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雑感記録(171)

【成人星人】


先日の3連休の土日、僕は帰省していた。1月5日の金曜日の仕事後に帰ろうと思ったのだが、どうしても仕事始めは疲弊してしまった。どうせ時間はあるのだからと、翌日の1月6日に再び特急かいじに揺られながら実家へ行くこととなったのである。しかし、新年になってからというものの東京駅から甲府駅までの特急を検索しても見当たらない。何遍検索しても見当たらない。個人的には精神健康上非常によろしくない、誠に由々しき事態である。僕はきったない新宿駅からはどうしても特急に乗りたくない。それぐらいには新宿駅が嫌いである。新宿区民ではあるが。

仕方なく、都営大江戸線で新宿西口駅まで向かい、そこから新宿駅へ。ほぼ直結していると言っていいので駅外の騒がしい喧騒をすり抜けるというある種のエクササイズをしなくていいというのは運動嫌いの僕にとってはまだマシである。「まだマシ」というのは、駅から駅へ移動する場合に発生する喧騒もある訳だが、駅構内の喧騒は皆が皆止まらずに動いているのでその波に身を任せれば楽である。方向が一緒の人の後ろにシールの如く貼り付き歩いていればよいからである。とはいえ、やはり人混みによる喧騒は嫌いだし慣れない。慣れたくはないが。

何とかして特急かいじが停まるホームに着く。電車が着くまでしばらくなので、自分が乗る号車のドアの前でただ音楽を聞きながら突っ立っている。浜田省吾のプレイリストを延々と掛ける。『悲しみは雪のように』をしみじみと、冷たい風が吹きすさぶ中で集中して聞く。浜田省吾の美声に酔いしれていた。浜田省吾については前日の記録を参照されたし。

しばらく浜田省吾の美声に酔いしれていると特急かいじが現れる。僕はそそくさと乗り込み、自身の指定席に座る。


1時間40分程度、電車に揺られ甲府駅に着く。電車を降り、まずは駅構内にある喫煙所へ向かい煙草を蒸かす。対岸のホームを眺めながら煙を燻らせる。何だか今日はスーツを着た若者が多い。加えて振袖を来た女性たちが構内を闊歩している。「おや、今日は何の日だ。普通の土曜日だよな。」と思いスマホのカレンダーを開く。なるほど、もうそんな日が近いのかと思いつつも、その似つかわしくないスーツ姿の若者や振袖の女性たちを眺める。

駅から自宅へ戻る道中にも同じような若者を見掛ける。何と言うか、いつだったかの記録にもほんの少し触れたことがある。「スーツを着ている」のではなく、「スーツに着られている」姿が僕には物凄く印象的に映る。しかし、彼らは嬉しそうに歩く。何だか大人になったんだぞというような感慨を噛みしめながら和気あいあいと友人たちと語らいながら歩く姿には若々しさを感じる。

しばらくそういう若者たちの間をすり抜け、実家へ戻る。特段、実家で何かやる訳ではない。何なら翌日の予定の為に帰ってきているのであり、家に居て家族の用事があるとかそういったことでは決してない。だから正月の時のように自身の部屋で日光を浴びながらボケっとしてまどろみの中を揺蕩う。この気持ちよさは例えるなら(例える必要は微塵もないが)、電車の中で揺られながら古井由吉の作品を読み、日本語の美しさに酔いしれ気が付いたら寝落ちしている気持ちよさによく似ている。

しかし、何もしないということは難しい。生きている以上は常に身体のどこかは動いている訳で、当然に頭も働いている。それでnoteの記録は何を書こうかなと考えてみたりした。ここ最近、浜田省吾の曲を聞いていたのでそれに着いて書いてみようと思い、それは東京に戻ってきてからしたためた。それともう1つ。先程から書いているが、所謂「成人式」とやらを迎えた若者の姿を見て、「自分の時はどうだったかな…」と思いを馳せたくなった。

そこで、今回の記録は僕の成人式の記憶。大した記憶ではないのだが、それを思い返すという何ともおセンチな内容のものである。


そういえば、成人とは今では18歳からになっている。僕等の頃は(というが、18歳に引き下げになったのはつい最近の出来事ではなかったか?)20歳が成人であった訳だ。そう考えると、まあ、これは単純に僕が喫煙者であり、お酒をそれなりに嗜む人間になったからこそ考えることなのだが、今の成人たちは僕等よりも早く飲酒・喫煙が出来る様になっているということなのだ。

