕の質問には答えなかった。
「……(僕はしつこいたちではない、執拗に追及したりはしない)」
「いいの、ご免なさい。」ユミは、それ以上は何も言わずに部屋を出ていった。少し愁いのような表情をして、僕はユミのそうした感情の存在に適応できそうにない。彼女は、いつも(永久にとは誰も思わないが)明るく元気で、少し太め目(ぽっちゃりとして肉感的という表現は避けたい、なぜなら、彼女はイカシた体はしてたけどそれは性的な意味でそうあることが必要だとは信じられないからで、彼女は聖母のように霊的な肉体なのだ)の体を持て余し気味なところはあったにしても。
 僕は、会社でしばらく時間をつぶしてから約束の場所に車を走らせた。
 その店は、居酒屋風の造りで、亭主って感じの男とその妻らしい女と妻の愛人めいた若い男の子がいた。僕が店の暖簾をくぐると威勢のいい声がかかる。確かこの店はこれで三度目だった。最初は、会社の連中と、もう一度はエリと。
 僕はまだ漣が来ていないのを多分そう予想していたみたいに少し可笑しくて笑った。変に気取ったやつだから、きっと僕より早く約束の場所に来るとは思えないし。
 僕は、ビールを注文すると一息でジョッキの半分ぐらいを飲み干した。思わずゲップして、軽いめまいがした。最近、彼女と別れてから酒の味なんかまるで分からなくなった。
 僕は、いい加減に二、三品注文すると、静かにビールを飲み干した。他にお客といったら恋人らしい二人連れだけで、僕はそっちの方は見ないようにして少しうつむき加減にしていた。
 ビールをお替りして、時計を見ると六時五十分を少し過ぎていた。
 あんまり酔っちゃと思い、二杯目はゆっくりと飲んだ。多分来なくてもいいし、グッド・ニュースなんて待ちくたびれてすっぽかされるのが落ちだから。

 今日は水曜日だった。聖灰水曜日、僕は鉛色に輝く海を思い浮かべていた。
 空と海は鏡像効果で鉛から水銀へ、そして、純粋な銀の結晶に還元される。
 あのとき、僕はローザ・ルクセンブルクとシモーヌ・ヴェーユの本を彼女に渡して、読んでみろよなんて、自分でも読んでるはずもないのに。夕凪が緋色に染まっていた。君、高校生。僕はせっかくだからと、握手して、僕の住所と電話番号をメモして。それじゃ、近くまで送るよ。なんて。どうせもう帰るところだし、それにもう七時前だし。何か食べる。お腹空いてない。よかったら、一緒にどう。ディーンの映画見た?タルコフスキーは?それからエズラ・パウンドとT・S・エリオットは……、モスクワ座のかもめとかゴスペルとか、寺山修司ってお涙頂戴の母物だし、ワイエスの白にカンディンスキーの青、織部、利休鼠、赤毛のアリス、それにブレード・ランナーとかね。日が落ちて、街の光が溢れだした。八月の濡れた砂、赫い髪、土佐源氏、高橋竹山。なぜ、三島は市ヶ谷で首を切ったのだろう。円谷は本当に疲れてしまった。河を渡るとき橋の下から冷たい風が吹き上げて、僕たちを攫っていく。君が好きだ。とか。冷たい手してるね。僕はヴェトナムの少女を抱えながら、彼女の横顔ばかり見つめていた。
 ナパーム弾のように、なんですそれ。ああ、いいよ別に。でも、もう帰れますし、そう、せっかく食事でもと、でも、家に電話してないし。
 なぜこんなに痛いのだろう、僕の心、そして、僕は少し熱っぽいままだ。電話してもいい。ええ、でも、わたしから電話します、ああ、じゃあまた、ええ、とても楽しかったわ。じゃあ、さよなら、さよなら、……
 僕はいつまでも彼女の後姿を見つめていた。僕が気付いたのはもう彼女の姿を見失ってからだいぶたっていた。僕は仕方なくヴェトナムの少女を抱えたまま歩きだした。彼女は今でも僕の部屋の片隅に忘れられたまま飾られている。僕は、とうとうそれを渡せずじまいに終ってしまった。それは、僕を少しつらくさせる。

