感情と社会 28

暴力の諸相 ⑸ 男・らしさ

このテーマをめぐって思いを巡らすことは、少なくともぼくにとっては、困難を極めます。生物として、ぼくたちは生殖という機能を持っていますから、ぼくたちが sex、sexuality、gender などと名づけている何かに、すでにぼくは身体的に、またsocial に、あるいは civilize されて、もう巻き込まれてしまっています。ぼくは、1人称として「ぼく」を使っています。ぼくは男子トイレに入り、男湯に浸かり、男子更衣室を使い、学校時代には学生服を身につけ、正装にはスーツとネクタイを着用し、自治体には雄の配偶者として登録されています。自分自身の感じ方をずっと追いかけて、読書をする自分の情動それ自体をテーマにしているこの連載の中でも、「男」を取り扱うというのは、自分自身の生存と生態とにあまりにも直接関わっている感じがあって、それだけにある程度の距離を保って自分を見つめ直すのが、とても難しい。ぼく個人は、幼少期から「男らしさ」という感情には違和感しか感じてきませんでしたし、大嫌いでした。でもその一方で、自分がいろいろな社会的場面でほぼ自動的に「男」を演じていた可能性も感じています。その感じが、「男らしさ」の歴史的な「陰湿さ(のちに紹介するクロディーヌ・アロッシュのことば)」に触れるのでしょうか、自分に対する、何か自分のとても深いところに対する、言い表しようのない不快感があります。
生物としての性的機能が、ぼくたちの心性を「ア・プリオリに」決定している、という、根拠が見出せそうにない憶断は退けて、あくまでも歴史的な変動の編み合せ Verflechtung の中で、このテーマを感じ取っていきたいです。

ユーラシアの諸言語では、ヒトを表すことばは「男性」と同じです。
man、mankind、human、l’homme、uomo、gli uomini、der Mensch、человек
そして homo sapiens。古代ギリシアでも、「人間」をさすのは、「男」と同じ、άνθρωπος という単語でした。
「人間」=「男」。

これに対して、たとえば英語の woman は、語源的には、wiman、wifman などにさかのぼることばで、man に使える存在、というイメージがその源です。つまり「女性」はあくまでも「男性」の付属物でしかない、という位置づけです。
語源からしてすでに、「人間」であるということは、「男」であることとほぼ同じだったという文明が大多数であった可能性を示しています。
そしてこれが、可能性であるというよりは、少なくともヨーロッパ文化圏では歴史的な事実であることが、コルバン、ヴィガレロ、クルティーヌらのチームによる大著『男らしさの歴史』に綴られています。

フランス語には、性別としての「男」、あるいは「男性性 masculinité」のほかに、日本語なら「男らしさ」と訳すのが精一杯の virilité ということばがあります。「男」を指すラテン語の vir から派生してできたことばで、英語圏ではこれに似たニュアンスを mannliness ということばが表しています。
必ず政治的な集団を形成する人類の歴史のドキュメントとして、「男らしさ」がヒトの理想とされた時代は、古代ギリシアにまでさかのぼることができます。
『オデュッセイア』では、男には涙が禁じられています。時代がさらに下ると、アリストテレスの言う「中庸μεσοτης」が、まさに「男らしい」自己制御、「女」とは違って情動に振り回されない自制心、としてこれを引き継いでいきます。情動を露わにすることへの忌避がすでにここにあります。ローマ時代もまた同様で、自制心と自己抑制が顕彰されます。こうして「男らしさ」は、情動の影響を排除して、自己をコントロールできる強靭な精神性(と筋肉性)として、美徳 virtue に祭り上げられていきます。virtue の語源はvirtus、そのまま、「男らしさ」です。少なくともロシアを含めたユーラシア地域では、「男らしさ」が、人類の社会的な仕組み、それは支配を旨とする政治的な仕組みですが、集団を律しようという欲望の仕組みにとって、基礎となり規範となってきたことが窺われます。それは、女性を一方的に抑圧し、男性は男性でお互いに抑圧し合うという暴力装置です。
「父系制に由来する支配は、部族社会においても、封建制においても、アンシャンレジームと絶対王政のもとでも働いており、さらには、民主主義社会の到来とともにさまざまな条件が平等化されていくそのさなかでさえ働いている。…どの歴史的時代をとっても、男らしさ virilité は力の同義語である。」(『男らしさの歴史』Ⅲ 、p.30、クロディーヌ・アロッシュ)
筋力という物理的な力の行使を範型とした「男らしさ」が、集団の支配を支えていて、それは現在に至るまでほとんど形を変えていません。それどころか、アロッシュはエリアス・カネッティの『群衆と権力』を援用しながら、「男性的結束のきわめてアルカイックな形態」が、連綿として引き継がれていると指摘します。
「歴史現象の基底にアルカイックな支配的モデルが存在していることは忘却される—あるいは、こちらの方がありそうだが、抑圧される」(『男らしさの歴史』Ⅲ 、p.41、クロディーヌ・アロッシュ)

