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雑感記録(36)

【僕の選書法】


昨日、僕は暇に暇をこじらせて、相も変わらずジュンク堂へ行ってきました。この記録にもある通り、無くなってしまうことが決定しており、今はまだ幸いにも開いているのでこの機を逃すなと言った感じで本を見て回った訳です。いや、しかし、沢山の本に囲まれている空間は最高なんですよね。見て回っているだけでも心が躍ります。

最初は本を購入するつもりは微塵もなかったのだけれども、色々と回って見ているうちに「あ、これいいな」と思い気が付いたら手に沢山の本を抱えていました。

しかし、僕は先週神保町や高田馬場のブックオフで色々と本を購入しています。こんなに本買ったらやばいか…と自身の抱えていた本たちを見つめ、そっと棚に戻しに向かいました。それでも「これだけは欲しいな」と思った作品だけは買おうと決め2冊だけ購入することにしました。

吉本隆明『憂国の文学者たちに』・フーコー『フーコーコレクション5』

吉本隆明は最近、吉増剛造の『詩とは何か』を読んでから興味が湧いた…というか自分の中で再度確認しようと思って購入しました。『共同幻想論』とか『転向論』とか『マス・イメージ論』とか読んできたけれど、大学時代の話で大分前のことなのです。これを機に少し触れなおしてみるのも良いのかもしれない。

フーコーについては結構しょうもない理由で、家にちくま学芸文庫の『フーコーコレクション』が途中まで集めてあって、何故か1巻と5巻を持っていなかったんです。何故そこだけ抜けていたのかは自分でもよく分からないのですが…。ただ、最近の記録で「シミュラークルと真理」の話を書いたんですね。

その時に「真理」ということについて自分自身で考える良い機会だなと思って、フーコーを実はちょこちょこ読んでいたんです。それで「そういえば、フーコーコレクションの『真理』のやつ持っていないな」となりまして、今回購入に至った訳です。偶然か分かりませんが、ちょうどこの『フーコーコレクション5』に吉本隆明とフーコーの対談があってそれが個人的には痺れました。また通訳が蓮實重彦ときたもんだ…。どんな豪華ラインナップなんだか…。


話は少し脱線します。

先週、神保町へ行ってきた話を職場の先輩に話をしたんです。その時に言われたんです。「いつも出掛けると本ばっかり買ってくるんだね。何でそんなに本が選べるの?普通本屋に行ってもそんなに買わないでしょ(笑)」と。いや、まあ確かにごもっともという感じなのですが…。

僕も自分自身で本を沢山購入してくる訳ですが、確かに自分はどんな基準で本を選んでいるのだろうとふと感じてしまったのです。本を何十冊も抱えて神保町を闊歩して、毎回毎回大変な思いをして歩き回る訳ですから、これがもう少し減らせれば…なんて考えてみたりするんだけれども、どうやらそれは無理みたいで…。

最近、どこかの誰かが「選書のコツ」みたいな記事を書いているのを…どこで見たんだったかな…思い出せないのだけれども…。それに触発されてと言うんでしょうかね、今1度改めて自身の選書の基準というのかを改めて確認したいなと思ってこの記録を書いています。

書けば多分、自身がどんな基準を以てして本を選んでいるのがより具現化するのではないかという考えのもと、今日も今日とて殴り書き失礼承知の上で記録してみたいと思います。


〈私的選書方法之記録〉


さてこう書き出してみたものの、実際自分がどんな基準で本を選んでいるかというのは正直難しいなあと思います。ここまで仰々しく書いといて何なんですが。

基本的に僕の選書の基準は大きく3つあると思います。
①好きな作家および周辺作家からの選書
②数珠つなぎ的選書
③信頼の厚い友人の推薦による選書

1つ1つ雑駁に書いてみます。


①好きな作家および周辺作家からの選書

まあ、これは誰しもが通るというか、通常的な選書方法のように思います。好きな作家の作品を読み漁るということですね。僕の場合だと結構好きな作家とかわりといる方だと思いますので、色々と購入してしまうので挙げればキリがないのでここでは省きますが…。