「やあ、どうもお待たせ、なんてね。ご免、ちょっと野暮用」
 僕が彼の声で顔を挙げると、漣は僕の隣りに腰掛けて、おしぼりで手を拭うと「とりあえずビール」と言って、早速煙草に火を付けた。
「随分遅くなっちゃって、もう半か。」漣は、腕時計を見ながら頭を掻いて見せた。仕方なしに僕は頷くしかない。
「ところで、何か頼みましたか。ああ、じゃあどんどんいきますか。」急に元気になるとメニューを取って注文を乱発する。金、まさかないわけ、なんて考えたりするだけ馬鹿馬鹿しいから僕も負けじと追加注文する。
「それじゃ、くしかつにあげだし豆腐に野菜サラダにあさりの酒蒸し、さんまにしゅうまい、いかの刺身。」
「やりましたね、それじゃあっしももう一声、トマト・スライスに鳥のからあげ、スタミナ焼き、鰹のたたきと」
 結局僕たちは、全部を注文したわけではない。僕は、ジョッキ三杯で少し酔っていた。漣も酎ハイを二杯で、少し顔を赤くしていた。
「まだ、八時二十分か。どうしようかな、半端な時間だし、どこか知った店に行きます?」
「最近はどの店行ってるの、どっか面白い店ある」僕は、どうするあてもなかったので、
「うん、でも、この時間じゃまだ早いし。つなぎにどっか……」思わしげにグラスを傾けて、中を覗いている。
 僕は、あくびしそうになった。慌てて口を押さえると、急にまたトイレに行きたくなった。
 僕が席にもどったとき、店はもうだいぶ込んできていて、そんなに広くない店の中は人息れで、その上急にざわつきだしてやかましくなった。
「出よう」そう言うと僕は伝票を取り、支払いを済ませた。店から出しなに「ども、ご馳走様」なんていい気なもんだ。
「で、どうする」
「そうですね、じゃあ、あそこにしやしょう。車ありますから」漣はさっさと駐車場の方に歩きだした。バッグを手に下げて。僕は、星ひとつない夜の空をぐるりと見回して、海の色を想像しようとした。底なしの深い藍色。何も想いつかなかった。
 夏のマイノリティ。僕は車のバンパーに膝を当てた。あいつ、おれのことなんか愛してもいなかった、としたら。
 助手席に腰を下し、ドアを閉める。あいつ、こんな歌聴いてるのか。少し意外だった。夢を諦めないで。僕は、君を失ったらどうすればいい。もう、だれも愛せやしない。なんてどうかしてるだけだ。君は、君が幸せになるのならもう君を止めはしない、君がそれを望むなら。「あそこ、ちょっと高いですよ」僕は何も知らないで、僕は異邦人のように招かれないまま、他界、何も見えない。全くどうかしてる、星ひとつ見えないで。「なんて店?」「ジャブジャブ」「どういう意味」「いみ?知るわけないでしょ」「そう」「そう」
 車は、街の幹線を飛ばして脇道に入ると急にハンドルを左に切って止まった。空き地に雑草が茂っている。駅裏のこじんまりとした一画だった。店は、四、五軒あって、どこもあぶない雰囲気だ。
「だいじょうぶ」僕は助手席から降りてもまだぐずぐずとズボンの塵を払ったり、ありもしないポケットからの獲物を探しあぐねていた。
「いっちゃいますよ」漣は、にたっと笑うと僕の前をすたすたと歩いていく。知らない店に入るのは少しためらいを感じるものだ、などと分析する心理を解剖してもこいつ病理は病巣はまあいいか。僕は、励ますように重い足取りを運ぶ。文学的な憂欝の気配が漂ってもいい。あいつ、おれのをくわえるとよろこんでなみだをながしていた、しりをふっておれにはやくとせがんでそれがどうした。僕は、きんきらのドアの前でこいつどうかしてる、店の中は大理石の格子模様で床はぎんぎんだし、天井はガラス張り、星座をあしらってぴかぴか光る、薄暗い店の奥のほうだ、ソファーにふたり座る、すぐに女が来る。
「こいつ、確かメリーだったか、まあいいや」
「はじめまして、わたしマリア・ルイズです」
「ね、マリアでしょ」
 僕は、少し眠気を感じて、曖昧にうなずいた。
「何しますか、おにいさん」彼女は大きい目をわたし(僕に)向けて、彼女のおっぱいはおおきい、彼女のちぶさはちいさい、彼女のおしりはおおきい、彼女のけつはでかい、僕は漣のほうを見た。そして、天上のあの星座はアンタレスかそれとも単に水瓶座の女、血液型はO型、三十腰ってあったかな、南の島じゃ男日照りで若い娘が都会へ体を売りにいく。「ビール、なんてもう飲めないし……」
「じゃあ、ブランデーにでもしときますか」
「みずわり?」
「なんでもいいや、レミーは飽いたし、カミュはいまいち、ここんとこXOにでもして」
「VSOP!?」
「昔の女だ、あいつロマネ・コンティとかなんとか、酒だたかが酒だろ、いい酒に越したことはない。」
 あいつのおっぱいはしろい、あいつのちくびはくろい、あいつのおしりはあおい、あいつのあそこはあかい。
「どうかした、」
「いや、別に。ちょっと……」
「やだね、変なこと考えてたでしょ。図星」
「まあね、ちょっと仕事」
「女のしごと?」
「おとこ」
「やけに無口」
「それはどうも」
