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私たちは人類史上に稀な映像を見ている


日が明けて、能登地方の被災状況がテレビで様々に放映されております。
土砂が崩れたり、家屋が崩壊したり、今の状況を映像でハッキリと見えます。
かと思ったら、飛行機の大炎上の映像まで見てしまいました。
毎年どこかで天災が起き、世界中でも様々な被害の映像が流れてます。
私たちはもう見慣れた光景になってしまいましたが、考えてみたら、これはかつてはありえない事です。

テレビ映像ができる前は、例えば昭和初期までは、自分の周りで災害が起きない限り、噂で口頭で聞いたり文字で見るだけで、実際に見る事は珍しかったでしょう。
災害で民家が崩壊するなんて、一生見ないこともあったかもしれません。
現在の私たちは、かなりショッキングな映像を見ていることになります。
東日本の津波の映像など、気分が悪くなる人がいるために自粛されたり警告されたりするのは、わからなくもないような気もします。

(便宜上そう呼びますが)神様は、有史以来人類の様々な戦争や災害の被害風景を眺めてきたんですね。
あまり見たくない映像かもしれませんし、「見たくないこと」なんてこともないかもしれません。
表現が難しいのですが、神様にとっては見慣れた映像であると同時に、悲しいことであるどころか、人類の喜怒哀楽のすべてを共感しながら人類の歩みとともにあったのと想像します。

私たち人類は、個人個人がカメラを持つようになり、ネットで映像投稿できる利便性もあり、ここ数十年で、被害風景を目にする量が飛躍的に増したのでしょう。
人類の精神が追いついているのでしょうか。それとも麻痺してるだけで精神崩壊してるのでしょうか。

(便宜上)神様や高次元の方と、私たちの違いは、一言で言うと度量の大きさだと思います。
度量とは、人の言行をよく受けいれる、広くおおらかな心です。
この度量が圧倒的に差があるような気がします。
私たちは、人の不幸をリアルな映像で見ることによって、度量が広がったのでしょうか。それとも度量が歪んだのでしょうか。
それとも、人それぞれの人間性がより明確になっただけでしょうか。

私は被害の映像を見ると、
大変だなぁとか、まぁしょうがないかなぁとか、自分がなったらどんな感情になるんだろうとか、悲しいとかは後からくる感情で今は必死なだけなのかなとか、このぐらいの被害で良かったなぁとか、冷静に状況を見てるだけの自分でいるなぁとか、無事な家の隣が崩壊した家で何が違うんだろうかとか、原因と目的は何なのかなぁとか、
まぁもっともっといろいろ考えるわけですけど、様々な思いの1億倍の思いが神様(便宜上)の思いなんだろうかと想像します。

私たちは狭い度量で、幸せだの不幸だのいろいろ分けてますけど、(便宜上)神様にとっては実に実に狭い度量だなぁって感じなんでしょうね。
まさか神様がトラウマになるって事はないんですけど、こんな人類の姿を長々と見させて申し訳ないなぁと思ったりします。

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