見出し画像

雑感記録(260)

【朗読のススメ】


この間、夜中に僕はお酒の勢いで、谷川俊太郎『愛について』という詩集を朗読した。これは前の記録でも書いているが、僕の密かな(ここで書いている時点で全く以て「密か」ではないのだが…)趣味として「詩の朗読」というものがある。これは自分自身が酒に酔っているとか酔っていないとか関係なしに、何故か詩は朗読したくなる。小説は全く以てならない。…いや、古井由吉の小説は声に出したくなるな。

それで詩を朗読するとは言え、やはり声に出して読む時の好みみたいなものが実はある。それが先にも書いたが、谷川俊太郎の詩は不思議と読みたくなる。他の詩集、例えば大岡信とか田村隆一とか、それこそ吉岡実とか吉増剛造(初期詩編)など、外国で言えばヴァレリーが好きなのでヴァレリーやブレイクを読んだりするのだが…。「なんか違うな…」と結局、谷川俊太郎に戻ってきてしまうのである。これもまた不思議な現象だ。

以前、谷川俊太郎の魅力について珍しくアツく語ってしまったことがある。

この中でも少し触れているが、恐らく詩の経験、僕等にとっての詩の原初的な体験というのは大抵、まど・みちお、相田みつを、そこら辺に加えて、中原中也の『汚れつちまつた悲しみに』が1人歩きしている。そんな印象がある訳だ。だから、「何となく知っている。詩とはこういうもんか。」と言うのが大体彼らの詩である。まだ、成熟しきれていない時にそれを読んだというのが僕の中の詩の原初的体験である。

谷川俊太郎の初体験は、中学校2年生の頃である。恐らくだけれども、合唱曲としての『春に』と、国語の教科書の冒頭に掲載された詩としての『春に』というインパクトがあったからだと思う。そう考えてみると、谷川俊太郎の詩というのは不思議といつも声と一緒に存在していたというのが僕の経験の根底にはあるのだと思う。

最近、といっても昔だが、不可思議wonderboyが『生きる』という曲を歌った。そのリリックは谷川俊太郎『生きる』を少し僕らの生活寄りにしたものである。だから、やっぱり僕の中のイメージとして谷川俊太郎の詩は常に声と一緒にそこに存在しているような気がしてならないのである。

これはあくまで僕の中での経験上の話というだけである。


僕はここまで書いて、「声」というワードから単純にデリダの『声と現象』がパッと思い出されたのだけれども…。そんなもので語りたくないとも思う。所謂デリダいう所の「音声中心主義」の話になる訳だが、まあ、詩にそんな小難しい話を持ち込むのは些かナンセンスな気がしなくもない。僕は個人的にだけれども、詩はあんまりロジックというか…そういうもので語りたくない。

僕は以前、「形式と内容」というような流れで詩を語ったことがある。今、それを思い返して、実際馬鹿みたいなことを言っているんだなと我ながら感じた。感性で語る、感性…何だろうな。結局その感性っていうのも畢竟すれば自身の経験の産物な訳であって。でも、哲学をベースに考えるというのも自身がそれを読んだという経験から着想を得て…。と考えているうちに何を書きたくなったのか忘れてしまった。

僕はとある作品に出会った時、何でもかんでも理路整然と語ってしまえる人が怖いと思う。例えば、絵画や写真でも良いのだけれども、それを見て「いやね、ここの曲線が凄くて…この技法はこういう技法で…この時代の主流的な描き方はね…云々」と冷静に分析できることに恐怖を感じるようになった。実際、僕もそういう人間な訳だ。「この作品が素晴らしいんだ」と感じた途端に「それはどう素晴らしいの?」とその瞬間に自分自身に問うてしまっている。そうしてnoteに書き出してしまう。

だが、その「素晴らしい」という経験は本来文字にすることなど不可能な訳だ。非常に個人的な経験だからである。アプリオリに感性がある訳ではなくて、アポステリオリに言葉によって感性が創出されて行くその過程が何だか悔しい。だけれども、そもそも人間は言葉という制度に身を置く人間なのだし、過去の記録で書いたが言葉自体が「自然」を体現している訳なのだから、この社会に於いて僕らが言葉を求めるというのはまた必然的なことなのかもしれないなと思ってしまう。

だが、詩を朗読すると、まず最初に来るのは「なんか良い!」という感覚に至る。それはどう説明していいか分からない。ここでこうして頑張って書こうとしているけれども、どうもうまく説明が出来ないのがもどかしい。音と言うか、言葉がこうズンと芯の奥底まで染み渡るみたいな感覚に陥る。それはもしかしたら「詩を朗読している俺ってカッコよくない?」というある種の邪もある訳なのだが、それ以上に重くのしかかってくる何かに出会える。

これをどう言葉で表現すればいいかと長い時間悩み続けたが、辞めた。


僕等は小学生の頃から、音読とかして来た訳で。音読には慣れている。「慣れている」と言うと語弊があるけれども、「声に出して読む」ということへの抵抗感みたいなものはそこまで無いはずだ。特に1人の場合なんかは誰かに聞かれるでもなく、ただ自分しかいないのだから恥ずかしい事なんて何もない。字を間違って読もうが、1行読み飛ばそうが、何をしようが怒られることも無ければ訂正されることもない。