「あ、そう、ビッグ・ニュースもう話したかな」
「まだ」
「やけに重傷」
 あのレース三ー八で四十六倍ついたのにおれは
「ああ、ご免。ちょっと酔ったかな」僕は、目を擦りながらもう一度店の中をひとあたり見回してみた。他に客は入口の近くにひとりだけだった。(少しやばいよ、これは)僕はきらきらと発光する未発見の天体を観測する、昔星座の名前を六十六覚えたが、実際に空でそれを確認出来たためしがない。いつも裏切られている。多分自分に。
「ねえ、漣。僕たちは自由に生きているんだろうか、ほんとにそんなことできるんだろうか、僕はさみしくて僕は淋しくて……」
「うつろな夢、死をたどるためにだけ聴された生のかたち、僕たちはその形でしか生きることができない。愛はほとんど喪失を確かめるてだてでしかない、」
「あらゆるものをうしなうためにいきてしぬ、だれのためになんのためになんてなんのいみもかたちもあかしもない」
 マリアは僕のためには祈らない。
 僕は、眠ったままだ。祈りを知らずに生きていけるから。
 愛を知らずに生きていけるくらい、僕はたぶん不幸にさえなれないから
 宙ぶらりんのキャンドル・ライト。レーザー発光のディスコ・ストロボ。
「イカオ、どうした?げんきか?」マリアが僕の方を覗き込んだ。僕は、マリアの悲しげな眼差の深さに驚き、微かに痛みを感じている。僕は、どうしてこんなにも感傷的でやすっぽい感情に振り回され、感激するなんてできもしないし。漣が僕のことを少し嘲っている。僕の弱さを誰も弁護しない、どうかしてる、卑屈になってるなんて。
「元気、元気」と手で合図してみせて。
「そおか、わたしマリアルイズ、イカオは?」
「アコ、カイ。よろしく」
「そうそう、さっき言ったかな」
「おまえ、いくつ?How old?」
「わたし、十九歳」と強調してる。
「こいつ、多分十七じゃ」
「で、ビッグ・ニュースって」
「あなたいくつ」
「二十七、いくつに見える?」
「おれ二十三、」
「イカオ、いいおとこな」
「おれ、あいつと別れた」
「おまえな、いったいいくつになったらそんなことできるんだよ」
「まあ、いいじゃないか、こいつけっこう可愛いしさ」
「おっと、言ってくれますよね」
「ねえ、うたうたって」
「こいつけっこううまいよ」
「アコ、うたへただから」間髪を入れず
「なにかのんでいいですか」
「けっ、まあ」
「ビール、飲めよ」
「わたし、すみませんアルコールだめ」決して謙遜している訳ではないのか。
「こいつよくやるよ」
「だめ、さわっちゃ」
「じゃあ、なににする」
「いいよ、こいつあんたに」
「ウーロン茶いいですか」明確な意志の表明でしょう。
「なにうたおかな」
「ところで話だけど」
「なんだよ、」
「こいつすぐこれなんだよ」
「おれなんか」
「それで、」
「あそうか」
「いつものやつ」って
「がんがんさせて」
「そう、あいつミサのやつあんたに話が」
「いただきます」
「かんぱい」
「うたうか」
「でさ、あってやる」
「イカオ、デュエットは」
「わたし、うたへた」自慢じゃないが。
「こいつ、うたえよ」
「あなたどして……」
「おれそれであいつに話つけてやるって」
「いったいどういう関係」
「関係ないでしょ」
「おれこれにする」
「イカオどしてうたわ」
「まてよ、それにしても」
「僕はとにかく興味ないから」しらーっと
「じゃあどうしておれに」
「とにかくおれさ、こいつちょっとまてよ」
「わたし、すけべきらい」
「おれはなすけべじゃないんだな、ところでどうします、会ってやるのがいいけどな、あいつ真剣だし」
「このうたは?」
「アコ、うたへたね」
「とにかく会っていっぱつしてやってよ、お願い」
「なに?」
「このうた、イカオうたえるか?」
「だからさ、男と女ってそれしかないでしょ」あれこれあってなんぼのものかい。
「それにする?」
「とにかく僕はいまのところ……」
「失恋ってこと?」
「ばか、さわる駄目」とキツイお仕置き
「いいじゃない、へるもんじゃな」
「酔ってる」
「おれ、何か歌おっと」
「ねえ、これうたう、あなたこれ」
「いいな、もてるひとはなんて」
「冗談でしょ」
「あいつ真剣、多分本気、きっとやる気」
「だめ」
「これにするわ」
「どれ」
「こいつけっこういい胸してる」へへっ
「で、なんてったっけ、えっとミサ、どうして僕なんかに」
「あなた、やさしいな」
「こいつ、あんたに…」
「やめとけよ」
「いいじゃない、」
「おい、デュエットしよう」
「でも、あいつきっと惚れてるよ」
「失くしちまった、」ちっ!
「いいじゃない、おんななんか」
「あいつきっと」
「思い出し笑い」
「あはは」
「結構面白いやつ」
「イカオ、」
「……」
 僕たちは、結局午前二時までその店にいた。店をでるとき、マリアが外まで送りに出て、僕は漣と彼女がキスするのを見た。僕は、あとから僕たちのテーブルについたアリスとさよなら、おやすみと言ってわかれた。