とにかく、自身の好きな作家の作品を選書するのがあることは確かです。例えば僕は大学時代の頃から中野重治の作品が好きで、『中野重治全集』を今現在、絶賛収集中なんですが、こういったことでしょうね。好きなものは手元に置いておきたいという欲望からくるものだと思います。

しかし、ここまで「通常的な選書方法」と言っときながら、実は僕にとってこれはそこまで重要じゃない。というより、この選書方法は正直最近はあまりしない。これは簡単な話で、好きな作家とは言えどもその作品には限界がある。その量的な問題という意味でです。

それこそ中野重治は既に亡くなられて、作品が新たに生まれることはないのです。それはつまり、作品を全部集めようと思えば全部集めることが可能であり、それは同時に終りが見えてしまっているということなのです。(現に僕は『中野重治全集』を集めているのだから、集めること自体は難しくはない。)

作品世界に終りはないけれども、その書物という物質としての作品には限りがある。


②数珠つなぎ的選書

これが実は僕の選書基準の7割を占めていると思います。さっきの①は本当に稀というか、そもそも「好きな作家がいる」っていうことが前提にある訳で、好きな作家がそもそも居なかったらどうすんだってなりますよね。

ただ、何というか僕の場合だとここが面倒くさくて、「好きな作家が本の中で紹介してる(あるいは、ちょっと引用している)から読んでみよう」というところなんだと思います。別に自分自身にとってあまり興味のない作家とかジャンルの作品が紹介していても、多分その紹介されている本に対して興味が湧かないのかなと…。

哲学書やらエッセーやらを読んでいるとこれは非常によくあることだと思いますし、その本自体がそれを知らないとお話にならないからねと言った態度で挑んでくることが殆どだと思います。

例えばですけど、ドゥルーズの『差異と反復』なんてのはライプニッツだったっけ?スピノザだったっけ?どっちか忘れちゃったけど、彼らの思想をある程度頭に入れていないとお話にならない訳です。知らなくても読めるとは思うけれども、苦戦することこの上ないのは僕の実体験から声を大にして言えます。

あとは僕の記録では毎度おなじみ、クロソウスキの『ニーチェと悪循環』とか、ドゥルーズの『ニーチェと哲学』とかもそもそもニーチェを知らないと難しいところがあります。言ってることは何となく分かるけれども、まだ靄を何層にも重ねたような状態で、ニーチェをある程度知っていればその靄が靄であってもその層は薄くなるのです。

ある作品を読むことで、そこから他の作品そしてまた他の作品へと所謂、数珠つなぎのような選書方法ですね。これが結構楽しい。個人的な見解ですが、哲学書などは特にこの数珠つなぎ的選書には向いていると思います。あとは、こういうのが苦手な人は誰か自身の好きな、それか興味のある作家のエッセー集とか文芸批評的な作品を読んでみるといいでしょう。これも何度も何度も僕の記録でお馴染み保坂和志はオススメですね。


③信頼の厚い友人の推薦による選書

これは言わずもがな。説明するのも別に必要ないっちゃ必要ないんですが…。僕の選書の残り2割5分ぐらいはこれですね。

自身が信頼している人からの選書ほど嬉しいものはないですね。かりに自身にとってあまり興味のない作品であっても、自分のために選んでくれて推薦してくれるなんて嬉しいじゃないですか。


最後に

ここまで超絶雑に書いてみましたが、僕の中で分かったことがあります。それは、これらの選書方法は前提として「本が好き」あるいは「好きな作家がいる」という感情というか心持、姿勢が存在しなければ愉しくないということです。(特に①と②に関しては。)

③が結構どの人でもイケるというと変な言いかたにはなりますが、もしかしたら大道なのではないか?本を読むのが好きじゃなくても、好きな作家が居なくても友人からの推薦だから読もうという気にはなる。つまり僕の大前提は間違っていたことになります。①は通常ではなかったのかもしれない。

総じてここで書きたかったのは実は②の方で、これこそ読書の醍醐味だと思うんだよな…ってことを言いたかったが為に殴り書きしたのかもしれない。もしかしたら、先述した「選書のコツ」みたいな記事を読んで若干の疑義というか違和感を感じたからこうして書き記しているのかもしれない。

もうここまでくると自分でもよく分からなくなってくる。これで今日は終いにします。殴り書き失礼いたしました。

よしなに。


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