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「人生に起きる事は全て自分の責任である」。頭ではそう分かっていても、腹の底からそのように信じるのは正直かなり難しい。でも、それを真にできる人だけが幸せになれるのだ。

■この世で人生において起きる出来事の全ては自分に責任がある
 成功哲学、引き寄せの法則、スピリチュアル――そういったものでよく言われている。
 「この世で人生において起きる出来事の全ては自分に責任がある」と。
 まあ、それを頭では分かってはいたとしても、それを納得して 自分の 腹の底に落とし込む――というのは正直かなり難しい。
 例えばどの親元に生まれてくるのか。
 これ「自分に責任がある」――と、はたして言えるだろうか 。
 まあ、私も色々な本を読んだのだが、人間というのは生まれてくるにあたっては、自分の魂に最も修行となる環境を選んで生まれてくるらしい。
 なので、修行になるということだから、ある意味、自分にとってこう、何らかの試練、厳しいもの、そういったものがある、そういったところに、人間は生まれてくるというのだ。
 だから今、
「自分が何でこんな家庭に」
「なんでこんな親元に」
「なんでこの国に」
「なんでこんな地域に」
「なんでこんな所に生まれてきんだ!」
と言いたかったとしても、それは実は、自分があの世からこの世に生まれ出てくる時に、自ら選んで生まれてきたのだ――ということのようだ。

■とは言ってもなかなかそれを「そうかまあ自分で選んだからしょうがないな」という風に納得させるっていうのは結構厳しい
 例えば 貧しい環境に生まれて
「ああ、よかった。貧しい環境に生まれることができた。これで自分はすごく修行ができるなあ、うれしいなあ」
と思う人は、まず居ないだろう。

 ま、ただ、貧しさから這い上がって成功する、お金持ちになる――という体験を積むことで、それが自分の魂の修行になって、自分が磨かれる、自分の魂がレベルアップする――そういったことにはなるんだろうが。
 ただ、やっぱり、
「しなくていい苦労はしなくていいかな」
っていう思いはある。
 私自身 そんなに 裕福な家庭に育ったわけではない。
 というかむしろ貧しい家庭に生まれていた。
 私の両親も、何て言うんだろう、どっちかといえば、人間性にちょっと課題がある人たちで、世間でよく言われる素敵なお父さんお母さん、感謝したくなるような親――ではなかった。

■学級で電話が無かったのは我が家だけ
 例えば私が小学生だった昭和の頃の話だが、家庭に固定電話が無い家――、それ、クラスで自分の家だけだった。
 当時は、令和の今とは違い、個人情報に対する意識が全然低い時代だった。
 児童に配られる学級名簿には、住所、氏名、電話番号、両親の名前などが、ばっちり書かれていたのだ。
 だから、私の家に電話が無いことは、皆に直ぐに分かってしまった。
 また、ひとり親の児童や、施設に入っている児童も、一目瞭然。
 今、学校がこんなの児童に配ったら超大問題である。

■食べる物、着る物に困っていたわけではなかったけれど
 私の家にだけ固定電話が無かったというのは、やっぱりちょっとなんかかっこ悪いし惨めだなと思ったものだ。
 私の家は、「食うや食わずで 明日食べるものにも困る。着る物も無い」―― そういったレベルの貧しさではなかったんだけれども、まあ電話は無かったし、また、夏休みなってどこかに出かけられるかというと、それも無く、親はどこにも連れていってくれなかったから、夏休み中ずっと自分の家にいた。
 しょうがないから、自分1人でどっか遊びに行ったりとか、そういう暮らしだった。
 で、夏休み明けに「 夏休みの思い出」みたいなものを学級で発表する――、そういうのがあるんだが、あるあるで、みんな必ずどっかへ出かけたこと、「どこどこへ行きました」「旅行に行きました」みたいな、家族とどこかへ言ったことを発表する。
 しかし、自分だけ家族でどこにも行っていないものだから話すネタに困ったものだった。
 したかがないから、自分はみんなとは違って家族旅行話とは違うけども、夏休み中ちょっと自転車で一人で出かけた日があって迷子になった時の話を、おもしろおかしく話したのだった。
 結果、みんな家族旅行話の中、一人だけ毛色の違う話だったので、それはそれで先生にほめられたりはしたんだが、
「なんで自分の家はどこも行かないんだろうな」
「お金がない家で嫌だなあ」
と思ったものである。