  
  

   4

 僕は、例えば、詩人とか画家とか音楽家とか、強いて言えば革命家とか。要するにげいじゅつかという名の怪物たちを昔から憎んでいた、それは多分嫉妬、羨望、それに嫌悪。僕は、作家たちのしたり顔の作品を共感したくない、作品=排泄物、或いは分泌物、僕は汗と血と涙と性液とそんなものをまぜこぜにしてしまえ、そして、感傷や興奮や陶酔なんてうそっぽい錯覚に溺れていたくない。僕は、例えばポルリーニのエチュードに痺れる、鋭利な幻想の刃に貫かれたように。そこには、けっして液体は存在しない。硬質の結晶か発光する気体の輝き。雷鳴と炎。金属の叛乱、錯乱する宇宙塵、流星の炸裂。
 例えば、夕靄に包まれた海は、落日の残光に波を洗われ、金と銀の深い斑紋に身をしなう。きらきらと鱗をかえし、やがて一筋の磁界線となり、天空に遊離する。それは不毛の原野へと始源の地形に還元するためである。
 僕は、あらゆる液体を憎悪する。液体は、生命の貪りの形だから。或いは、生命は貪りの形式でしかない。
 太陽の再臨。僕は、彼の精緻で怜悧な批評を好む。彼には、金属の傷ましさと廃鉱物の清冽な響きがある。ヴィトゲンシュタイン。
 例えば、ランボーの幾つかの詩。僕は、ヴェルレーヌの祈りを聴きたくない。

 僕がミサと会ったのは、多分それから一週間はたっていた。僕は、その日、雨に閉じた街を静かに眠るように閉じた街に車を走らせていた。僕は、雨が嫌いだ。雨は、僕を湿度にし、僕を泥土にする。
 僕の絶対零度。

 僕は、怒りをずっと忘れている。きっと愛を見失ってその報いなら多分聴せる。凋落の季節、少しの名辞。儀式の廃液
 僕が必要としたものは、いったい何だったのか。多分――たぶんとしか口にできずにいたのだから――僕は、傷つくことを恐れていた。傷つけることに少しの関心を払う必要も感じずに。
 そして、僕が必要としたものは、……
 僕は、慰めと驕り――それは僕の奢りでもあったから、僕はずいぶんと徒に費やしてしまった。例えば、かけがえのない人生とかかけがえのない人、かけがえのない愛とか、まるで冗談。
 僕が、一番必要としていたもの。それは、ほんとをいえば、ビッグ・ネーム。僕の傲りを満たすだけの名声。

