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雑感記録(146)

【大学生ぶりの勉学…?】


僕は先日こんな宣言をした。

それから今ちょこちょこ書き始めていて、「はじめに」という部分と第1章の導入まで何とか書けたというところだ。これから本格的な分析に入っていく訳だが、やはりかつての自分が書いた文章を読み返して見ると稚拙な部分が多く鼻で笑ってしまう。「若気の至りだ…」と自分自身を納得させてみようと試みるのだが案外うまくいかない。クソみたいなプライドが邪魔をしている。

書き始めて思ってみたのだが、アカデミックな文章が書けない。これは純粋にそういう場から遠ざかっていたということが1番の原因なのだろうが、「論文」と銘打っている以上はそれに則る必要がある。ただ、それに寄せて書こうとすると自身の書きたいことが書けないことに気づく。だから自分の書いた文章を読み返して、何だか宙ぶらりんな文章で凄く心許ない。というより、自分で自分の文章読んで恥ずかしくなる。

そもそも僕は自分の書く文章を自分で読むということが好きだ。ナルシズム。僕の勝手な想像だけれども、文章を書き続けるのであればナルシズムは必要不可欠な条件であるように思われる。それでなければ継続して書き続けるなんてことは仕事ではない以上無理だと僕は感じる。

こう書くと、結構前の記録で引用した園子温の言葉が思い出される。

 とにかく自分を疑わないこと。面白いと思ったことを断念しない。自分を信用しない自分なんて、哀しすぎる。(中略)自分が自分の良き理解者であること。でないと、自分は自分と無関係になっていきます。
 (中略)ただ好きなように自分が面白いと思ったことを追求すればいい。いつの間にか他人はそれを「非道」と決めつけるでしょうが、そんなときも、自分が自分の最も良き理解者であり、パートナーであればいい。自分を見捨ててはいけません。

園子温『非道に生きる』(朝日出版2012年)
P.169より引用

僕はこの言葉のお陰でnoteもそして今回の計画も愉しく出来ている。本当に良い言葉に出会えたと思う。


ところで、こういったこともあり卒業ぶりに大学図書館へ行って資料集めや分析などをしていた訳なのだが、どうも勘が取り戻せなくて困っている。中々集中力が持続しなくて進まないし、ありとあらゆる本がありすぎてどこから手を付けたらいいかと考えあぐねてしまった。

何やらメモメモ…

取り急ぎはプロレタリア文学の発達過程を順を追って丁寧に見ていこうという試みの元、筑摩書房から出版されている『明治文学全集』の第5巻を参照しながら作品の分析を行っている段階だ。しかし、大学生当時の勘は戻らず悪戦苦闘しながら読み続けている。

別にこれは大した話ではないが、明治期の最初の頃の作品は文体も江戸時代の名残が強く残っておりある一定の知識というかそういうものがないと読みにくい。大学時代の頃であれば恐らくサクサク読めるのだろうが、この年齢になって読もうとすると骨が折れる。久々に「ああ、読むって愉しいわ…」と実感している。それにしても難しい…。僕の読解力は多分、いや確実に落ちていることは言うまでもないことだ。

図書館の席に座って支度をして机に向かうのだけれどもそわそわしてしまう。それは静かなところでの作業が苦手であることもあるが、何より卒業以来の図書館なのだから愉しさというか嬉しさの方が勝って拍車を掛けて集中出来なくなっている。

僕は土曜日の午後から集中してやろうと思ったのだが、結局のところ3時間程度の滞在で終わってしまった。しかもその大半は図書館セルフツアー。出だしを失敗した。これもこれでありかと思うが、何だか悔しいというか…。折角の貴重な時間を無駄にしてしまった感が否めない。ま、こういう日もあっていいか。


大人に(自分自身がなれているのか分からないが…)なると多分だけれども、腰を据えて勉強しようというようにはなれない。それは前職で痛い程経験した。仕事から帰ってきても疲労で中々集中できないし、そもそも仕事の勉強なんて興味1ミリもないのだからマイナスからのスタートで、まずそれをゼロの状態に持って行くことから始めなければならない。これが辛い所だった。

今、こうして時間が有り余る中で実際に図書館に行ってこういう勉強をするのは正直愉しいことこの上ない。これをそもそも「勉強」あるいは「勉学」と表現することが正しいのかは置いておくとしても、とにかく僕にはこの時間が堪らなく愉しい。

「勉強って本来こうあるべきだよな」と思わず綺麗ごとNo.1のセリフが僕の頭の中をよぎる。好きなことだけを勉強できるのならば全然それはそれで構わない気がするが、どうも大学に行くまでは広範囲に尚且つ網羅的に勉強しなければならない。自分が特定の分野で「これに興味がある!」となってもそればかり勉強出来る訳では決してない。こう書いてみて、僕はフーコーの『監獄の誕生』を思い出す。(詳しくは「規律・訓練」の該当箇所を参照されたし。)

それが今の学校教育では「探究学習」と銘打ってやられているらしいのだ。多分、僕らが学生の時分に学んでいた「総合学習」の時間をもっと実用的にしたものらしい。一応、僕も出版業界に居るとは言え、どちらかというと教育寄りの出版系なので最近興味関心を持っている所である。

この「探究学習」という時間は本当に少人数のグループで興味関心を持ったテーマについて研究していくという単純明快なものである。テーマは本当に何でも良いらしい。学術的なことから日常生活の些細な問題であったりと取扱われるものは多岐に渡る。実際に前職で働いている時に、その「探究学習」の一環で地元の高校生たちが銀行に来たことがある。これは個人的には凄く面白かった。

しかし、この「探究学習」に使われる時間というのは、やはりどうしても教科科目の時間と比較すると当然ながら少ない。教科科目の時間は必須であり、それをどうこうすることは現状では難しいらしい。こういった教科科目も重要であるが、僕はどちらかというと「探究学習」にも同等数ぐらいの時間が当てられればなんて思う。

現在は塾とかが沢山あるので、塾で教科科目を重点的にやって、「探究学習」を学校の教育現場でメインとまではいかないけれども主軸でやって行くというのが理想なのではないかなと絵空事を考えてしまう。大学に入って痛感することは勿論教科科目の知識もだが、それ以前に考えるということであるように思われて仕方がない。

現に僕は土曜日に図書館に行って調べ物や自身の考えなどを纏めてみるのだが、客観的に見て詰まらないというか通り一辺倒のことしか言ってないやん!となってしまうことが多かった。別にだからと言って小中高の学習が悪いとは思わないが、その段階から「覚える」ということと同時に「考える」ということと正面からきちんと向き合っておけばよかったなと思われて仕方がない。


これまた最近、「大人の学びなおし」なんていう言葉をよく耳にする。どれをどう学びなおすのかは各々の裁量だからどんな風にそれがやられているかは知ったことではない。

これは僕個人の願いであるが、自分が過去に興味関心を持って諦めてしまったこと、現時点で興味を持っていることに対して勉強して欲しいと思う。偉そうに僕が言えたことでは決してないのだけれども…。

何度も言うようだけれども、好きなことは諦めるな。

よしなに。

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