別にだからと言って若者の飲酒・喫煙を進めたい訳では決してない。何ならやらない事には越したことはない。それは僕が急性膵炎を患ったこともあるし、小学生の時分に祖父を肺がん(これは煙草の吸い過ぎによる肺がんである)で亡くしているからだ。それなのに!僕は!未だに!僕はそこ等の若者よりも馬鹿なのかもしれない。

よく大人になるということは「責任」が生じるということでもあると誰かが言っていたような、いないような…。つまりはこうして僕が喫煙したり飲酒したりするのも1つの「責任」である訳で、それが出来るから大人なのだ…と些か変なことを考えてみたりもする。ただの屁理屈である。それ以上でも以下でもない。

僕は今、安易に「大人なのだ」という表現をしてしまったが、そもそも「大人になる」とはどういったことなのだろうか。しばしば「大人の対応を」とか「大人らしく振舞いなさい」というように言われたりすることが、今ではそこまでは無くなったが、大学生の時分では親にこっぴどく言われたものであった。大人になってしまった(ここでは主に年齢的に歳を取ったという物理的な意味での"大人"である)今でも実は「大人になる」ということがよく分かっていない。これは人としてやばいことなのか!?

僕が成人の頃、つまりは20歳だった頃を思い返してみる。

成人の日、一応僕は地元に帰った。先日の雑感記録でも触れた中学の親友と会うために地元へ帰ったのである。

別に僕は所謂「成人式」なぞに出るつもりは微塵も無かった。「成人式」となると市区町村単位で行われるので、大抵会う人たちというのは小学生や中学生の友人である。しかし、僕は小学生の頃の記憶なぞは人生で1番もみ消したい過去である。わざわざそんな場所へ赴いて、自ら消したい過去をぶり返す必要も無い。それにそもそも僕は、自分で言うのもなんだが狭く深く付き合うタイプの人間なので、別に会いたいと思っている人には既にこちらから連絡して会っているので「成人式」で会う必要がそもそもない。

結局僕は「成人式」には行かなかった。親友の車に朝から乗り、他の友人を乗せ一応は会場に行ったものの僕は車から降りなかった。その後、戻って来た親友と一緒に『傷物語』の映画を見に行ったのである。雪が舞う、どんよりした空気を僕は鮮明に覚えている。セブンイレブンで温かい飲み物を買い映画館に向かったのはいい思い出だ。

その親友は「成人式」は出ないものの、中学の同窓会には参加するとのことであった。僕は当然の如く不参加であるので自宅で家族みんなでお祝いすることとなった。この時は兄貴の今の奥さんはまだ彼女だった訳だが、一緒にお祝いしてくれたことをよく覚えている。え、待って。そう考えると僕の兄貴と義姉は6年ぐらい付き合ってたことになるの?…うわ…時の流れを感じる…。

夜。雪はしんしんと降り積もっていた。

温かい炬燵でぬくぬくしながらお酒を飲んでいると親友から1本の電話。「この後、2次会の予定だったんだけど雪で無くなったわ。一応伝えとくわ。」流石だ。親友は僕のことをよく熟知している。恐らくだけれども、2次会なら僕が嫌いな人が居ないから誘ってくれたのだろう。いつも一緒に帰宅していたメンツだけで飲みに行くという話にでもなったのだろう。それで声を掛けてくれたのだと思う。僕は1人その優しさと気を遣わせてしまった申し訳なさでいっぱいになる。

友人には折返しの電話をする。電話をくれたことのお礼、気を遣わせてしまったことへの謝罪、足元悪いから気を付けて帰れよ。そういった内容の話をした。そうしてしばし同窓会の話を聞いて、「そうなんだ」と相槌をうちながら彼の話を聞く。愉しそうに話すので何よりだと僕は思った。ただ、少し複雑な心持になったことは言うまでもない。

翌日、僕は東京へ。その後、元の大学生活へ戻った。


後日談がある。実は同じ週に小学生の同窓会があったらしい。小学生の時に埋めたタイムカプセル?みたいなものを開けるとかいうイベントがあったらしい。ここで僕が「らしい」と書くということはつまり、僕はそもそも小学生の同窓会に誘われていない訳である。別に僕は行きたいとは微塵も思わないが、声を掛けてくれるくらいいいだろうとは思った。人として?というかそれこそ「大人として」なのか、対応して欲しかったなとは思う。

ちなみに言うと、一応僕は小学生の時に児童会長なぞというものをしていた。今思えば、随分と自分に似つかわしくないことをやっているなとは思うし、嫌いな小学校でよくもまあそんな大それたことをと思うとゾッとする。まあ、だから何だという話ではあるのだが、元々そういう立場に居た人間が誘われないということはつまりそう言うことなのである。