 ヘミングウェイの太陽崇拝――焼き尽くすこと、灰になること。僕の愛した光と響きは、太陽の激烈な輝きでしか解き放つことができない。本当は、破壊と炸裂
 雨がのしかかる。僕は、午後七時の薄明を突き抜ける。絶え間のない断続音。
 海の匂いが微かに空気を震わせる。
 潮が盈ちて、月が缺けている。それは、この闇を裂いて僕の知覚に突き進む。
 僕は、あいつの裏切りを恨んでいる。たぶん僕のプライドを傷つけた、そんな結果を招いたから。
 彼女は、新しい人生というやつを歩き始めた、というわけだ。
 ミサは、ちょうど店から出て、迎えの車を探していた。僕は、軽く二、三度クラクションを鳴らすと、彼女のそばに車をつけた。
「雨ね」ミサは、ドアをあけながら僕に言った。
「ずっとね、」僕は、彼女の顔をちらっと覗いた。
「ねえ、どこにしましょ」少し微笑んだ彼女は、素直に美しい。
「もう、食事すました」
 僕は、もう一度彼女の横顔を見つめたい衝動に駆られた。
「え、まだよ」そう言って、雨に濡れた髪を後ろに掻き挙げた。黄砂の匂い、たぶん天山北路の希薄な空気の匂い。
「じゃあ、どっかで食事して」
 僕とミサは、パスタのとてもおいしい店を選んだ。少しワインを飲んで、少しおしゃべりして、少し冗談して。
「ミサ、どうして僕と付き合う気になんかなったの」
「それはまだ分からないわ、だって」
「僕は歓迎するけど、勿論君の承諾なしでもね」
 僕は、ミサの少し細めの目をじっと見つめて、多分何も考えてなかった。ただ、こうして恋人のように生活しているのが落差になって、僕はだいぶ平衡を失っていた。しばらくは、傷ついた恋人でいたかったから。
「あなた、わたしと付き合うの迷惑?」ミサは、ちょっと怒ったような声をして、僕を睨んだ。昔、好きなひとがいて、そのひとがこんなふうに、そして、僕は憐れみに涙を流し、なんてね
「とんでもありません、迷惑なんてご冗談を」僕はブルー・マウンテンのブラックを啜りながら、こいつは胃に効くなと思った。おまえ、おれのことすきか。おれ、おまえのことすきだから、すこしきになってね。
「でも、わたしのこと考えてない。誰か別のひとのこと考えてたでしょ。」僕は、ミサの視線を耐えられずにいた。
「図星の大安売りなんてね、そいつはよくないか。でも、もし君がそのつもりなら…」僕はかなしげに首を振った。そして、僕は、彼女が僕のために涙を流すのをただ見つめて(泣いた。)僕は、泣いた、多分僕が僕の存在において顕にしたものたちの忘れられた聖約を果たすために。そして、彼女のためにそれは真実を告げている、そう信じていなければ、いったい……
「君を愛してるなんて、どうかしてる。君が僕を愛することができないように」
 僕は、彼女の目を見た。
 雨が、彼女を深く包み、僕は遠くにいた。
「あなたは、何も考えてないわ。それに、何も感じはしない」彼女は、まるでそうまるで祈りの声のようにぶつぶつとつぶやくと、僕の目を真っ直に見て。あなたは、なぜ求めないの。
「僕は、静かに眠っていた。そして、目覚めるとそこには誰もいず、僕は僕がもう失われたことを」
「そして、あなたは、わたしを見つめようともせず」ミサは、急に目を伏せると肩にかかった髪がほつれたようにして彼女の顔を覆い、僕はいとしいものをいたわるように、そして、僕はいったい何を求めていたのか、抱き締めて、それでおまえのぬくもりがおまえのにおいがおまえのかわきがおまえのうごめきが、そして、おまえのながしたなみだが
「なに、考えてるの、ねえ、どうしてわたしのこと考えて」ミサは激しく息をついだ。
 僕は、いったい
「わたし随分待ってたの、でも、あなたはまるでわたしのことなんか知らずにいた、そんなことわたしには耐えられないから、わたし、そんなことには我慢できない、だから、わたしはっきり言うわ、あなたがどう思おうとわたしはあなたを必要としてるの、あなたのことが必要なの、わたしが生きるのに、そして、たぶんあなたが生きるためにもそれは必要なの、」
 僕は、窓を叩く雨の音にいらいらしながら、ミサの唇を指の腹でそっとなぞって。たぶん、彼女はそんな僕を愛し始めるだろうから。僕は、誰も愛してなんかいない。僕は、誰を待っている、僕は、もう待ちくたびれてしまった。
「僕は、傷つきたくない。そして、傷つけたくない。」
「そして、愛することを諦めたの、恐れたままで何も」
「君を愛したから、これ以上傷つけたくないだけだ」
「わたしは、傷つくことなんか、わたしは愛されればそれでいい、愛されれば傷つくことなんか少しも」
 僕は、何を恐れ、何を憎んで、何を失ったのか。
「また、考えてるのね。わたしじゃ、だめ?」ミサは、僕を哀れむように見た。
「ああ、ご免。ちょっと最近狂ってるんだ。ほんと、ちょっとおかしい。」僕は、指で頭を指差してみせた。
「でも、いいわ。あなた、きっとつらいことあったから」ミサはコーヒーを揺らすと一口だけ口にした。
 僕は、彼女のやさしい声の響きを胸にそっとしまう。
「君になら、素直になれる、だとしたら失礼じゃないかな」僕は、自信なさそうに声を細くした。
「いいわ、構わないわ。わたし、慣れてるから。」
「ああ、そう」そう言って僕は、彼女の距離を確かめる。
「だめね、わたし。いつもこうだから、わたしには分かるの。わたしが必要とするものとわたしが必要とされるものが、わたしわかってるの」彼女の水滴は、限りなく透明で少し歪んでいる。
「僕は、いつになったら……僕は愚かなままで年老いていくなんて、信じられずにいたのに……」雨が僕を腐乱させる。
「森の深いところにあなたはいて、誰もあなたを救ってはくれないとあなたはいう、けれど森の深いところには生きるために必要なものはなんでもあるはず、あなたはそれを知ろうともせずにいる。わたしは、あなたにいくら声をかけてもあなたはそれに気付きはしない。」
「雨が森を閉ざしていく、僕の時間を奪い、僕の眠りを妨げ、僕の祈りを嘲るために。」
「あいつ、きっと僕をひどいやつだと」
「いいの、わたしはあなたをゆるすわ。わたしがゆるせるかぎり、あなたをけっしてこばみはしない、」
「僕のためになんか祈るな!」僕は、叫ぶ。
「いいえ、あなたのためじゃないわ、そして、あなたのためでもあるの」ミサは僕の手をとると両手で僕を包んだ。
「ミサ、僕のために何もできないさ」
「僕はそれを求めていない。」僕は、彼女の手を振りほどく。
「いいの、それでも、もしわたしが失われているのなら、それはおおいなるあかし」
 僕は、眠ることができない。僕は、コーヒーを飲み干すと、それから僕は、
「変なひと。でも、大切なひと」別れたひとは僕のことをそんなふうに言って、僕の手を握るとすこし笑った。僕は、いつも仕方なく同意して、彼女の手に力を込めて握り返した。