■貧しい家に生まれてきたのも自分で選んだこと
 まあでもこれも、「スピリチュアル的に」というか、「引き寄せの法則的に」と言うか、それは全て自分でこういう家、こういう親を自分で選んでこの世に生まれてきたということなのである。
 そんな決断は現世に出てくる時にすっかり忘れてしまっているのだが、自分で決めたことなのであれば、それはまあ仕方ないというか受け容れるしかないのかなというふうに思う。
 ただ、人生における出来事全て自分に責任がある--というのはなかなか子供にとってはハードな酷な話かなとは感じる。

■高校受験失敗も自分で決めた修行の機会だったのか
 私は高校受験に失敗している。
 第1志望校に落ち、すべり止めの高校にはお金を納めていなかったので、どこも高校行くところが無くなり、1年間中学浪人をすることになった。
(ちなみに、高校受験のための浪人は中学浪人なのに、大学受験のための浪人は大学浪人と呼ぶという謎があるが、本題ではないのでここではふれない)
 中学浪人対象の予備校に通って1年間勉強し、幸い次の年には何とか志望校に受かることができたんだけれども、あれも修行だったんだろうか。
 還暦の今になっても思うのだが、60代の1年間と10代の1年間って、人生における1年の価値が全然違う。
「あの10代の1年間を、中学浪人で勉強に費やしてしまって、ホント、修行になってたのかな、何かもったいなかったな」
というふうにしか私は思えていない。
 そもそも、1年目の高校受験失敗した時と、2年目の幸いにして高校合格した時とで、そんなに出来に差があったとも感じないのだ。
 そうなると、それって運って言うか、敢えて言うならそういう人生の理不尽さを味わうための体験だったのかな思ったりもする。

■校長昇任試験失敗も自分で決めた修行の機会だったのか
 私は校長になる時の校長試験も1回で受かっていない。
 受かった時はそれなりに出来映えに手応えがあったので幸いにして受かることができたんだけど、それまでの何回か落ちた時にも、それほどひどい出来だったかなという思いがある。
 ペーパーテストにしろ面接にしろ、そういう思いがあり、ほんとこれ、高校受験の時と同じように運というか、そういうものだったのかなという気がする。
 10代での受験失敗にも、大人になってからのそういう職業上の昇進試験失敗にも、なんかちょっと、いや、かなり、理不尽なものがあるな――っていうのを修行で体得するために、そういった経験を自分はするのかな、それが魂の修行なのかなと、思ったりもするんだが、果たしてそういうものなのだろうか。

■病気も人生の修行なのか
 それから病気。
 人生を送る上での出来事の全てに自分に責任があるというのであれば、いわゆる生活習慣病っていうのは確かに納得はいく。
 暴飲暴食とか運動不足とか睡眠不足とか自分の体を大事にしないような生活をすることによって、体が病気になってしまうというのは、自業自得という感じはする。
 けれども、なんかこう、健康的に暮らして、いろんなことにも気をつけてるのに病気になってしまう人がいて、癌とか、なんとか病っていう珍しい難病とか、それもやっぱり、「人生に起きる全ては自分の責任」っていう範疇になるんだろうか 。
 なんかそれ、難病にかかってる人とかに
「それはあなたに責任があるんですよ」
とか、そういう話って気の毒ではないかっていう気がするんだな。
 まあ、人間っていうのは何度も生まれ変わるらしいので、例えば前世とか前前世とか、前前前世とか、そういう時にやらかしたことの報いが、今の人生、今生で起きていて、前世か前前世か前前前世かそういう時に誰かを苦しめるようなことをしたその報いが今自分に来て、自分が苦しい思いしてるとか、人に何か意地悪をしたから自分が今意地悪されているとか、過去誰かに怪我をさせたから自分が今は怪我をするはめになってるとか、そういうことがあるらしいのだが。
 そうだとすると、自分が今貧しくて、苦しい思いをしているとするのであれば、前世とか前前世とか前前前世とかでこう、自分の金持ちな時があり、その時に貧しい人に理不尽な言動をしたことが、今その報いを受けることにつながっている――そういうこともあったりするんだろうかと思ったりもする。
 こういうのはもう神様の領域なので、人間が判断してどうこう言うものではないのかもしれない。
 ただ、基本的に何か起きた時に「あいつのせいだ」「誰かのせいだ」と他人のせいにしてる人の姿っていうのは醜いなとは思う。
 なので、誰かのせいにするんじゃなく、自分に起きた出来事は全て自分に 責任がある――そういった生き方で生きる姿勢というのは、第三者から見ると潔いというか美しいものがあるので、自分もそうありたいと思うところではあるかな。

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