見出し画像

雑感記録(228)

【作者信者に御用心】


今日は思い切り肩の力を抜いて書こうと思う。だから予め断っておくが、あまり参考にしない方が良い。自分でも何を書き出すか分かったものではないから、その確かさなんぞは保証できない。誰かの一興になればそれでいい。

最近、とまあここ数週間にわたり、自分の中で「マッチングアプリ」シリーズと題して、マッチングアプリ放浪日記を付けている。中には嫌な経験に腹を立てて書いてみたり、片腹痛い人との出会いだったり、まあ種々雑多に書かせてもらっている訳だ。色々と書いている訳だが、こうして面倒くさい僕と関わってくれたのだから感謝している。

それで、今日もそういった関係の話である。というよりも、実際にマッチしてとかいう話ではなくて、「最近こういう人いるな~」というただそれだけの話である。そこから敷衍してこの記録のタイトルに繋げて行きたいと思う。


僕はマッチングアプリの中ではnoteのような感じでプロフィールを作成している。つまりは「読書スキ!映画スキ!美術スキ!音楽スキ!散歩スキ!」みたいな感じで書いている。趣味ゴリゴリにしている訳だ。言葉に僕は絶大の信頼を置いている訳では決してないが、最初に読まれるのはこの部分な訳だ。ある程度は取り繕わなければマッチするものもマッチ出来なくなってしまうので、それなりに文量を割いて書いている。しかし、書くことは好きだが「自分をアピールする文章」を書くというのは骨が折れる作業である。

その趣味カード?というのか、もう彼是何年も使用しているが名称をハッキリ覚えていないのだが、それも趣味全開で登録している。中にはライフスタイルやら価値観やらのカードも登録できる訳だが、あまり僕はそのジャンルでは登録していない。これを結構登録するとお相手との相性というか共通点が増え、マッチの確立が上がるらしい。実際そんなことは無くて、せいぜい会話のネタになるぐらいだけの話で合って、結局は自身の力量に委ねられる訳である。

それで馬鹿の1つ覚えみたいに相も変わらず右にスワイプ、スワイプを繰り返す。気になる人はプロフィールを読むんだけど、それ以外はほぼ機械作業。それで、気になる人のプロフィールを読んでいく訳だ。大概目に留まるのは趣味が同じである人。つまりは読書が好きで、美術が好きで、映画が好きで…みたいな方たちばかりだ。それはそうだ。だって自身のプロフィールにも趣味カードもそればかりなのだから。

そんな中でふと違うベクトルで気になる方が居た。

プロフィールを上から順に見ていく。すると「○○という作家が大好きです」と書いてある。まあ、ここまでは分かる。僕も文学を学ぶ身としてね、好きな作家は居る訳だし。だが、その次に並ぶ文言に僕は衝撃を受けた訳だ。記憶が定かではないので正確な文言は忘れてしまったが、確かこんなような内容だったと記憶している。

「その作家の人生や生き方が大好きです。作家の人柄が好きです。」

僕は思わずスクロールする手が固まった。いやいや。待て待て。何かこれやばくないか?と恐怖を感じた訳だ。それと傲慢さとでも言うのかな。僕は本当に「あ、この人やばいわ…」と心の底から感じたのである。別にその人が何を信じようが関係ないし、何を好きであろうが僕にとっては正直1ミリも関係ないっちゃ関係ない。しかしだ、やはり文学をやっている身としてはこれは見過ごせない。看過できない事態である。

ということで、今日はこの問題について延々とくだらぬことを書いていこうと思う。所謂「作者信仰心」問題。


まず、先に断っておきたいんだけれども、僕は別にそういう人たちを排除しようとか弾劾しようなんて気は全く以て、1ミリもないのね。先にも書いたけど、別にそういう人が居たっていい訳だ。それでその人の人生が豊かになってるんであれば、僕にはどうでもいい問題だ。ただ、やはりどうしても気になってしまうのだ。気になって気になって仕方がない。僕は作者信仰というものがどうも苦手である。