「ねえ、カイ。わたしまえからあなたのこと、気になってたの。ずっと」ミサは、最後の一口を飲み干すと、僕のほうに向き直って言った。僕は、すこし疲れたように横を見た。ガラスをつたって落ちる雨の水滴は、僕の血管を真似ている。
「僕は、オシリスの怒りに触れた。太陽は、光輝を失い、豊饒の力は絶えた。氾濫する海と枯渇する大地、青く限りなく青く燃える天空は、黒い闇の支配に屈し、赤く縁取られた星辰は、狂気の黄色軌道を蛇行する。」
「僕がおまえを必要とする訳は、僕が他者を支配するため。それは、あまりに悲惨、だから僕は少なくとも愛を語ることを忌避する。それは、おまえが」
「あんた、阿呆や!」ミサがそう言う。
 僕は、確かに阿呆でどうしようもない。
 店を出ると、僕たちはあてもなく車を走らせた。僕は、さっきミサのいったことを考えていた。ミサも何か考え込んでいるのか、さっきから黙ったままでいた。僕は、いったい何を話していたのかまるで思い出せずにいた、頭の中が混乱している。僕は、とりとめのないことやつながりのないことやてんでばらばらのことやどうでもいいことや昔のこと、それに何か分からないけどどうしても考えずにはいられない何か、いったいそれが何で何のためになのかそれとも何ひとつ意味のないナンセンスだとしても僕はそれを拒めない、僕はぼんやりと疼く頭でそれをじりじりと感じている。
 ミサは、急におとなしくなった。さっき僕を阿呆だと叫んで店にいた人を驚かせたのが、それは多分ほんとにあったことで、僕はきっとそのとき恥ずかしい思いをしたに違いないから、いまでもそれを恥じて心のどこかで傷ついているはずなのに。
 僕は、闇雲に車のスピードを上げた。少し小降りになった雨が視界を狭め、海岸沿を走る国道はゆっくりと彎曲し、こんもりと海面から突き出た岬の先端には、古びた灯台が微かに光を滲ませていた。まるでしみのように闇から這いでて、夜気を揺らめかせた。
 黙ったままで十五分近く走り続けると、隣りの町に入った。僕は、ちらっとミサの顔を見た。相変わらず表情を変えずにうつむいて何か思わしげに眉を寄せている。あまり見かけない感じ。いつもと違う雰囲気に僕は少し苛立つ。それで不機嫌をつい顔に出すとそれが敏感に彼女の表情に反映する。僕は、それを二重に見ている。僕は、沈黙を愛した。それは、恥ずべきことじゃない。
「ねえ、どこまでいくつもり」ミサが急に口を開いたので、僕はしばらく言葉の実感を探すつもりだった。
「君がもういいというところまで、いけないかい」僕は、そして、彼女の膝に軽く手を置いた。僕は、彼女のぬくもりが知りたい。だけだ。
「ええ、いいわ、わたしどこまでだって、いいわ」ミサは僕の手を取ると、冷たい掌で僕を慰めた。僕は、湿度を感じて少し悲しく胸が痛んだ。
「僕は、弁解しないけど、少し疲れてる。だから、そんなに遠くまでいけないだろう、もう弁解してるな、やっぱり。」
「いいのよ、無理しなくて。わたし、あなたのことは分かってるつもり、気を悪くしないでね、でもあなたのこと、よく分かるの、どうしてだか分からないけど」
「僕には少しもそうは思えないけど、君がそう言うのなら、たぶんきっとそうなんだし、僕は僕を理解してくれるひとを求めているなんて絶対そんなこと口にするはずないし。君は、いったい僕のことをどうするつもり?」僕は、左にハンドルをとるとき彼女の横顔を睨みつけた。
「いいわ、わたし、誰からも理解されるとは思わない。理解なんて綺麗すぎる言葉だからわたしそのことは少しも考えたりしない。そして、わたし、あなたがわかるの、あなたの望みやあなたの中途半端な悲しみや小さな怒り、欲情でわたしを見る目、あなたをかんじるのよ、だから、わたしがほしいのならそういえばいいの、わたしはあなたを確かめたいの、わたしはわたしをわかりたいから、あなたがわたしを求めてくれればそれでいいの」
「もし、僕が君を求めなかったら」僕は急に煙草が喫いたくなった。めまいがして、夜がうろこを脱いで
「あなたはもうわたしを欲望で犯している、そして、わたしはそんなあなたをもう憎み、あなたを罰するためにわたしの肉を晒して……」
「おれはおまえの体なんか欲しくはない、なんてどうかしてる(わかれて半月でもう僕は欲情することに同意している)」僕は、車を左に寄せて少し空き地になったところに車を止めた。
「どうかしたの」ミサが心配そうに僕を見た。とても懐かしい声を聞いたときのように僕は深く息をつぐとシートに体をあずけて、少しのびをした。
「いや、ちょっと気分が悪くて」僕は何も悟られないように注意深く声をひそめて言った。
「だいじょうぶ、」彼女は僕を観察した。
 僕は、大きく息をすると彼女の方を見た。今日の彼女はぴったりとした綿のスウェターとやわらかい生地のスカート、少し長めの。胸のあたりがかすかに上下して、呼吸している。静かな息づかいだった。それが、とても不思議で、不思議だった。
「ねえ、もうかえる」
「いや、でも君がそういうのならかえる?」
「わたし別に構わないけど、ほんといいの、少し顔色悪いわ」僕は、やさしい言葉と率直な忠告に飢えている。友情、美しい誤解の結晶、愛情、欲望の惨めな残骸……
「でも、せっかくのデートを…、それにまだ何にも話もしてないし」
「また、会えるでしょ、それに今日はあまり時間ないし」ミサは軽く首を振っていやいやをするようにして、僕を真直に見た。
「僕、どうかしてたな今日は。」僕は少し声が擦れたのを嫌味に感じた。
「気にしてないから、わたし」
「今度、いつ会える」
「そうね、次の日曜は仕事だし、多分その次は休みだから。ね、電話して、そうね、金曜日、いい?」
「じゃあ、金曜日電話するよ」
「待ってるわ、わたしあなたのこと好きになるみたい」
「僕は君を忘れられなくなりそうだ。」僕は、彼女に軽くキスすると車を出した。夜が下降し、僕たちは少し上気していた。

