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雑感記録(261)

【友達≠友人】


最近だが、僕は「友達」という言葉に抵抗感を持っている。

いつだったか、きっかけは分からない。だが、こうしてnoteを付ける際に「友達」と書いた時に自分の中で違和感が生じた。だから僕はいつも「友人」という表記を主として使用している。厳密な使い分けというものはあるのだろうかと僕は思ってしまったのである。

ここから書くのはあくまで僕個人の肌感に過ぎないので、あまり信用しないで欲しいということだけは先に断っておく。

僕が思うに「友達」という時は、どこかさっぱりして冷たい印象を僕は感じる。そもそも「達」という言葉は不特定多数を指す言葉であるような印象を持っている。例えば「人たち」「子どもたち」「私たち」などである。「達」につく前の指示する語の複数形ということになるだろう。そう考えると、「友達」も「友」の複数形であるはずだ。

だから「彼は僕の友達」というのは表現として何だか違和感が僕には感じられる。そもそも「彼」と固有名詞に於いて指定している訳なのだから、「彼」は「彼」1人である訳で、「彼」は複数人存在するわけではない。あくまで「友」が複数人存在していて、「彼」は「友」のうちの1人であるに過ぎない。それなのに「友達」という複数人の括りに纏めてしまっていることが何だか僕には違和感を感じる。

正しくは「彼は僕の友達の1人」という表現になるはずだ。

あるいは「彼は僕の友人」という表現が良いのかもしれない。そうすると、「彼」というのがその不特定多数の「友」に埋もれることなく「彼」という存在そのものとして、眼前に現れる。僕が「友人」という時はその人、固有の存在として見ていることを示す。また、相手に対しての敬意としても使っている。だが、こう書いておいて何だが、わりと僕も「友達」表記をしてしまうことが時たまある。

だが、大抵そういう時というのは2パターンあって、無意識的に書いてしまうか。そして意図的に書いているかである。個人的には後者の方が多いと思っている。僕が「友達」と書く時はある程度の距離を置いている。というか厳密にはさして懇意にしている訳ではないということである。少し隔たりを感じている人を表現する場合には「友達」と書くことが多い。


さて、何でこんな話を書こうと思ったのか、それについて書こう。

ここ最近再びのマッチングアプリの話で恐縮だが、色々な人とやり取りをしている訳だ。過去の『マッチングアプリ放浪日記』シリーズは以下から参照されたし。

それで相も変わらず、僕は毎日毎日、女性のプロフィールを見ながら左右へスワイプしまくっている。結構そのプロフィールを読むのが面白い。文章には人の性格というか、そういったものが現れるのだろう。僕は写真とかよりもそっちに魅入ってしまう人間である。当然、容姿の善し悪しもあるかもしれないが、それは些か自分がブスであるということを棚にあげ過ぎている感が否めない。そこまで傲慢にはなりたくないものである。

色々読んでいると、結構面白い。本当に短い文章の人もいれば、長くこれがダメ、あれがダメとかそういったことが言葉を尽くして書かれている。自分のプロフィールについて考えるいい機会でもある。僕はわりと長めに書いてしまう。しかも、カッコつけようとしている節があって片腹痛い。だが、「文章ぐらいカッコつけさせてくれよ」という自分もいる訳で、実はどうしていいか分からない状態である。もう放置状態である。

何かヒントを得ようと色々と読むんだけれども、もうプロフィールを読むことが面白くて面白くて…。マッチしてその文章性との乖離を愉しむというのもここ最近の僕の醍醐味になってきている気がした。これは当然のことだが、文量がある方が当然に読み応えはある訳だ。色々読んでいるとその人のことが色々と知れるので面白い。というよりも、これは上から目線で大変恐縮な物言いだが、文章力に長けている人のものを読むとワクワクする。表現が面白かったりすると思わず感心し、それだけで貴重な「いいね」を送っている。何だかなとは思いつつも、こういう自分も嫌いではない。