それで、僕が東京に戻った後、小学生の時のクラスメイト数人が自宅に僕のタイムカプセルを届けに来たらしい。母親が対応してくれた。母親も僕が小学生の記憶は消し去りたいことは知っているし、母親自身もあまり僕の小学生時代は好きではないらしかった。とりあえず母親に僕のタイムカプセルを渡して彼らは帰って行ったらしい。

母親からLINEが来る。

内容としてはこうだ。「タイムカプセルは受け取った。それで『同窓会あったんだね。うちの息子は知らなかったよ。』と伝えたら『え、連絡したけど…』みたいな反応されたけど…」というようなものだった。僕は腸が煮えくり返った。ただ、母親に「そんなんじゃねーよ」と怒りをぶつけたところでどうにかなるものでもない。ここはグッとこらえて「それはすまん。助かった。」と一言だけLINEを返した。

何だかこういう書き方をしてしまうと、僕が「成人式」に未練があるみたいな印象を受けるが、正直なところを言えばその通りである。少しぐらいは未練はある。会いたい奴だっていた。でも、それ以上に会いたくない奴らが多すぎたということがある。

もし所謂「大人な対応」が出来ていたのなら。その「成人式」や「同窓会」とやらに嫌々参加することが正解だったのか?自分の心に反してまで嫌な思いをしてまで行くことが「大人な対応」なのかと考えた時、僕は猛烈に大人なぞにはなりたくないと思ってしまったのである。我慢すること、辛抱すること、それが「大人になる」ということなのだろうか。


話は大分飛ぶが、最近YouTubeなんかで活躍する人を見ていると自分よりも年下の人々が活躍している。加えてまだ成人していないある種、まだ少年少女のような人たちが活躍している。そういった様子を見ると僕はいつも「子供だな」と自分自身に対して思ってしまう。自分よりも大人びて見えるのである。

どうしてだろうと考えてみる。

きっとだが、これは経験による賜物なんではないかと思う。彼らは僕なんかよりも小さい頃から苦しい思いや辛い思いを一杯経験してきて、それが彼らを構成している。つまりは、どんな陳腐な内容を投稿しているYouTuberでさえ、そこに至るまでに様々な苦労を経験しているのである。

ところが、僕はそういうところから逃避してきた訳だ。逃げてきた。嫌だから、苦手だからという理由で避け続けてここまで来てしまった。好きなことしかやりたくないという一種の甘えの状態の中で生きてきてしまったことの何よりの証左ではないかと今では思われて仕方がない。それか中途半端に生きてきてしまったツケの精算みたいな感じなのだろうか。

もし、僕があの時「成人式」や「同窓会」に嫌々でも行っていたなら、今の生活は少しでも変わっただろうか。もし、僕が自分の気持ちを押し殺して我慢できていたならもう少し「大人びた」人間になれたのだろうか。そんなこと今更考えたところでどうにかなるような問題では決してないが、そういうことを少なくとも街中の新成人たちを見て感じてしまったのである。

最近は僕もそれなりに大人になった(?)はずなので、そういう集まりに誘われた時はすぐさま「行かない」と言わず、一呼吸おいてから返答できるようにはなった。それでも、やはり行きたくないという気持ちは強い。僕はやっぱり僕に良くしてくれる人の為に生きたいし、何かをしてあげたいと思うから、そんなところに労力を割けられないというのもある。

年齢を重ねていくと、人間に残されるのは死のみである。僕等は死に向かって生きている。そう考えると自分の貴重な時間を、自分が嫌な思いをする物事、我慢し続ける物事に時間を割くことが無意味に思えて仕方がない。無論、それが人生に於いて無駄ではなく実は意外と重要であるということは百も承知の上ではあるが、僕にはそんな生き方は出来ない。

僕は一生子どものままでいいと思い始めている。


やっぱり、ここまで色々書いてきたけど、「成人式」や「同窓会」に参加しなくて良かったなと思う。それはそういう僕でも少なくとも個人的に会おうと言ってくれる数少ない友人がそれでもいるからだ。だから、そういう人たちだけでも幸せに出来る様に邁進していきたいと最近では思うようになった。

僕は僕に深く関わってくれている人を幸せにしたい。

ただそれだけなのだ。いい迷惑かもしれないが。

許してほしい。

そんな「成人式」のおセンチな回想録。

よしなに。

今日の戦利品。なんか澤口書店に通いすぎて「いつもありがとうございます」と言われるぐらいにはなった。嬉しい。


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