まず冷静になって考えて欲しいのだが、これは当たり前の話だが、僕らは作者を知りはしない。その心の裡全てが全てを見通せる訳では決してないのである。自分と言う存在ですらも難しいというのに、作者の心の裡など尚のこと分かる訳がないだろう。それは少し傲慢ではないかと僕は思うのである。とこうして書くとテクスト論者みたいな感じがしなくもないが、僕はテクスト論に全幅の信頼を全く以て寄せていないこともまた事実である。

ただ、少なくともフラットな目線で考えた時に、僕らの前にあるのは作品であって、作者その物ではない。あとは単純にだが、僕自身作品に作者の気持ちが表れているというのは嘘だと思っている。言葉は幾らでも人を欺ける。その気持ちを取り繕うことだって出来るし、そもそも言葉を使用している時点で置き換え作業になる訳だから、その純な意味での気持ちは本来的に表現不可能であると考えているからだ。僕等の眼前にあるのはただ作品のみである。

少なくとも僕はそう考えている人間なので、僕は作者とは分かり合えないと思っている。その分かり合えないというのは根本的な部分で。つまり、そこに在るのはあくまで微かな作者の残滓な訳でそれがそのまま作品自体としてそれの全体を表すものではない。仮にその作者の傍に居て、例えば長年来の友人とか幼馴染とかだったらまだ作品を読んでその作者の気持ちや考えを分かることは出来るかもしれない。しかし、全く以て接点のない僕らがせいぜい作品を読んだだけで「作者の気持ちが分かる」「作者の人柄が好きで」って何だか気持ち悪い。

これは小説がベースで書いているから少々分かりにくいかもしれないだろうが、そうだな…いい例えがあればいいんだけども…。こうかな。「足首に浸るまでしか海に浸かっていないのに『俺は海の全てを知った』と豪語する」ようなものなのかな。作品でしか知りえないのに、その作者の背景や気持ちまで分かってしまうみたいな。……いや、何か違う気がするな…。

色々な作品がある訳で、好きならば当然に作品を網羅する訳でしょう。全部が全部読めなかったとしても、あらかたその好きな作家の本を読むのは大切なことでしょう。まあ、それぐらいはして当然だよね。まさか1冊だけ読んで「好きだ」って言っていたらそれはその作品が好きなだけであって…。まあ、今はそのことは置いておくが、とにかくだ。その好きな作家に対する数多くの文献あるいは映像作品なんかでもいい。そういったものには目を通す訳だ。

そういう中で共通する何かを見ていく中で、「例えばこの作家にはこういう特徴があって…」みたいな形で抽出したその最終結果が「きっと、この作者はこういう人間性だ!」というテマティスムだったら僕はまだ分かるんだ。いきなり「作者はこういう人間だ!」なんて言われても、ただ目が点になるだけである。何だか蓮實信者みたいで物凄く嫌だな…。


あと気になるのは「人生」と「人柄」っていう言葉を使っている。あれは何だか気持ち悪い。半ばストーカーのそれではないか。人生は概観的に捉えることは可能だ。例えば昔の作家なら尚更だが、新潮日本文学アルバムなどというものもあるし、全集もあるし、それに自身の自伝や日記まで読めるのだ。彼ら作家の人生を形而上学的に捉えるのは簡単だ。だが、その内実を僕らが捉えることは不可能に等しい。いくら作家が自伝や日記で「この時はこう思っていた」と書いていても、じゃあ今は?って聞かれたら彼らはどう答えるだろう。

これも例を挙げると、中野重治なんかそうだ。最初『春さきの風』という小説を書いた時に、その後雑誌で「この作品はあまり良く書けた方じゃないんだな」と反省していた。ところがそれからかなりの時間が経ち、晩年頃になってくるとエッセー集で「いやあ~、あれはね、実に良い作品だったよ。ああいう作品が書けると良かったな」とか言っちゃうんだ。これはかなり時間が隔たっている訳で、当然に年齢を重ねたことによる経験の積み重ねにより考えも変わる。つまりは人間の思考、はたまた人間存在というもの自体が流動的なものなのである。

こういう「作者の人生が…」とか「作者の人柄が…」と言ってしまうと固定的に作品を捉えてしまうような気がしてならない。そもそも人間という生き物自体が固定的ではなく流動的なのにも関わらずだ。それは何だか良くない気がしている。別にお前らが作者の人生語れる訳無いだろ。結局僕らは外観だけ見て全てを知った気になって仰々しく「この人の人柄が…」とか「この人の人生が…」とか訳の分からないことを口走ってしまうのである。固定的な作者を想定して満足するのはその人だけで、別に必要としていなければ箸にも棒にも触れない。

