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雑感記録(259)

【別に無理に読ませることはない】


昨日、たまたまこんな記事を読んだ。

僕はよく知らないが、この文芸評論家という人が本を出版するとのことでの対談であるらしい。僕は正直2人とも「どちらさん?」という感じなのだが、最近の読書界隈では割と有名な人らしい。特に男性の方は。僕は「ふーん」という感じで読んでいた訳だが、少し気になる点があった訳である。記事の初っ端も初っ端。一連を引用してみよう。

水野 僕は、読書家が読書しない人を見下す態度が好きではないんですよ。本業が編集者でもあるので、そうした層にアプローチしないと、出版界の未来は明るくないと思っています。

(中略)

三宅 今回の新書は、ある意味「ゆる言語学ラジオ」と似たようなことをやろうとしているのかもしれません。普段新書を手に取らない人にも、手に取ってほしいなあ、と。「本を熱心に読むわけではない人に本を届けるには、どうしたらいいんだろう?」と会社にいるときからずっと考えていたような気がします。

「本を読まない人」に読書の楽しさを伝えるためには?
文芸評論家・三宅香帆が「ゆる言語学ラジオ」の水野太貴と考える
「本を読まない人」に読書の楽しさを伝えるためには?文芸評論家・三宅香帆が「ゆる言語学ラジオ」の水野太貴と考える | 集英社オンライン | ニュースを本気で噛み砕け (shueisha.online)
閲覧日:2024年4月21日

まず以て、最初の「読書家が読書しない人を見下す態度」というのが僕にとっては些か承服しかねる訳で、加えて「本を熱心に読むわけではない人に本を届けるにはどうしたらいいんだろう?」という考えそのものに僕は何だか微妙な感じがしたのだ。それこそ、これを書いている人間が所謂「文芸評論家」という肩書を持っている人間が書いている訳で、何か凄く傲慢だなという気がしてならない。両者ともある種、肩書で以て話している感が否めない。まあ、こういうように書いている僕も「読者」という肩書に胡坐をかいてこれからやいのやいのと書こうとしている訳だが。

まあ、まず以て僕として言いたいのは、「何でそこまで読書をさせようとするの?」ということである。僕はそもそも、読書が嫌いな人間であったから無理に「これ読め!」「あれ読め!」などとは言えない。今ではそれなりに読書はしているが、別に上から「読書していない人」を馬鹿にしているつもりは更々ない。


僕も過去に何度か「読書は必要だ」という旨の内容は書いている訳だが、しかし読書を強要しているつもりはないし、今後も強要する気など更々ない。僕のスタンスとして「本なんて読まなくても生きていけるけど、読んだ方が少しはマシになる」という感じだ。だから、僕のこんな記録を読んで「読書は自分にとって必要だ」と思ったらすればいいと思うし、「俺には/私には必要ない」と思ったら別に読まなくていいと思っている。

あくまで、僕は「こういう本を読んだ。こういう点で面白かった。」という自分に向けてというのが前提にある訳なので、プロパガンダ的な要素は全く以て書いていないということだけは、これから僕の記録を読んでくださる稀有な方々には注意しておきたい。

だから、結構初っ端で実は結構カチンときた。

「読書家が読書しない人を見下す態度が好きではないんですよ。」って言うのが腹立たしくて。というのも、何かこの人は言語学だか何だかをやっているみたいだが、そもそも本を読める側の立場にある人間でしょう。これを言っちゃうという時点で既に本人が言っていることとは相反することになっちゃう。これをもし「本当に読書してません」とかいう人が言うのであればまだ分かる。しかし、これが出来てしまう側の人間が言うのは些か卑怯に思われる。

何だか「先手を打っておこう」みたいな感じがして、何だか凄く卑猥な人だなって思う。だが、「出版」という関係、つまりは刊行記念というのが関係してしまうから仕方がないと言えば仕方がない。そういうように対談上、話を持って行かなければならない必要性もある訳だから、そういう状況にならざるを得ないのも何となく分かる。だが、これは少し双方共に、つまり読書している側の人間と、読書していない側の人間を馬鹿にしていると思われて仕方がない。


極めつけは、その文芸評論家という人が「「本を熱心に読むわけではない人に本を届けるには、どうしたらいいんだろう?」と会社にいるときからずっと考えていたような気がします。」って書いちゃう訳でしょう。これはもう堂々と「私は読めますけど!」っていう露骨な態度が現れている気がしてならない。