様々なプロフィールを読んでいく中で、僕の眼によく映るフレーズとして「お友達から始められると…」みたいなものがある。大抵、年齢が下がれば下がるほどこういった「お友達スタート」みたいなフレーズを挿入する。僕は「なるほどな…」と感心しながらプロフィールを読む。確かに、若い人はある程度時間はある訳だし、若さというのは言ってしまえば武器である。それはどこの「世界」でもそうだ。「まだ時間がある」と言って様々なことに果敢に挑戦できるし、失敗しても「若さ」を盾に何でも出来るからである。ある程度年齢を重ねるとそう簡単には行かないのだ。

僕は一応年齢の設定、女性の年齢設定を±3歳の範囲で設定している。そうすると、僕が今年で28歳になるから25~31歳の間で設定している。それでもその「お友達から始められると…」というフレーズが散見されるということは、恐らくだけれども恋愛市場というものも、僕が全く以て偉そうに言えた義理ではないが変化してきているのかなとも思う。


とにかく、マッチングアプリをやっていて思うのは、これは別に悪口でも何でもないが、「1人でも生きていけるけど」という前置きが隠れているような気がしてならない。「結婚を視野に入れて」とか「真剣に出会いを求めています」と書いてある訳だが、そういうことを書いている人ほど恐らくだが1人でも生きていけるのだと思う。なぜならば、その信念を以てして1人でここまで耐え抜いたある意味で猛者なのだから、出会えなくても何とかやって行けるのではないかと僕は勝手に想像している。

また、そういう人に限って「お友達から始めて徐々に…」といったようなフレーズが多い。真剣に出会いを探しているのに「お友達」から始めるという感覚が僕には分からない。それで、僕は仮にだけれども、結婚に至るまでの関係性を少し自分の中で考えてみた。それで自分の中で辿り着いた結論として以下のようになったわけだ。

他人→知り合い→友達→友人→恋人→婚約者

こういう順序で段階を踏んでいくのかなという風に考えた。詳細については触れることはしないが、少しだけ断っておく。上記の「友達→友人」の「→」には大きな断絶があるということ。そして最も高いハードルとして現れるのが「友人→恋人」という所である。これこそ、こんなところで使っていい言葉ではないが「命がけの跳躍」である。そこだけは触れておく。

それでようやく、この話の最初に戻ってくる。


「友達」と「友人」には同じような意味合いでいて、実はかなりの差があるように思えて仕方がないのである。皆は当たり前に「コイツ?俺の友達」とかチャラい人間なんかだと、「コイツ、オレのマブダチだから」とか、もはや「友」という原型すら留めていない訳だが…。いくら「マブダチ」といえども、僕から言わせれば所詮「達」な訳で、そんなものに貴重さとか特別感とか全然感じられない。

マッチングアプリで「お友達から徐々に…」みたいな人は、まあ、これは唯の僕の考えすぎな話なんだけれども「別にお前は"お前"という固有の存在ではなくて、そういう群れの中の1匹として見るからね」と宣言されている感覚になる訳だ。真剣にやっている人が何というかそれを書いていいものなのかとも思う訳だが、まあ、別に…。僕の考えすぎな話だ。

たまに「ご友人から…」と書いてくれている人も居る。こういう時、僕は何だか安心する。「この人は自分のことを人として見てくれているんだ」とは思う。どことなくだけれども、敬意を示してくれているのかなと、ある種の優しさを僕は垣間見る。まあ、別に…。僕の考えすぎな話だ。

ただ、僕は少なくともこう思っているし、現にそういう使い分けを密かに…ってここで書いている時点で全く以て密かではない訳だが、行なっている。だからこれからはしっかり向き合いたい人には「友人」と呼ぶし、別にそんなでもないけど仲は良いみたいな人は「友達」と呼ぶだろう。ただ、それだけの話さ。

しかし、よくよく振返って見なくても、僕には「友達」と呼べる人は少ないが幸運なことに「友人」と呼べる人はわりといることに気づく。

いや、待てよ…。そもそも『僕は友達が少ない』

よしなに。

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