情動に対しての敵意を露わにしていたデカルトに代表される、合理性に対する無反省な信頼、並行して現れる情動の抑圧。そのイメージと手に手をとって育っていった個人主義、人権主義、民主主義。個人主義は、のちにアメリカの tough guy(アメリカンヒーローはそのわかりやすい illustrationです)や、良識ある市民の模範となったパワーエリートにまで展開していく、自分の始末は自分でつける、という力の盲信とその代償としての孤立感(菅さんなら自助と呼ぶものでしょう)を、その中核に抱え込んでいます。人権として発明された人間観は、長らく、節度と名誉を重んじる知的な「男性」のみに許される特権でした。そして民主主義。あからさまなのは、民主主義的な政治運営が始まっても、長い間、女性には参政権がなかったこと。これは「男らしさ」の強力な支配を雄弁に物語ります。「男らしさ」に頼る人々は、不承不承、つい最近になってやっと、女性の参政権を認めるに至りました。スイス全土で女性の参政権が認められたのは、やっと1991年になってからです。
女性の社会進出、政治進出はめざましいではないか、という声も昨今聞こえますが、首相になった当初はラフな服装だったメルケルが、周囲の声に押されてスーツを着るようになったというのは、非常に象徴的です。会社のトップ、政治家、どの女性もほぼ横並びに、「男らしさ」の体現であるスーツを着込んで、「男らしい」、断固としたリーダーシップを演じます。性別を飛び越えて、「男らしさ」は社会的な範型として猖獗を極めています。
「男らしさは男性支配の記憶の中心的要素である。男性支配は男らしさの支配に等しい。もちろん、それに限定されるわけではないが。というのも、身体的な男らしさを欠いた男の場合でも、支配は行使されうるからである。その男が心理的に男らしくあり、他の男たちの身体的男らしさをおのれのために用いるすべを知っていれば、それで十分なのだ。」(『男らしさの歴史』Ⅲ 、pp.31-2、クロディーヌ・アロッシュ)

「男らしさ」を支配の武器とする、いえ、支配という欲望を「男らしさ」を押し出して実現しようとする人々の歴史があまりにも長く、またその範囲があまりにも広いために、「男らしさ」、そして「男らしさ」の欠如あるいは陰画としてだけ定義される「女らしさ」が、ぼくたちの心の奥底にまで、染み込みすぎています。それはぼくたちの自我形成の最も根源的な要素に成り果てています。そのために、ぼくたちは「男らしさ」も「女らしさ」も、受け入れるよりもはるかに悪い状況、つまりほとんど何も意識できない状況に、おそらくすでに数千年以上、置かれたままでいます。そのために、「男らしさ」を問題視し、告発するあらゆる研究分野には、いまだに、誇張なんじゃないか、妄想なんじゃないか、神経質すぎる、などの感情が向けられることが多いのです。最初に告白したとおり、ぼく自身もまた、このテーマに向き合う自分の中に、何か大きな抵抗感、大きな不快感が漂っていることを感じています。しかしこの居心地の悪さは、テーマ設定の誤り、歴史の誤ったイメージなどに由来するものではありません。居心地が悪いと、感情的に反応する以外にないほど、ぼくたち、少なくとも「男らしさ」「女らしさ」を全面的に拒絶してはいない「男性」と「女性」に、「男らしさ」というグロテスクで暴力的な virtue が浸透しきっていることを示しているのです。抑圧が自然状態と感じられるほどに「陰湿」に。
「多くの場所で後退したとはいえ、男性支配は続いており、調停が全体的に衰退しているため、その支配はまさしく陰湿な形態のもとで進化さえしているのである。」(『男らしさの歴史』Ⅲ 、p.32、クロディーヌ・アロッシュ)

人権の尊重、民主主義制の定着、男女格差の(遅々として進まないものの)ある程度の是正などに覆い隠されて、支配という欲望を実現する装置としての政治が、貨幣経済と同様に、ぼくたちの日常の根幹をあまりにも深々と規定してしまっています。「男らしさ」「女らしさ」という暴力装置は、はびこりすぎ、目立たなすぎて、陰湿に、ひっそりと、しかしねっとりと、ぼくたちに寄り添ったままです。