文芸評論家と名乗るからには読書などして当たり前というか、ある意味でそれを生業としている人な訳でしょう。一般人に比べれば相当な読書をしていることは間違いないと思う。まあ、僕は今の文芸批評家とかいう人たちがどうしているのか知らないから、偉そうに書くことは出来ないけれども。

この文芸評論家がこう考えていること自体が僕から言わせれば「読書家が読書しない人を見下す態度」なのではないかと思われて仕方がないのである。だから、この対談というのは、何度も断っておくが、僕が偉そうに言えたことではないが最初から破綻しているという気がしてならない。

まあ、ただここで僕がこれら一連のやり取りにイライラするということは、自分自身が「読書家」であると烏滸がましくも認識してしまっていることにある。これはいけない。本当に良くないことである。僕は少なくともここで対談されている方々よりは全く以て読書をしている人間ではないので、反省すべき点である訳だ。

また、先にも書いたが、僕はこれを「読者」という視点からやいのやいのと偉そうにその外延部から口出しをしている。しかもだ、こんなのは言ってしまえばただの「いちゃもん」であって、正当な批評でも何でもない。何度も何度も何度も書くようだが、僕が書いていることなんてただの戯言に過ぎない。

だが、それでも腹立たしいと思うことはある。だからこうして書いている。


僕は正直なところ、読書は必要だと思う人がすればいいと思う。前提としてそもそも「読ませようとする」ということ自体、その考え自体が変な感じがしてならない。これまで僕が書いているのはあくまで「自分にとって読書が必要だった」ということを書いているに過ぎない。

その「読書」というものに絶対的価値を置いている人たちなんだなと僕はこの対談を読んでいて思った。そもそも「誰かに寄り添って書く」というように言っている訳だけれども、最初の書き出すキッカケなんて「自分の為」でしょう。僕からするともう徹頭徹尾この人たちは何言ってるんだろうと思いながらこれを読んでいた。

それこそ、何度も引用するようだが、「読書家が読書しない人を見下す態度」のそれなんだな。

僕は書くという行為、ひいては読むという行為は結局、自分本位な行動でしかないと思うんだ。元々、本を書くとかだって書いたら1番最初に読むのはそれを書いた本人なのだ。だから、まずは自分自身が愉しめるか、あるいは自分の考えていることの整理になる訳でしょう。クローズドな行為だったのが、いつからかオープンな行為に移り変わっていったということでしょう。最初っから「読者」なんて想定して書かないでしょう。

言葉を選ばずに言えば、そもそもおせっかいな物言いということである。この僕も含めて。

ハッキリ言わせてもらうなら、「分からないから分かりやすく書く」って言うのが僕からしたら傲慢なことだと思う。というか、それが読書のある種の醍醐味なんじゃないの?とは思う。誰かに分かりやすくしてもらうなんていう文章ばっか蔓延っているから考えられる人が減っているんじゃないのと僕は少なくとも思う。僕等から考えることの喜びを奪っているのはどちらなんでしょう。今なんて調べれば情報が沢山出て来る時代なんだから。そこから考えればいいだけの話だ。


何だか僕はこの対談を読んで、逆に読書の終焉を見た気がする。

何度も言うようだが、自分にとって必要だと感じたら読めばいい。別に全員が全員、読む必要はないと僕は思っている。結局こういう「本が好き」という人も資本に巻き込まれて、読書人口を増やして本を沢山買ってもらって、自分たちの経済や生活を豊かにするという考えが前提にある訳だ。そこから抜け出せるような手段というか可能性があるのが僕は文芸だと思うのだけれども…。だから「そうした層にアプローチしないと、出版界の未来は明るくないと思っています。」というのも結局は本の良さというよりは経済的に潤うかに主眼が置かれている。

結局、資本主義という世界を前提としてスタートされている時点で僕はもうこの対談は意味をなさないと思うし、本の内容についての話がなされていない、その側の話しかしていない時点で「っぽい何か」を彼らも僕と同様な事しかしていないんだなと思ってしまう。そうではないのかもしれないだろうけれども。文芸評論家なんだから。

まあ、僕が気にしすぎなだけの話だ。いちいちこんなの無視しておけばいい。だが、こうして書いてしまうということは、それなりに僕も未練というか、羨望の眼差しがあるからなのだろうと思っている。

とにかく、僕は別に無理して本を読まなくていいと思う。

だって、そんなの面白くないでしょう。

よしなに。


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