誰にも聞かれない朗読というのは、言ってしまえば自由である。

これもこう書いておいて何だが、「じゃあ、自由って何?」となってしまう訳だが、それも一旦置いておくことにしよう。誰かに咎められる訳でもなく、そしてどれだけ詩をアレンジして読もうとも、誤読をいかにしようとも、思いっきり感情を込めて朗読しても、誰にも何も言われない。どれも認められる。正しいとか正しくないという評定自体がおかしい訳だが、どれも正解である。無限の自分の「世界」の広がりがそこには存在している。

実際、感情を込めて読んでみると色々と発見があったりする。特に文章と言うか、1行の句切れをどこにするかで伝わり方が異なるというのは僕の中で発見だった。これは読んでみないと分からないことだ。ずっと文章を眺めているだけでは見えてこない。それに声に出すとその文章のカッコよさ…というのかな…自分の琴線に響く瞬間っていうのが肌感を以てやってくる。これが面白い所だ。

僕は以前「沈黙は狂乱である」という旨の文章を書いた。

「沈黙すること」、僕にとって「沈黙すること」あるいは「沈黙してしまうこと」というのは要するに僕の中で言葉が渦を巻いている状態だ。声に出しては言わないけれども、心の中では常に狂ったように言葉が溢れている。それを小出し小出しにしながら毎日過ごしているが、友人と飲みに行ったり、気心知れた友人たちとの時間を過ごすと箍が外れたようにその狂乱が表に出てしまう。見えない狂乱。

この「詩を朗読する」という行為も、その「沈黙の狂乱」を自分自身で表に出す行為であるような気がする。これは僕にとっての話である。事実、僕は詩を朗読する時、やたら独り言が多い。「いやあ、ここ良かったよね!ここね…」とか「感情入れて読んでみちゃう?」とか本当にその光景を見られたら愧死するレヴェルなんだけれども…。でも、それが許されちゃうんだよね。なんてったって1人なんだから!


最近、朗読していて好きだった詩の少しを紹介しよう。

kiss

目をつぶると世界が遠ざかり
やさしさの重みだけがいつまでも私を確かめている……

沈黙は静かな夜となつて
約束のように私たちをめぐる
それは今 距てるものではなく
むしろ私たちをとりかこむやさしい遠さだ
そのため私たちはふと ひとりのようになる……

私たちは探し合う
話すよりも見るよりも確かな仕方で
そして私たちは探しあてる
自らを見失つた時に―

(以下略)

谷川俊太郎「kiss」『愛について 』
(巷の人 2003年)

ちょっと、この詩集の良い所があって。実は僕が持っているのは谷川俊太郎が24歳の時に刊行した初期詩編『愛について』の復刊である。しかも、英訳付きである。なんと!英語まで読めるだと!?ちなみに、朗読の際には英語もしっかり読んでいる。本当に素晴らしい詩集である。

まず、最初の部分で僕は心を奪われた訳だ。

この詩のタイトルが『kiss』。そして書出しは「目をつぶると世界が遠ざかり/やさしさの重みだけがいつまでも私を確かめている……」。自分で読んでいて恥ずかしくなったんだけれども、でもその後、描写の凄まじさにやられた自分が居たのが分かった。僕は結構、この言葉を使うんだけれども「言葉にやられる」という経験そのものだった。僕は立って本を読むんだけど、これを読んだときは思わず膝から崩れ落ちた。冗談でも何でもなく。

それで、この良さを今から書いてみようと思ったのだけれども、何だか野暮ったいので辞めた。ただ確実に言えることは、好きな人が出来たら読みたい詩集だなと思った。恋愛偏差値Fラン生の僕にはまだ早い詩集だったのかもしれないと馬鹿みたいなことを考えてしまった。しかし、声に出して読むとそのエロスみたいなものが身体に沁み込んでいくというのだけは確実に分かった。

この詩は多分だけど、黙読だけじゃ分からない良さがあると思う。語り掛けるように朗読することで言葉のエロスであったりとか、そういうものが自分自身の中に入り込んでくる。読んで「ああ、何となく分かる」って文字面だけ見て意味を追えば分かるんだけれども、声に出した途端に言葉が空中分解する感覚。だけれどもどこか分からないでもない感覚。一本の細い線で言葉と僕が繋がれてる瞬間を感じられるのはやっぱり朗読している時なんだな…とキザなことをふと考えてしまう。


僕は朗読が好きだ。特に詩の朗読は。そこらの小説家よりもどことなくだけれども、僕等に寄り添っているような感じがするからだ。とりわけ、谷川俊太郎の詩は特段難しい言葉が使われている訳ではない。そう考えると、僕らの地続きで、本当の意味で人間や自然や、世界を本気で考えている。そんな感じがする。結局「書く」という行為で「自然」「世界」というものにしかならないということを自覚しているのが、僕は唯一詩人だと思う。

かと言って、詩人の全員が全員そうだとは思わないけれども。

そんな、27歳独身男性の夜のオススメでした。

よしなに。

この記事が参加している募集

スキしてみて

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?