「男らしさ」である virtue には、ぼくたちがまさに「美徳」あるいは称賛すべき「能力」であると信じて疑わないものがぎっしり詰まっています。
「男性的であることはいくつかの能力によって表現されるだろう。たとえば命令し合理的決断を下せるかどうかということであるが、こうした能力は権力を行使するためには必要だとみなされているのだ。また男らしさはいくつかの性向をとおしてもあらわれてくるだろう。すなわち、自己制御、強靭、忍耐。」(『男らしさの歴史』Ⅲ 、p.30、クロディーヌ・アロッシュ)
身体能力の高さ。それは戦闘と、力の誇示で他者を屈服させる欲求という根元から、やがて20世紀にはスポーツとして葉を生やしましたが、その偽装あるいは擬態はそう長続きもしないようで、e-スポーツはまたもや殺戮ゲームに先祖返りをしつつあり、主にアメリカ発の大衆娯楽映画もまた、実際に殺戮を行うヒーローたちが跋扈しています。
自己管理能力。これもまた戦闘場面で要求される暴力の最大化が目的だったものですが、今では企業「戦士」の美徳 virtue として定着しています。経済的な戦闘場面でもまた、知的な分析力、恐怖に打ち勝つだけの忍耐心、戦闘に打ち勝つための肉体的、心理的強靭さなどが要求されます。「知」がすでに暴力装置であることは、以前お話ししましたが、その暴力性は「男らしさ」という暴力にもまた、故郷を持っているのです。恐怖の克服、平常心を保つなどの virtue は、情動への嫌悪(これには、情動の担い手という役割を押しつけられた「女らしさ」に対する侮辱も含まれています)という憎悪感情にその源があります。情動の嫌悪という感情については、また章をあらためて考えてみます。

「男らしさ」というアルカイックなイメージに端を発していると思われるこうした virtue は、他者を管理し、他者を操縦し、他者を自分の欲求満足のために組織化して利用するという社会行動、つまり政治が露骨にその怪物的な姿を持って現れる、暴力という感情の独壇場となっています。
19世紀、植民地戦争時代のフランス。
「征服地のアルジェリアにおいて男であるというのは、すぐわかるように、「いかなる打撃を受けても平然としていられる」こと、「自らを鍛える」こと、どんなに極端で動揺の大きい状況においても完璧に「自己を制御」できることなのであり、また、戦争当初からまかり通っているように、人種のヒエラルキーや倫理的相対主義に応じて、行われていることがたいしたものではないかのようにしてしまえることでもある」(『男らしさの歴史』Ⅱ、p.453、クリステル・タロー)
自己疎外的な生育環境に由来すると思われる、自分の情動からのこうした解離は、その暴力性が隠蔽されたまま、「男らしい」姿として、(もちろん「女性」も含めた)ぼくたちの社会行動の大半を規定するに至っています。

「男らしさ」のおぞましさは、とりわけそれを希求するヒトの性的な行動に、直に現れます。フランスの「リベルタン」に端を発する、19世紀の有名「男性」作家や「男性」文化人の数多くは、日記や書簡に赤裸々に語られるように、自らの性交の回数、性交をした女性の数、自分の「精力」の強さ、女性をどう「征服」したかの詳細などを、臆面もなく語り、愛人や売春婦などについても頻繁に情報交換をしたり、斡旋をしたりしていました。この歴史的な文脈の中では、「リベルタン」の代名詞のように思われているサドでさえ、かすんで見えるほどです。彼はおそらく誰の目から見ても「病んで」いましたが、他の文化人たちは、フランス文化の精華として、その輝きを失っていない「健常」な人々とみなされています。一方、同じ時代の女性の文化人たちには、このような、他者を性的に征服、あるいは制圧することへの誇りという記述は、ほぼ見つかることがありません。
「性の解放」がかなり進んだと言われる現代でも、この非対称にはほとんど変化がありません。現在に至るまで、「男らしさ」は女「性」を単なる objet 道具として扱うという virtue を手放す気配がありません。性的な放縦さ、性的な暴力性は今でもなお、「男らしさ」の徳のカタログに、大きな位置を占めたままです。
戦場では、男の兵士が民間人の女性を強姦して殺害するというのは現在でもなお常態となっています。これは戦闘における「男らしさ」、<敵>に対する制圧行為の一部なのです。これに対して、女性兵士が民間人の男性を大量に強姦して惨殺するという話は(メディアがそれを取り上げないという理由ではないでしょう)ほとんど、あるいはまったく、聞いたことがありません。「男らしさ」を身につけた女性兵士たちが、やがてそうした行為に至らないことを祈るしかありません。
性行動に現れる非対称は、ぼくたちの社会の何たるかを、つまりぼくたちの社会が「男らしさ」と名づけることができる暴力性という感情によって、大きく規定されていることを、如実に伝えています。

世界中で大変好まれている軍事パレードでは、「男らしい」兵士たちの集団は、没個性的な表情と服装で、ありとあらゆる筋肉をあらん限りこわばらせて、規則的に脈動する機械的で不自然な歩行を行います。それはきっと、あの「男らしい」不随意な勃起と射精を見事に制圧して象徴化した自己の姿なのでしょう。彼らの「任務」は、強靭な身体を持ち、不屈で、自制心に溢れ、自己の情動を抑圧する欲求を持ち、そうやって自己を放棄して統制の取れた集団の一部になることを自発的に望んで、暴力の極大化を他者から賛美されることを熱望して、他者を陵辱し、強姦し、殺害することです。

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