 僕がミサを家の近くまで送ると、もう雨は上がっていた。僕は、もう一度キスしたかったがやめにして、なんとなく握手して「それじゃおやすみ」「とても楽しかったわ」「また、会いたい」「ええ」そう言って、そして、彼女が手を振ると車を出した。
 まだ、十時少し前だった。僕は、そのまま帰りたくなくて、車を街中に走らせて、結局僕はジャブジャブの前に来ていた。
 店に入ると、客がたくさんで、どのボックスも空いてなかった。僕は、仕方なくカウンターに腰をおろすと、ビールを注文した。僕は、いつもクアーズを飲んでいる。どうかしてる。
 僕は、ひとりビールを飲んで、ボックスの騒ぎに背を向けて、なんとなくぼんやりと考え事をしながら、ときどき流れる有線のヒット・チャートのリズムに合わせて口遊んだりしていた。カラオケが僕のゆるやかな肉体のリズムを中断する。
 僕は、舌打ちしながら、振り返る。あいかわらずの混みようだ。女の子は、誰も僕のところには来ない。僕は、再びスロー・テンポのロックのリズムに身を横たえる。そして、いつのまにか僕の心は緩慢な眠りについていた。
 僕は、静かに回想する。
 僕たちは、似合いの恋人同士で、みんな羨ましがった、なんてうそだ。僕は、彼女が十八歳になるとき、そのとき僕はもう二十二だったから、僕は彼女を難民のように抱いて、難民のように愛した。おかしい、この表現おかしい。僕は、難民のように彼女を愛し、難民のように抱いた。僕は、まるで難民のように、僕を憎んだ。
 そう、僕は難民のように彼女を憎んだ。いったい難民て何なのかまるで知らずにいられたのに。僕は、ほとんどうわつらの知識で武装した危なっかしい他愛のない自堕落な兵士だった。彼女は、それに気付いていて、難民のように僕を愛した、難民が兵士を愛するのと同じくらい。だから、僕は傷つけあうことでしかそれを確かめることができなかった。不幸、あまり慣れない習慣だから。

 僕とエリは、年の明けた一月の終り頃、不幸にも愛しあっていた。僕は、罪のように彼女を抱き、罰のように彼女を憎んだ。彼女は、そんな僕をたぶん聴していた、聴すことで僕に復讐していたのか、そんなことはいくら考えても仕方のないことだから。僕は、結局納得できないまま春を過ぎて、その夏ふたりで海にいったとき、とうとう僕は最初の別れ話を切り出して、初めて女の子の涙を見て少し不審に思った記憶がある。記憶、もう懐かしい響きに風化している。いつもオフ・ビートで。