でも、これって人との関係にも同じことが言えるような気がしている。

例えばだけれども、誰か好きになったとするじゃない。何でもいいよ。彼氏でもいいし推しのアイドルでもいいし。何某のきっかけがあって好きになる訳だよね。まあ、そんな理由は置いておくとして。例えば。街中にゴミが落ちていた。それを彼氏あるいは推しのアイドルが拾っているのを見た。別の日、駅で困っているおばあちゃんを助けるのを見た。はたまた別の日、お店の店員さんに凄く優しくしている光景を見た。まあ連日そういう光景を見たと仮定する。それで友達とお茶をした時、「そういえば彼氏って(あるいは推しのアイドル)ってどんな感じ?」と聞かれた時にどう答えるか?当然最近、彼氏あるいは推しのアイドルが日々の行動を伝える。「こういう人柄でさ~。凄く優しいんだよ~。心がきれいなんだよ。」と。そうすると友人は「それはどうかな?」と返す。

つまり、僕らはたった1場面のみ、1つの側面だけを見て「この人はこういう人だ」と決めつけてしまう傾向にある訳だ。それが先にも書いた『人は見た目が9割』じゃないけど、たったそんな中身の無いことでしか標定しえない。本当に心が綺麗なこともあるかもしれないが、もしかしたら誰かに良く見られたくて打算的にやっているかもしれない。もしかしたら、何かそこには隠された利益があってやっているかもしれない。もしかしたら本当に何も考えずに行動しているかもしれない。可能性は幾らでも考えられるがその人の行動の奥底に眠っている物を看取するなど不可能に等しい。

これも苦しい所ではあるが、僕らはどう頑張ってもその外化する行動様式などでしか判断できない。あるいは言動でしか判断できない。その人が本当に何の気なしに良い事をしていたとしても、その背後関係は分からない。その人と同じ環境を過ごしてきた訳ではないし、同じ考え方を持っているとは言えないからだ。要は自分の中で理想的且つ固定的な人物像を必要としている。これに過ぎないということなのだろう。


凄く長くなってしまったのだけれどもね、要するに僕が言いたいことは纏めるとこうなる。
・作者を信仰すること=作者の流動性を潰す(作品の読みを限定)。
・作品だけで作者の内面は語れない。
・把握できるのは事実と結果(その時の気持ちも流動的)。

まあ、ざっとこんな所だろう。これをマッチングアプリにあてはめてみるとこういうことになるのではないだろうか。

作者を信仰する。作者の人生が好き。人柄が好き。これは結局のところ表面しか見ていないことになる。テクストに書かれた言葉を言葉通りに受け取る。しかし、その背後に存在している物は都合が悪いので見ない。もしかしたらこの人に好かれたら、あるいは好きな人が出来たら表面上で滑るようなコミュニケーションになりそうな気がする。多分ね、僕の想像だけれども、スムーズなコミュニケーションは出来るはず。だけれども、中身に乏しい会話しか出来ないのかもしれないと勝手に想像してしまう。

僕はそういう危惧を抱いてしまった。

だが、ここまで延々と書いてみて思ったが、それはそれでアリなのかとも思う。仮に年がら年中ずっと重いコミュニケーション取っていたら疲れるだろうし、時には肩の力を抜いて話したいことだってある訳なのだから、こういう人たちも必要である。…と偉そうに書けた義理は1ミリもないのだけれどもね…。

言ってしまえば僕だってある意味で「作者信者」だ。本を選ぶ際には作者で選ぶことが殆どである。古本屋でその作家の名前を見つけたら購入する。またその作家の作品の中で取り上げられていた作家の作品を購入する。そう考えるとそこからあまり広がっていかない。結局僕も「作者信者」であることは間違いのない事実である。しかしだ。だからと言ってこの作品が書かれたときの作者の気持ちはとか、作品全体を読んで「この人はきっとこういう人柄で」「この人の人生は素晴らしい」とは考えたことは無い。


なんだか疲れてしまったので今日はここまでにしよう。

駄文失礼。よしなに。










この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?