 カウンターでぼんやりとしていると、誰かが僕の肩を軽く叩いた。あいつ、そう思って振り返ったらまるで違っていた。
「イカオ、ひとり?」僕は、彼女の名前が思い出せない。
「ああ、今日、お客さん多いな」僕は、彼女のバランスのとれたキュートな体を一瞬で見渡した。
「あなた、カイね。元気ですか」
「元気、元気。イカオ、たしか、えっと、そう、マリア。マリア、元気か」
「ありがとう、わたし元気ね。でも、あなた、元気ない。どして」
 僕は、答えたくないということをあからさまに言っていいものかいつも迷ってしまう。仕方なく、態度でそれをあらわすが、それは一番最低のやりかただから、僕は随分誤解されてきた、勿論誤解の本質から逸れることを恐れずにいたとしても、意味不明。
 僕は、ときどき意味不明になる。
 僕は、いつも行方不明のままで、所在不明だ。まったく不明を恥じているのです。
「ねえ、あそこあいた。座るか?」マリアは、僕を強引にそこに座らせるつもりらしい。
 僕は、他愛もなく――それがどうかしてる――彼女の望みを満たしてやった。それは、少しやさしい気持ちが残っていたから、多分マリアがあの少女の面影をどこかに秘めていたから、あとでそのことに気付いて少し悲しくなった。僕は、こんなに簡単に思い出とか感情を費消してしまっていいのだろうか、もうほとんど何も残ってはいない、それは、つらい現状認識だった。僕は、現状をほとんどいい加減に受け入れてしまっていた。それが、唯一のまともな認識だから。
 マリアは、僕の隣に座ると、勝手にボトルをだしてきて、水割をつくりだした。僕は、そのボトルに僕と漣の名前があるのを確かめた。ネーム・プレートにはマリアの名も書いてあった。
「ねえ、わたしウーロン茶いいですか」彼女は、僕にグラスを渡すと、そう言ってにっこり笑うと立ち上がって、カウンターの方に消えた。僕は、彼女の美しい脚をすごく気にしていた。僕は、美しい脚の女に全然参ってしまう。
 帰ってきたマリアは、その美しい脚を組んで、僕の膝の上に左手を置いた。僕は、自動的にその手を握ると、「マリア、おまえいくつだったかな、わすれた」そう言って彼女の膝頭に目を落した。
「わたし、十九。イカオは?」他愛のない返事、僕は他愛のなさに参ってる。
「おれ、いくつに見える。」
「そーね、二十五才、三十、三十五、五十」
「こいつ、」
「あなた、おくさんいるね」
「いないよ、アコどくしんね」
「どくしん?」
「シングル」
「でも、こいびといる」僕の太腿をつねる。
「こいびと、いない」
「うそつきな」
「ほんと、でも、わかれた」
「どしてえ?こいびときらいか、イカオおかま?」けらけらと笑っている。
「おかまじゃない、アコおんな好き、でもおんなアコ嫌い、だからわかれる」と手振りを交えて説明する。
「お、のー。あなた、うそつき。」
「アコうそつかない、アコおんなすき。」
「すけべな、イカオ。」
「アコおんないないでしょ、だからさみしい、さみしいからすけべ、しかたないでしょ」これも説明がいる。
「あなた、へんなひとな。」と妙に感心している。僕は、馬鹿馬鹿しくなってあくびするとまた太腿をつねってくる。こいつ、へんなこと教えられてる。
「おまえな、にほん何回め?」
「わたし、二回目」
「そか、二回目。まえどこ」
「トキョ」
「そか、マニラ・シティ?」
「ケソン・シティ」
「How many brothers and sisters?」
「2brothers and 3sisters」
「おまえ一番上?」と指をたてる。
「わたし、おねえさん。でも、いもうと来てる」
「いま、にほんいるか」
「なごや、いる」
「そか、なごやか、」
「イカオ、きょだいは?」
「no brothers and sisters」
「さみしいな。」
「でも、しかたないでしょ」なぜ、弁解するのかまるで分からない。
「ところで、おまえ恋人いるでしょ。」
「いる、でもいない」
「どういう意味?」
「わたしフィリピンにこいびといる、でも、わたしフィリピンいない、だからさみしいな、イカオと同じな」
「あのな、おれには恋人なんかいないんだよ。分かる?こいびといない」
「わからない、こいびといない、さみしいでしょ」
「こいつ、」
「あなた、さみしいか。でも、アコこいびとな、イカオこいびと」マリアは僕の腕を抱くようにして僕の体を揺さぶった。僕は、変なやつだと思ったが、僕が変なのか自信がないので諦めてマリアの長い髪の匂いを嗅いだ。とてもいい匂いがした。日本製のわざとらしさがなかった。素直な。
「マリア、イカオおれのこいびとになるか」僕は、ほんとは彼女がとても気に入っていた。
「こいびと、まだはやいでしょ」マリアは軽くウインクして見せると大きな口をあけて笑った。僕のグラスをとって濃い目の水割をつくる。こいつ、いい胸してる。
「おまえ、おれのおんなになれば」なんて言える?
「ねえ、デュエットする。なにうたうか」
 僕は、歌なんか歌う気になれないはずなのに、結局五曲も歌って少し自分が可哀そうに思えたりした。

 僕は、閉店までいて、帰るときマリアにキスしようと言って笑われたので、別にそれは当然のような気もしたから、「おやすみ」と言って車に乗った。彼女は、手を振りながら「ねえ、またきてね」と言った。そして、動きだした車に投げキスして、店に戻った。漣はその日は来なかった。眠るまえにふとそんなふうに思ったが、別にどうってことないし。午前二時三十四分

 
   

   5

 六月の重い空気が、街を包んでいる。僕は、海に面した街にいて、ときどき海を見て時間を潰した。
 六月の海は、冬の鉛色とは違って、単純な灰青色に沈んでいる。荒々しさや棘々しさはない、気の抜けるくらい間延びした海でもう夏の感触で輝きだせばいいのに、少しもそんなそぶりを見せずにいた。どこかたよりない感じで、波は右往左往して、うっとうしい空模様に染まっていた。雲は、相変わらず不機嫌で、自分を持て余し気味だ。雨は、いつまでもけじめのないままで、すっかり嫌気がさしている。
 僕は、しばらく誰とも会わずにいた。ミサにも電話しなかった。なんだかむなしくて少し悲しくて、誰にも会いたくなかった。二週間くらい、僕はほんとにほとんど口をきかなかった。仕事を終えるとすぐに海に車を走らせて、何時間も海を見、波の音を聞いた。夜になっても、遠くに目をこらすと波の形が浮かんで見えた。すこしづつ波は形を変えて、海の鼓動となり、やがて夜の空間をひとつにして、静かな舞踏となった。遠雷の鳴る夜にも、僕は潮騒の微妙な変化を嗅いで、鋭い痛みを感じた。
 星がひりひりと降りしきる。希薄なガスの渦。剥離した視細胞の核を切り裂く。
 淡い月の光。波の苛立ち、繰り返す諦念。
 いましめといのり。僕は、慰めを必要としていた。だけなのだ。儀礼のように。僕は、少し眠ると、目覚め、すぐにまた眠り、浅い夢の中に現れ、深い喪失感に消えた。
 それを確かめ、諦めるためなのか。何を?
 僕は、誰にも問いかけることができない。僕は、僕でしか見出されることがない。喜劇、そして、ありあわせの悲劇。愛すべき僕たちの悲劇、不可解なあまりに不可解な素直さ、運命の脆弱さを少し恨んでいる。

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